茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子が見つめた死「忘れた秋」
(前回からつづく)
長い闘病生活を克服した人でもあるので、
死をみつめた時間も長かったろうと思います
――と茨木のり子が「別れ」の章の最後に記したのは
若き日の岸田衿子が
東京芸大油絵科へ進学したものの
胸部疾患で画家への道を断念せざるを得ず
詩や散文を書きはじめたという経歴を指していることは間違いありません。
芸大の同級生だった中丸千代子が絵を描き
岸田衿子が文を作ったコラボレーションで
絵本の名作を次々に世に送り出していったはじまりは広く知られたことです。
衿子は1929年(昭和4年)生まれで
1950年前後に大学生だったのですから
このコラボは芸大在学中にはじめられたか
卒業後のことか、
結果的には
早い時期での幸運な出発ではありました。
幸運の影には闘病生活があったということになります。
戦争が終わって
国中が復興の活気で満ちた時代でした。
(茨木のり子は1926年生まれです。)
◇
「二十歳が敗戦」だった茨木のり子より
少し若い岸田衿子もまた
戦争によって青春を奪われた世代に属していますが
彼女にはもう一つの大きな悲しみの事件が
戦争中に起こりました。
母・秋子の死です。
◇
忘れた秋
母 秋子(ときこ)に
どうしてあの人はここにいるのだろう
私たちといっしょにこの夜明け
昨日より大きくなった月の下に
昨日と同じ寝床(ねどこ)の上に
なぜこの人はたった今
息をしなくなったのだろう
私たちがふと話しやんだ時のように
また昨日すやすや眠(ねむ)っていたように
もうあなたは話してはいけないと
誰がこの人に告げるのだろう
きっと私たちより早く知りたいのに
昨日よりもっと静かなこの人は
どうしてまだここにいるのだろう
私たちといっしょの月のいい晩に
(童話屋「いそがなくてもいいんだよ」より。原文のルビはパーレンで示しました。編者。)
◇
この詩は
1955年発行の第1詩集「忘れた秋」(書肆ユリイカ)のタイトル詩です。
衿子の母・秋子は
1942年(昭和17年)に亡くなりました。
戦争の最中の死を
娘は初めて言葉にして悼んだもののようですが
作られたのが死の直後なのか
戦後のことなのか
詩集が発行されたころなのかわかりません。
詩の同人誌「櫂」への参加は
1965年でした。
幼なじみであった谷川俊太郎と結婚したのは1954年(から1956年まで)でしたから
谷川俊太郎との生別が
この詩の背後にあったことも考えられます。
◇
秋子の死が
衿子が画家になる道を断念した背景にあったかどうかは明らかではありませんが
直接的な理由ではなくとも
何らか関わりがあったことも想像できることです。
このことはまた、
死をみつめた時間も長かったろう
――と茨木のり子が岸田衿子についてコメントしたとき
詩人本人が自らの死と対峙したという意味を超えて
秋子の死を視界に入れていたという想像へとつながってゆきます。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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