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2015年11月18日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」4

(前回からつづく)

 

そうやって いつまでも

わたしは待つ 

夫や子どもたちが駈けてきて

世界の夢の渚(なぎさ)で遊ぶのを。

 

 

「海鳴り」の第3連だけを

こうしてピックアップしてみても

どこか不足な感じがするのは

当たり前のことです。

 

なんの感興も湧かないといえば

言い過ぎになるでしょうが

詩の一部を引っ張って

詩(の全体)を読むというのは

所詮、無理なことであるからでしょう。

 

そうやって いつまでも

――という1行が指し示すのは

第1連、第2連が歌った時間(空間)のすべてですし

その時間(空間)と連続した「現在」のすべてであるからです。

 

 

ここに来て

この詩の不思議な言葉使いに

気づかないわけがありません。

 

たとえばそれは――。

 

 

「ふたつの乳房」が

詩の作り手によって現実に知覚されている女性のからだの一部であり

それにみなぎってくるものがある時に

「海鳴り」の音を聴く――という第1連は、

ここ=地上の、いわば3次元の現実。

 

今、ここに感じられているからだ(の現象)によって

海鳴りの音を聴くということが

実際に起こったのか起こった気がしたに過ぎないのかを問わず

比喩(メタファー)ではなく

現実の「描写」です。



にもかかわらず
次の第2連では、

わたしのからだに起こっているそのことが

月の満ち欠けと地球の海の干満にシンクロナイズ(連動)し

海の波に洗われる「わたしの砂地」に成り変わるのです。

 

「砂地」は子宮のメタファーです。

 

「砂地は洗われつづける」もメタファーです。

 

 

現実の「からだ」が

いつしかメタファーである「わたしの砂地」へと連なってゆく。

 

この流れは

不思議というより

なんらのストレス(違和感)もないところに

詩の言葉のたくみがあり

それは自然でもあります。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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