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2015年12月 9日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」と「木」と

(前回からつづく)

 

女性が自分のからだ(の仕組み)に

心の底から贈った讃歌――。

 

これを

恋唄と呼ばないほうがおかしいということがわかってきました。

 

「海鳴り」のような詩は

2015年現在では

なんら珍しくはなさそうで

探せば幾つか類似した詩は見つかりますが

ざらにあるものではありません。

 

女性が作ってきた詩の歴史の上に

「海鳴り」は見つけるのが難しい稀有(けう)な詩です。

 

改めてそのように

気づかされるエポック・メーキングな詩です。

 

 

いにしえの恋歌は、

「わたしをもうお見限りなのね、あんまりですわ」というのが圧倒的に多い

――と茨木のり子が言う平安朝時代のものに比べれば

なんという違いでしょう!

 

 

「海鳴り」が収録されている詩集「見えない地面の上で」が作られたのが

1963年から6年間のことでした。

 

この6年間の詩作について

高良留美子自身が振りかえっている短章「三つの詩集のあとがき」を読んでおきましょう。

 

「見えない地面の上で」について書かれた

結びの部分には、

 

それはまた、日本の伝統的な自然や感性を新しい眼で見直すことともつながっていた。

 

私はいま、人びとの生活のなかに、これまで私の見過してきたきた多くの人間の行為が、

夢想が隠されているのを感じている。私はそれらの行為を、夢想を書きたいと思う。

(思潮社「高良留美子詩集」)

――と記されています。

 

 

この下りは直ちに

「海鳴り」の「月の満ち欠け」への眼差しを想起させることでしょう。

 

「海鳴り」は

歪められ、隠蔽されているものの奥底に潜んでいるものでありながら

世間に浸透し拡散している常識とか迷信とか習慣とかに

新たな生命を吹き込む(インスパイアする)ような

眼差しに貫かれていました。

 

 

いま目の前にある木が

木の真の価値(意味)を隠されたり

捻じ曲げられていたりするのを

もう一つの眼で眺めて

なにかもっと他のものであるかもしれない――。

 

この木は

飾り立てられ

埋(うず)もれ

見えなくされているものかもしれない――。

 

この木には

別の顔があるのかも知れない――。

 

「木」もそのように読んで

間違うことはないでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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