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2015年11月

2015年11月27日 (金)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」6

(前回からつづく)

 

「わたし」の眼差しの先にいる「夫や子どもたち」には

友達同士のような

物腰のやさしい夫と立派な子どものイメージ

――と記したのは

まったく思いつきの、

勝手な想像であって

そんなことを思わない人もたくさんいることでしょう。

 

茨木のり子が母系制を持ち出し

主体は女性の側にあるとまで読み込んだのに釣られて

ついつい

想像をたくましくしてしまったようです。

 

 

茨木のり子は「海鳴り」の詩行のどこに

母系制下の、主体的な女のイメージを

読み取ったのでしょうか。

 

詩の中に

それは記されてあるものなのでしょうか。

 

記されているとしたら

第3連にしか考えられませんが

敢えて言えば、

わたしは待つ 

夫や子どもたちが駈けてきて

――にあると特定できるでしょう。

 

しかし

そもそも詩をそのように分析することには

気が赴きません。

 

詩は

血のようなものですから

一つの塊のようなものですから

理屈で分析しはじめると大事なものを見失ってしまいそうです。

 

 

ならば

詩の背後を読みこなしてきた詩人の想像力の所産なのでしょうか。

 

それもあることでしょう。

 

あるいは

同志としての「勘」みたいなものでしょうか。

 

それもあるでしょう。

 

あるいは

女性同志の連帯感みたいなものが

深読みを可能にするのでしょうか。

 

そうとも言えるでしょう。

 

 

ここでは、茨木のり子が

「遊ぶ」という言葉が輝いていると述べた後に

いつかやってくるだろう夫と子供たち、ととれば未来のことになりますし、

すでにいる夫や子供たちと思ってもかまわないでしょう。

――と続けているところに目を向けておきましょう。

 


このところは

この詩「海鳴り」を恋唄の章に配置した 

茨木のり子の企(たくら)みに繋がっていくでしょう。

 

そして、さらに

夫や子供たちが駈けてきて

世界の夢の渚で遊ぶのを。

――という第3連の詩行をピックアップしているところに

目を向けておきましょう。

 

 

確かに、この「遊ぶ」には

遊園地のメリーゴーランドの親子の風景というようなイメージはなく

もっともっと削ぎ落された

素朴なイメージの親と子があるようであり

茨木のり子が「新品」とさえ言う「遊び」のイメージが

そこに生まれるようであります。

 

母系制との繋がりを明確に表明しているものではありませんが

ここにそれはあるでしょう。

 

茨木のり子は

第3連のこの詩行について

さらに次のような読みを加えます。

 

曰く――。

 

このイメージは朝もやのように煙(けむ)って夢幻的な美しさ、

第1連、第2連の小さな子宮を越えて、

茫々としたひろがりをもっています。

 

(「詩のこころを読む」より。改行を加えました。編者。)

 

 

少なくともこのあたりまでは

「海鳴り」という詩を

詩行に沿って茨木のり子は読んでいます。

 

 

乳房

海鳴り

地球

砂地

わたし

夫と子どもたち

世界の夢の渚

……。

 

このようにして

「世界の夢の渚(なぎさ)」は

この詩「海鳴り」が収められている詩集の

タイトル詩である「見えない地面の上で」(のテーマ)へと

接続していきます。

 

 

誰にも見えない

誰にも見えなかった

場所。

 

見えない大地

見えていない地面。

 

「海鳴り」の作者は

誰も見ようとしなかったもの

詩人自身も見てこなかったものを

こうして見つめようとしたらしいのです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年11月21日 (土)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」5

(前回からつづく)

 

女性の生理現象と

月の満ち欠けと

(地球の海の)潮の干満とが

シンクロナイズする壮大なスケール感は

壮大であっても凸凹(でこぼこ)を感じさせない自然な感じで繋がっています。

 

 

この繋がりの根源には

言葉(メタファー)の力がからまっていて

純粋に自然現象の解説でないことは

この詩が詩であることの理由でもあります。

 

詩が歌っているのは

宇宙の構造とか

地球の海の潮とかではありませんし 

天文学でも

宇宙物理学でも

4次元の世界でもありません。

 

にもかかわらず

それらをモチーフにした意図が

存在すると言わねばならないでしょう。

 

メタファーとか想像力とか……は

その存在理由の一つなのでしょう。

 

 

そのように受け取れるのは

魔術のようなものではなく

かといって科学というものでもなく

思い付きでもひらめきでもなく

この詩がもっている言葉の質によるものでありそうですが

その理由をここでこれ以上分析することは差し控えておきましょう。

 

 

ここでは

あっと驚くような茨木のり子の読みに触れて

ふたたび「口直し」としましょう。

 

茨木のり子は

この詩「海鳴り」のスケールに突き動かされたかのように

大らかな読みを施(ほどこ)します。

 

 

第3連では、

まるで古代の母系制社会のように、

主体性は女の側にあり、

堂々と健やかで、

「遊ぶ」という言葉が、

まるで新品のように洗い出され、輝いています。

 

(「詩のこころを読む」より。改行を加えました。編者。)

 

 

そういえば

わたしは待つ 

――の「わたし」の眼差しには

古代・邪馬台国(ヤマタイコク)の女王・卑弥呼(ヒミコ)の

アルカイック・スマイルのような面影が漂うのを

感じ取ることができます。

 

そして

「わたし」の眼差しの先にいる「夫や子どもたち」には

友達同士のような

物腰のやさしい夫と立派な子どものイメージが漂うのを感じます。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

2015年11月18日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」4

(前回からつづく)

 

そうやって いつまでも

わたしは待つ 

夫や子どもたちが駈けてきて

世界の夢の渚(なぎさ)で遊ぶのを。

 

 

「海鳴り」の第3連だけを

こうしてピックアップしてみても

どこか不足な感じがするのは

当たり前のことです。

 

なんの感興も湧かないといえば

言い過ぎになるでしょうが

詩の一部を引っ張って

詩(の全体)を読むというのは

所詮、無理なことであるからでしょう。

 

そうやって いつまでも

――という1行が指し示すのは

第1連、第2連が歌った時間(空間)のすべてですし

その時間(空間)と連続した「現在」のすべてであるからです。

 

 

ここに来て

この詩の不思議な言葉使いに

気づかないわけがありません。

 

たとえばそれは――。

 

 

「ふたつの乳房」が

詩の作り手によって現実に知覚されている女性のからだの一部であり

それにみなぎってくるものがある時に

「海鳴り」の音を聴く――という第1連は、

ここ=地上の、いわば3次元の現実。

 

今、ここに感じられているからだ(の現象)によって

海鳴りの音を聴くということが

実際に起こったのか起こった気がしたに過ぎないのかを問わず

比喩(メタファー)ではなく

現実の「描写」です。



にもかかわらず
次の第2連では、

わたしのからだに起こっているそのことが

月の満ち欠けと地球の海の干満にシンクロナイズ(連動)し

海の波に洗われる「わたしの砂地」に成り変わるのです。

 

「砂地」は子宮のメタファーです。

 

「砂地は洗われつづける」もメタファーです。

 

 

現実の「からだ」が

いつしかメタファーである「わたしの砂地」へと連なってゆく。

 

この流れは

不思議というより

なんらのストレス(違和感)もないところに

詩の言葉のたくみがあり

それは自然でもあります。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年11月 9日 (月)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」3

(前回からつづく)

 

「海鳴り」という詩もまた

何度も何度も読み

繰り返し、時を置いて読んでいると

少しわかってくるようなところがあるのは

すべての詩に共通する味わい方の一つでしょう。

 

 

ふたつの乳房に静かにみなぎってくるものがあるときに

耳を澄ませば聴こえてくる海鳴りの音――。

 

それを男性は実感することはできないのですが

詩語・詩行に沿って

想像力のありったけをしぼってみれば

それに近い状態をしのぶことができそうでもあります。

 

海鳴りが聴こえてくる状態を

想像できるような感覚。

 

 

それは男女の違いを認識する瞬間でありますが

不思議なことに

どう考えても同じ生物であることの内の違いであることを知る瞬間でもあります。

 

遠い存在、遠い聖域でありながら

どこか分身でもあるような、

仲間であるような

ホモサピエンスとして同列のはずであるという、

妙な感覚。

 

……。

 

 

やはりここで茨木のり子の力を借りましょう。

 

もやもやとしたものが残るのを

スカッとさせてくれますから。

 

茨木のり子は次のように

きっぱりとまとめてくれます。

 

 

月の満ち欠けに関係ありと言われてきた女の生理現象を、

第1連、第2連で触れています。

 

男よりも、より自然に近い女のからだのリズム、

そのようなリズムをくりかえしていながら、

心はどうあれ、

からだは月々確実に待っているのです。

 

(「詩のこころを読む」より。改行を入れました。編者。)

 

 

第1連、第2連までの読みを

こんなにも簡潔に的確に言い表すことができるのは

やはり女性だからでしょうか。

翳(かげ)りというものが微塵(みじん)もありません。



第3連へ読み進めては

この詩の価値(新しさ)がさらに浮き彫りにされます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年11月 6日 (金)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」2

(前回からつづく)

 

「海鳴り」は

高良留美子が1963年から6年間に作った詩を集めた

第3詩集「見えない地面の上で」に収録されています。

 

今(2015年)からおよそ半世紀前に作られた

高良留美子30歳代前半の詩です。

 

 

といったところで

詩の制作年を知っても

それが詩の読みに何か役立つものではないことに

すぐさま気づいてしまう――という詩です。

 

ある日ある時に作られたという

特定の時間であるよりも

この詩が孕(はら)んでいる時のスケールが

ぐんと大きいので

その「時」は無用であるかのようなものです。

 

おそらくこの詩の最大の個性(特徴)が

ここにありますが

はじめは冒頭連の、

 

ふたつの乳房に

静かに漲ってくるものがあるとき

――に目を奪われ

それがどのような「時」なのか

ことさら男性には実感できるものではないから逆に

それが、

遠くの海鳴りの音へと連なっていく流れに

ストレスなく誘われていくからでしょう。

 

 

この「時」は

太古の昔から

女性が感知してきたはずの悠久の時間であるに違いなく

ある日ある時、

そしてある所で誰それがという

WHを超えた普遍性を持っている時間といってよいでしょうか。

 

 

そのような時間が

月の満ち欠けにシンクロしてやってきては

「わたしの砂地」を洗っていく。

 

わたしは洗われ続ける。

 

 

ここでもう一度

原詩を読みましょう。

 

 

海鳴り

 

 

ふたつの乳房に

静かに漲(みなぎ)ってくるものがあるとき

わたしは遠くに

かすかな海鳴りの音を聴く。

 

月の力に引き寄せられて

地球の裏側から満ちてくる海

その繰り返す波に

わたしの砂地は洗われつづける。

 

そうやって いつまでも

わたしは待つ

夫や子どもたちが駈けてきて

世界の夢の渚(なぎさ)で遊ぶのを。

 

         ――詩集「見えない地面の上で」

 

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。)

 

 

 

女性は

自分のからだを訪れる

周期的な自然の波(リズム)に聞き耳を立てて

いつまでもいつまでも待っています。

 

すると

やがてそこは

夫や子どもたちが駈け寄って来ては遊ぶ世界の夢の渚になっている

――

 

 

乳房と海鳴り。

 

月と地球(の海)。

 

波と砂地。

 

夫と子どもたちが遊ぶ世界。

夢の渚。

 

 

今まさに

わたしは悠久の自然のなかにあるようですが……。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

 

2015年11月 4日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」

 (前からつづく)

 

「恋唄」の章で

男性の詩ばかりを読んできた茨木のり子は

最後に女性の恋歌を読みます。

 

女のひとの詩も少し読みましょう。

――と、その入り方(筆致)は実にさりげないものですが

 「万葉集」以来の女歌の歴史の中に

現代女性の恋歌を位置づけて(比較して)

「はるかに光ったものを発見」するのです。

 

 

最初に登場するのが高良留美子(こうら・るみこ)の次の詩です。

 

 

 

海鳴り

 

 

ふたつの乳房に

静かに漲(みなぎ)ってくるものがあるとき

わたしは遠くに

かすかな海鳴りの音を聴く。

 

月の力に引き寄せられて

地球の裏側から満ちてくる海

その繰り返す波に

わたしの砂地は洗われつづける。

 

そうやって いつまでも

わたしは待つ

夫や子どもたちが駈けてきて

世界の夢の渚(なぎさ)で遊ぶのを。

 

         ――詩集「見えない地面の上で」

 

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。)

 

 

 

はじめ、いったいこの詩の

どこが恋愛詩なのだろう?という疑問を禁じえませんでした。

 

実を言うとその解読のために

この1か月以上を費やしてきました。

 

今少しづつ少しづつ

この詩人の大きさが見えてきて

茨木のり子が取り上げた「詩のこころ」が

少しづつ分かってきたところ――と言うのは早すぎるでしょうか。

 

この詩人の詩や評論のほんの一部をかじって

現在進行中ですが

その苦闘さながらの読みを記しておくのも

それほど無意味ではない、きっと。

 

そう思って

えいや、と「初めて読む高良留美子」をはじめます。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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