茨木のり子厳選の恋愛詩・黒田三郎「ひとりの女に」10/「渇いた心」
(前回からつづく)
(茨木のり子の読みを離れています。編者。)
歌いはじめられた戦争の体験は
歌い尽くされるということはないのでしょう――。
「時代の囚人」中の「死のなかに」で
思う存分、戦争を歌った詩人は
歌えば歌うほど
歌い足りないことを認識する円環(循環)にはまったかのように
再び、戦争体験の詩をつくります。
それが
詩集「渇いた心」にまとめられました。
多くは長詩になりました。
のびのびとと言うのは御幣がありますが
吹っ切れたように
戦争(の傷跡)が歌われます。
幾つか読みましょう。
◇
微風のなかで
1
あいつも死に
こいつも死んだと
知らせてまわらねばならないのか
ひとりは
はじめて戦場へ飛び立つ朝
機上で
操縦をあやまり
梢にひっかかって死んだ
ひとりは
肺を病んで
戦場へ立った友ことごとくに忘れられ
さるすべりの花の咲く頃
川ほとりの家で死んだ
死んだ友へあてた手紙の書きかけを
抽斗の古い書反古のなかに見つけ出し
いたずらに
それをまた抽斗のなかにほおりこむ
微風がゆるやかに屋上の旗に吹き
僕の耳のあたりに吹く
微風のなかで
ああ
ひそかに僕はこの数秒を耐える
2
香り高い朝の一杯のコーヒーに
僕の平和があるのだろうか
やすらかな妻の寝息のくり返しに
僕の平和があるのだろうか
真昼の白い砂の上にありが引きずる影のように
ささやかな小市民の平和を引きずって
この世にこうして生きているというのか
小市民のささやかな幸福
それが風にくつがえる艀舟であるならば
風はどこに吹いているのか
それがししの一撃に倒れるシマ馬であるならば
ししはどこの岩かげにひそんでいるのか
小さな窓のなかで
僕は艀舟のように思想の水に浮び
赤い屋根がわらの下で
僕はシマ馬のように欲情のかん木を駈けぬける
3
それは滴り落ちる
こわれた水道の水のように
せきとめてもせきとめても滴り落ちる
すべてが徒労に帰したあとで
僕はつぶやいてみる
別に何事もないのだ
僕はつぶやいてみる
別に何事もないのだ
僕はつぶやいてみる
ああ
ここにこうして
僕は
かって血を流した野を
友を
敵を
憎悪を
恐怖を
どこへやったのか
血にまみれたあらゆるものを
時はまぎれもなく過ぎてゆくのだ
過ぎて行ったあとになって
そこに
こじんまりとした小市民の生活のなかに
何を
見出すというのか
僕は香り高い朝の一杯のコーヒーをのむ
僕はやすらかな妻の寝息の微かなくり返しをきく
4
そこで何をしているのか
がん具を持った子どものように
お前は
何に夢中になっているのか
トカゲを捕えた猫のように
お前は
何に熱中しているのか
お前は
数億の資本を動かす企業家でもない
民衆に福音を説く宣伝家でもない
あるいはまた
他人の生活を憂慮する衛生技師でもない
わずかにお前が捕えるのは
それは
お前の影なのか
すみれ色の夕暮れに浮ぶやせた影
すすきのように思い出にふるえる影
逃げる影
影によりかかる影
影
5
風は破れた窓ガラスから忍び入る
光はくずれた壁穴からかすかにさす
閉ざされた部屋のような空虚な心を持って
それでもひとは眼を高く上げるのだ
未来!
それは
砂にねて
無心に仰ぐ青い空であろうか
人いきれで絶え入りそうな
満員電車の行手に待つ
夕暮れの停車場であろうか
それとも
未来というのは
給料の尽きたひとの待つ
次の給料日のようなものであろうか
そのまた次の給料日でもあろうか
雨ふりにも霧の夜にもはいてでかける
たった一足きりの靴の
寿命のようなものであろうか
(現代詩文庫6「黒田三郎詩集」より。)
◇
戦争は
詩人にとって
純粋に過去のものではなく
現在に影を落とす現在なのです。
つづいて
もう1作――。
◇
ただ過ぎ去るために
1
給料日を過ぎて
十日もすると
貧しい給料生活者の考えのことごとくは
次の給料日に集中してゆく
カレンダーの小ぎれいな紙を乱暴にめくりとる
あと十九日 あと十八日と
それを
ただめくりさえすれば
すべてがよくなるかのように
あれからもう十年になる!
引揚船の油塗れの甲板に
はだしで立ち
あかず水平線の雲をながめながら
僕は考えたものだった
「あと二週間もすれば
子どもの頃歩いた故郷の道を
もう一度歩くことができる」と
あれからもう一年になる!
雑木林の梢が青い芽をふく頃
左の肺を半分切り取られた僕は
病院のベッドの上で考えたものだった
「あと二カ月もすれば
草いきれにむせかえる裏山の小道を
もう一度自由に歩くことができる」と
歳月は
ただ
過ぎ去るために
あるかのように
2
お前は思い出さないか
あの五分間を
五分かっきりの
最後の
面会時間
言わなければならぬことは何ひとつ言えず
ポケットに手をつっ込んでは
また手を出し
取り返しのつかなくなるのを
ただ
そのことだけを
総身に感じながら
みすみす過ぎ去るに任せた
あの五分間を
粗末な板壁のさむざむとした木理
半ば開かれた小さなガラス窓
葉のないポプラの梢
その上に美しく
無意味に浮かんでいる白い雲
すべてが
平然と
無慈悲に
落着きはらっているなかで
そのとき
生暖かい風のように
時間がお前のなかを流れた
3
パチンコ屋の人混みのなかから
汚れた手をして
しずかな夜の町に出るとき
その生暖かい風が僕のなかを流れる
薄い給料袋と空の弁当箱をかばんにいれて
駅前の広場を大またに横切るとき
その生暖かい風が僕のなかを流れる
「過ぎ去ってしまってからでないと
それが何であるかわからない何か
それが何であったかわかったときには
もはや失われてしまった何か」
いや そうではない それだけではない
「それが何であるかわかっていても
みすみす過ぎ去るに任せる外はない何か」
4
小さな不安
指先にささったバラのトゲのように小さな
小さな不安
夜遅く自分の部屋に帰って来て
お前はつぶやく
「何ひとつ変わっていない
何ひとつ」
畳の上には
朝、でがけに脱ぎ捨てたシャツが
脱ぎ捨てたままの形で
食卓の上には
朝、食べ残したパンが
食べ残したままの形で
壁には
汚れた寝衣が醜くぶら下がっている
妻と子に
晴着を着せ
ささやかな土産をもたせ
何年ぶりかで故郷へ遊びにやって
三日目
5
お前には不意に明日が見える
明後日が…………
十年先が
脱ぎ捨てられたシャツの形で
食べ残されたパンの形で
お前のささやかな家はまだ建たない
お前の妻の手は荒れたまま
お前の娘の学資は乏しいまま
小さな夢は小さな夢のままで
お前のなかに
そのままの形で
醜くぶら下がっている
色あせながら
半ばくずれかけながら…………
6
今日も
もっともらしい顔をしてお前は
通勤電車の座席に坐り
朝の新聞をひらく
「死の灰におののく日本国民」
お前もそのひとり
「政治的暴力に支配される民衆」
お前もそのひとり
「明日のことは誰にもわかりはしない」
お前を不安と恐怖のどん底につき落す
危険のまっただなかにいて
それでもお前は
何食わぬ顔をして新聞をとじる
名も知らぬ右や左の乗客と同じように
叫び声をあげる者はひとりもいない
他人に足をふまれるか
財布をスリにすられるか
しないかぎり たれも
もっともらしい顔をして
座席に坐っている
つり皮にぶら下がっている
新聞をひらく 新聞をよむ 新聞をとじる
7
生暖かい風のように流れるもの!
閉ざされた心の空き部屋のなかで
それは限りなくひろがってゆく
言わねばならぬことは何ひとつ言えず
みすみす過ぎ去るに任せた
あの五分間!
五分は一時間となり
一日となりひと月となり
一年となり
限りなくそれはひろがってゆく
みすみす過ぎ去るに任せられている
途方もなく重大な何か
何か
僕の眼に大映しになってせまってくる
汚れた寝衣
壁に醜くぶら下がっているもの
僕が脱ぎ 僕がまた身にまとうもの
(同。)
◇
「微風」と
「生暖かい風」と
二つの詩の間に吹く風に
時の隔たりはない様子です。
◇
これらの詩がつくられた頃に
一人の女と出会い結婚し
一子を授かり
愛に満ちたその暮らしから
多くの詩が生まれました。
それが
詩集「ひとりの女に」であり
詩集「小さなユリと」でした。
◇
この二つの詩集の間に
詩集「渇いた心」は刊行されました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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