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2016年2月

2016年2月28日 (日)

折に触れて読む名作・選/茨木のり子「六月」

 

 

 

きっぱりと

竹を割ったような物言いを身上とする詩人は

それでも

押さえに押さえて

ようやく吐き出す「感情」があるようです。

 

 

六月    

                

どこかに美しい村はないか

一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒(ビール)

鍬(くわ)を立てかけ 籠を置き

男も女も大きなジョッキをかたむける

 

どこかに美しい街はないか

食べられる実をつけた街路樹が

どこまでも続き すみれいろした夕暮は

若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

 

どこかに美しい人と人の力はないか

同じ時代をともに生きる

したしさとおかしさとそうして怒りが

鋭い力となって たちあらわれる

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉1」所収 詩集「見えない配達夫」より。)

 

 

ようやく。

 

最後まで言わず、

最後になって吐き出す。

 

その「感情」の名は怒りです。

2016年2月27日 (土)

折に触れて読む名作・選/茨木のり子「最上川岸」

 
 

 

「鯛」の次にありました。

 

目にとまり

そのまま終わりまで読んで

目が開かれる思い。

 


 
最上川岸

 

子孫のために美田を買わず

 

こんないい一行を持っていながら

男たちは美田を買うことに夢中だ

血統書つきの息子に

そっくり残してやるために

他人の息子なんか犬に喰われろ!

黒い血糊のこびりつく重たい鎖

父権制も 思えば長い

 

風吹けば

さわさわと鳴り

どこまでも続く稲の穂の波

かんばしい匂いをたてて熟れている

金いろの小さな実の群れ

<あれはなんという川ですか>

ことこと走る煤けた汽車の

まむかいに坐った青年は

やさしい訛(なまり)をかげらせて 短く答える

<最上川>

彼のひざの上に開かれているのは

古びた建築学の本だ

 

農夫の息子よ

あなたがそれを望まないのなら

先祖伝来の藁仕事なんか けとばすがいい

 

和菓子屋の長男よ

あなたがそれを望まないのなら

飴練るへらを空に投げろ

 

学者のあとつぎよ

あなたがそれを望まないのなら

ろくでもない蔵書の山なんぞ 叩き売れ

 

人間の仕事は一代かぎりのもの

伝統を受けつぎ 拡げる者は

その息子とは限らない

その娘とは限らない

 

世襲を怒れ

あまたの村々

世襲を断ち切れ

あらたに発って行く者たち

無数の村々の頂点には

一人の象徴の男さえ立っている

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉1」所収 詩集「鎮魂歌」より。)

 

 

きっぱりと

こうまで言い切る。

 

「鯛」もそうでした。

 

 

血が噴き出すような

また、返り血を浴びたに違いない。

 

プロテストと呼びもしたい。

 

 

2016年2月26日 (金)

折に触れて読む名作・選/茨木のり子「鯛」

 
 
茨木のり子に動物をタイトルにした詩は

多くはありません。

 

そのことに意味があるのか

わかりませんが

「鯛」は

「鶴」の対極にあるような詩です。

 

というと誤解を招きます、か。

 

 

読んでみるのが

先決です。

 

 

 

早春の海に

船を出して

鯛をみた

 

いくばくかの銀貨をはたき

房州のちいさな入江を漕ぎ出して

蜜柑畠も霞む頃

波に餌をばらまくと

青い海底から ひらひらと色をみせて

飛びあがる鯛

珊瑚いろの閃き 波を蹴り

幾匹も 幾匹も 波を打ち

突然の花火のように燦きはなつ

魚族の群れ

 

老いたトラホームの漁師が

船ばた叩いて鯛を呼ぶ

そのなりわいもかなしいが

黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり

鍛えられた美しさを見せぬ

怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも

なぜか私をぎょっとさせる

どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ

どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

 

偉い僧の生誕の地ゆえ

魚も取って喰われることのない禁漁区

法悦の入江

愛もまた奴隷への罠たりうるか

海のひろさ

水平線のはるかさ

日頃の思いがこの日も鳴る

愛もまたゆうに奴隷への罠たりうる

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉1」所収 詩集「鎮魂歌」より。)

 

 

もしも、

「自由」を補助線に引いたらば

二つの詩は近づくのかもしれません。

 

 

末尾の、「日頃の思い」に

詩人の思念が偲(しの)ばれます。

2016年2月25日 (木)

折に触れて読む名作・選/茨木のり子「鶴」

鶴はいま、どうしているか?

もうとっくに

インドの平原に降り立っているだろうか。

 

オホーツクに流氷が見られ

ようやく網走の海に接岸したというニュースを聞いていて

ふとアネハヅルのヒマラヤ越えを思い出しました。

 

同時に

茨木のり子の「鶴」を読みたくなりました。

 

 

 

鶴が

ヒマラヤを越える

たった数日間だけの上昇気流を捉え

巻きあがり巻きあがりして

九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を

越える

カウカウと鳴きかわしながら

どうやってリーダーを決めるのだろう

どうやって見事な隊列を組むのだろう

 

涼しい北で夏の繁殖を終え

育った雛もろとも

越冬地のインドへ命がけの旅

映像が捉えるまで

誰にも信じることができなかった

白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系

突き抜けるような蒼い空

遠目にもけんめいな羽ばたきが見える

 

なにかへの合図でもあるような

純白のハンカチ打ち振るような

清冽な羽ばたき

羽ばたいて

羽ばたいて

 

わたしのなかにわずかに残る

澄んだものが

はげしく反応して さざなみ立つ

今も

目をつむれば

まなかいを飛ぶ

アネハヅルの無垢ないのちの

無数のきらめき

 

    一九九三・一・四 NHK「世界の屋根・ネパール」

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉3」所収 詩集「倚りかからず」より。)

 

 

大きな鳥が空を飛ぶのを

肉眼で見ることは

普通の人は

まずないことでしょう、一生の間にも。

 

今でこそ

You Tubeで容易に見られますが(→Demoiselle Crane or Mongolian Common Crane

1993年のNHKの映像を見た詩人は

残像の消えないうちに

この詩を作りました。

 

ドキドキする詩人の心臓の音が

刻まれたような言葉が

こちらにも響いてくるような。

 

 

 

 

 

2016年2月24日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「月」から「塔」へ

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月は「生活」のなかで

 

別の顔を見せます。

 

 

 

 

 

 

街路樹の月

 

 

 

街路樹は各々その茂みのなかに

 

一つのガラスの月を持っている。

 

 

 

 

 

 

柳の月、アカシアの月。

 

(宇宙をはしる月!)

 

 

 

 

 

 

とらわれた月はうなだれて

 

舗道を照らしている

 

舗道に埋もれた

 

ひとの心を照らしている。

 

 

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「生徒と鳥」より。)

 

 

 

 

 

 

これらの月は

 

「塔」最終連に現れる月に接読するでしょうか?

 

 

 

忍耐がかんじんだ。

 

リラの花が海辺をかざるのは夜だけではない。

 

月は虹のあいだに逸楽の砂地を見たのだ。

 

 

 

――と書かれた月に。

 

 

 

 

 

 

断定はできません。

 

 

 

「塔」はさらに

 

暗喩の強度を上げます、次のように。

 

 

 

はなやかな仮装が地獄の道を通って行った。

 

何時かえってくるか知れぬ、

 

だが祭りはたしかに酔いしれた鉄骨に不思議な作用を及ぼしたのだ。

 

 

 

(改行を入れました。編者)

 

 

 

 

 

 

とりわけて謎めいているのが

 

「酔いしれた鉄骨」――。

 

 

 

酔いつぶれベロベロになった

 

鉄骨→ビルディング→建築物→屋台骨→家……か。

 

 

 

祭りが

 

前後不覚の頑固で頑丈な構造へ

 

思いもよらない効果を生んだ、か。

 

 

 

 

 

 

ふたたび「作品」が思い出されます。

 

 

 

「塔」のプロローグのように置かれたあの短詩です。

 

 

 

 

 

 

一つの堕落

 

その上につみあげられ、鉄骨の下まで染み通っていった

 

もう一つの堕落

 

君は珈琲店で淡々として母の<淫蕩>を語る。

 

 

 

(「わが二十歳のエチュード」より。)

 

 

 

 

 

 

鉄骨は塔とどのような関係にあるでしょうか?

 

 

 

謎がまた立ち上がります。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

2016年2月22日 (月)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「大洪水」そして「月」

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「風」は

 

はじめ、家並みをぬって吹く風であり

 

次に、石壁の前に立ちどまり

 

次に、少しずつ死んでいき

 

最後には、死に絶えます。

 

 

 

こうして擬人化された風が

 

現れては消えてなくなる過程で

 

家並みや枯枝や街角や

 

壁や少女や

 

少女の髪の毛やらに交渉(関与)し

 

存在しなくなった街角に

 

別のものがたりがはじまる

 

――という物語を語り終えて

 

詩は終わりました。

 

 

 

 

 

 

詩集「生徒と鳥」は

 

「冬」

 

「大洪水」

 

「月」

 

「燃える人」

 

「街路樹の月」

 

「雨の日」

 

――などの同系列の詩をところどころに並べ

 

「公園で」「生徒と鳥(1)」「塔」を経て

 

「風」へと至ります。

 

 

 

 

 

 

「塔」へという求心力のいっぽうで

 

「風」からという遠心力を感じさせるような構造といえるでしょうか。

 

 

 

「塔」(の系列詩)のもつ物語性を読むのに

 

「風」(の系列詩)はヒント以上の役割を果たしているようです。

 

 

 

 

 

 

「風」を読んだ眼差しには

 

同系列の詩群が

 

親密になっているのを感じることができます。

 

 

 

いくつかに

 

目を通しましょう。

 

 

 

 

 

 

大洪水

 

 

 

広い地面

 

周囲にコンクリートの高い壁

 

風ひとつ立たない

 

地面に石ころがころがっている

 

 

 

何の変哲もない石っころ

 

石ころの中に水がある

 

水の鏡に空が映る

 

 

 

石ころの中の水が少しずつ増殖する

 

すると水に映った空も増殖する

 

石ころの中で、水と空とが増殖する

 

 

 

一滴の水が

 

地面にこぼれ落ちる

 

やがて地面は水でいっぱいになる

 

 

 

空でいっぱいになる

 

水と空とが押しあって

 

コンクリートの壁を壊してしまう

 

 

 

 

 

 

世界中の地面にころがっている石ころが

 

水と空とを増殖しはじめる

 

波ひとつ立てないで

 

水が一滴石ころからこぼれ落ちる

 

 

 

 

 

 

素粒子の世界とでもいってよい

 

物質の爆発のメカニズムを見るような――。

 

 

 

この爆発につづいては

 

月への狙撃。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月をねらって射つ!

 

すると月は笑って、

 

その銀の笑いは

 

わたしの魂の

 

眠っている枝から

 

百羽の鳥を誘い出す。

 

 

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「生徒と鳥」より。)

 

 

 

 

 

 

月を射つというのは

 

じっくり見る、というほどのことでしょう。

 

見上げる姿勢は

 

いつも目撃の姿勢です。

 

 

見ているだけで

 

何かが解き放たれる

 

爽快感。

 

 

 

 

 

 

 

 

この詩に巡りあえてもはや

 

高良留美子ファンであるかもしれませんが

 

これらの詩は

 

第1詩集のほんの一部に過ぎません。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月21日 (日)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/詩集「生徒と鳥」の「風」その3

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少女が「風」のなかで

 

石壁のなかに消えたのはなぜなのか。

 

――と問うと

 

答えは見つからないかもしれません。

 

 

 

その問いは

 

自然ですが

 

「風」は自然を描写しているものではありませんから。

 

 

 

そのように問うのは勝手ですが

 

そう問うと詩のなかに入っていけません。

 

 

 

 

 

 

「風」は

 

第1連、第2連、第4連(終連)を

 

自然に読むことはできても

 

第3連を読むには努力が要ります。

 

 

 

どのように書かれているか

 

もう一度読んでみると――

 

 

 

石壁のなかに消えた少女、

 

その油気のない髪の毛のなかを吹きぬけながら

 

その背の高さで、風もまた少しずつ死んでいく。

 

 

 

――となっています。

 

 

 

この連の主格もまた風です。

 

 

 

少女は

 

風が死んでいくという主述関係の副詞句に過ぎません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、という強い理由があるわけではないのですが

 

少女はここで死んでいません。

 

 

 

少女(詩人)は

 

第4連で「ものがたり」の発端にいるのです。

 

 

 

 

 

 

ここに来て

 

いったい「風」という詩は

 

何を歌っているのでしょうか

 

――という問いが有効です。
 

 

 

 

この問いは

 

いったい風という自然現象は

 

なんなのでしょう。

 

――という問いを問うのと似ています。

 

 

 

風は、

 

自然の風は、

 

ようやく意味を持ちはじめたようです。

 

 

 

 

 

 

ここで単なる自然の風は

 

象徴の風に変成しています。

 

 

そのことを

 

ふたたび「作品」を構成していた詩を読んで

 

確認することができるでしょう。

 

 

 

 

 

 

雲と銀杏(いちょう)

 

 

 

ぐんぐん体を伸ばした白雲は

 

ついに太陽に足をかけた

 

銀杏の樹は真っ裸で

 

髪を逆立てて立ちはだかった

 

天に突き出したその幾百の腕は

 

荒れ狂う風に

 

雲をむち打ってばりばり鳴った

 

 

 

 

(学芸書林「わが二十歳のエチュード」より。)

 

 

 

 

 

 

 

 

この詩の「荒れ狂う風」は

 

いまだ自然の風でした。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月19日 (金)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/詩集「生徒と鳥」の「風」その2

(前回からつづく)



 

 

 

 

 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表現が一線を越える

 

――といっても

 

一線を越えてしまってあちらの世界(非現実)に行ったままであるだけではなく

 

こちら(現実)にも同時に踏みとどまっている状態を捉える

 

――という方法がシュールレアリズムのようですから

 

矛盾したその状態こそに真実はあるに違いなく

 

その方法で創られた詩や絵画や映画などを

 

よく見かけることができます。

 

 

 

 

 

詩集「生徒と鳥」をざっとめくると

 

たとえば

 

冒頭詩「昨日海から…」に、

 

 

 

昨日海からやってきて

 

海の暗さについて語った男

 

波の底に見開いている

 

黒い眼について語った男。

 

 

 

――とある「波の底」の「黒い眼」

 

 

 

 

 

たとえば

 

「走る子供」に、

 

 

 

子供は小さな豚になって

 

牧場だと思った空に浮かんでいた、

 

 

 

――とある「子供は小さな豚」

 

 

 

 

 

たとえば

 

「大洪水」に、

 

 

 

 

 

何の変哲もない石っころ

 

石ころの中に水がある

 

水の鏡に空が映る

 

 

 

――とある「石ころの中に水がある」なども

 

矛盾が矛盾のまま存在するシーンです。

 

 

 

 

 

 

 

 

これらは

 

メタファーというよりも

 

シュールです。

 

 

 

波の底が眼であり

 

子供が豚であり

 

石ころの中に水がある

 

――という瞬間(イメージ)が

 

詩(人)によって捉えられた(感知された)のです。

 

 

 

言葉にされたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

これを謎と見なすのは

 

矛盾を矛盾と見るまなざしのせいです。

 

 

 

矛盾だ非論理的だ出鱈目だと見なす

 

正当なまなざしのせいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「風」の「石壁のなかに消えた少女」を

 

こうして受け入れることができるでしょうか。

 

 

 

となれば

 

そう生やさしくはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

「風」には

 

何度も何度も読んでも

 

なお到達できない山頂みたいな謎が待ち構えていて

 

それを越えなければなりません。

 

 

 

一つの名前の断片

 

一つの音

 

別のものがたりの発端がはじまる

 

――などの詩語(詩行)が

 

最後の問いのように聳(そび)えています。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月18日 (木)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/詩集「生徒と鳥」の「風」

 

(前回からつづく)




 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集タイトルが「生徒と鳥」であり

 

タイトル詩に(1)と(2)があり

 

その間に挟まれているのが

 

「塔」と「風」であるとき

 

否が応でも(いやがおうでも)

 

その間にあるものに目を奪われないわけにはまいりません。

 

 

 

その上、「塔」は

 

詩人自ら度々言及するいわれのある詩ですから

 

勢い目を凝(こ)らして読んでいますが

 

芯に至れば至るほど謎が沸き起こり

 

ますます目を離せません。

 

 

 

詩の芯には

 

決して触れることのできない穴(のようなもの)があって

 

数式を解くようには掴めないことになっているとでもいうかのように

 

詩は謎のままです。

 

 

 

 

 

 

ということになって

 

「風」に目を向けてみる気になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜の家並みをぬって風が吹く

 

枯れ枝を鳴らし

 

街かどで渦まきながら。

 

 

 

石壁の前で、風はとつぜん立ちどまる

 

壁にしみだした黒いしみ、

 

そこに一人の少女が立っている。

 

 

 

石壁のなかに消えた少女、

 

その油気のない髪の毛のなかを吹きぬけながら

 

その背の高さで、風もまた少しずつ死んでいく。

 

 

 

そして風の死に絶えたあと、夜の街かどで

 

一つの名前の断片と、一つの音から

 

別のものがたりの発端がはじまる。

 

 

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「生徒と鳥」より。)

 

 

 

 

 

 

一読して

 

どこかで見覚えのある感覚が起こるのは

 

すぐさま「わが二十歳のエチュード」中の「作品」の

 

最後に置かれた詩「雲と銀杏」です。

 

 

 

そこに、

 

 

 

荒れ狂う風に

 

雲をむち打ってばりばり鳴った

 

――とあった風です。

 

 

 

「塔」に続く詩に現れる風です。

 

 

 

この風が

 

詩集「生徒と鳥」の「風」につながります。

 

 

 

 

 

 

こちらでは

 

風は主格ですが……。

 

 

 

詩は

 

通常ではない世界に踏み込むような

 

これまでの詩の方法とは異なった

 

シュールな詩行を生み出します。

 

 

 

 

 

 

第2連、

 

石壁の前で、風はとつぜん立ちどまる

 

――というあたりは

 

風が立ちどまるという通常の擬人法ですが

 

 

 

第3連、

 

石壁のなかに消えた少女

 

――となると

 

詩の表現は一線を越えています。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月17日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「生徒と鳥(2)」

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生徒と鳥(1)」は

 

詩集の配置では

 

「塔」

 

「風」

 

「生徒と鳥(2)」

 

――と続きますが

 

ここで「生徒と鳥(2)」を読みましょう。

 

 

 

同名の詩なので

 

お互いに連絡しているはずですから。

 

 

 

 

 

 

生徒と鳥(2)

 

 

 

土ぼこりをたてて生徒の列が行く

 

(空にはつめたい光があった)

 

 

 

列のうしろにいた少年は

 

行手の石段にむかってかけよった

 

拳銃にうたれた一羽の鳥が

 

石段の途中に死んでいた。

 

 

 

教師の視線を感じながら

 

少年は鳥を手にとった

 

そのやわらかな胸毛をとおして

 

ひえていく鳥のからだにかれは触れた。

 

 

 

土ぼこりをたてて生徒の列が行く

 

(空にはつめたい光があった)

 

 

 

生徒の制服の胸のおくにも

 

ひえきった小鳥の死があった

 

熱風にまかれて夜明けの空を

 

もえる街に落ちた鳥の死が。

 

 

 

そのからだをかれは幼い日

 

やけ落ちたお宮の石段の上で見た

 

くろこげの木がかれの町の空をつきさし

 

かれの心をつきさしていた

 

 

 

土ぼこりをたてて生徒の列が行く

 

(空にはつめたい光があった)

 

 

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「生徒と鳥」より)

 

 

 

 

 

 

行分けが小刻(こきざ)みになり

 

ルフラン(繰り返し)もあり

 

いっそう形への意図が明確になりました。

 

 

 

全部で7連の詩ということになりますが

 

うち3連が2行のルフラン

 

ほかの4連は4行でできています。

 

 

 

ルフランは

 

それだけでリズムを生み

 

ほかの連の行数(4行)を規制し

 

音数律までをも誘発して

 

朗読の道を開くかのようです。

 

 

 

少なくとも

 

物語の枠組みを告げる語りの役を果たしています。

 

 

 

 

 

 

形(定型)への志向が明らかになった一方

 

意味内容もくっきりし

 

漢字熟語を制限する表記が意識され(ひらがなの使用)

 

難解なメタファーも消えました。

 

 

 

このようにして詩が分かりやすくなり

 

伝達に重心が移ったように感じるのも道理といえましょう。

 

 

 

 

 

 

いま、生徒の行列は

 

砂ぼこりをあげて行進しています。

 

 

 

「生徒と鳥(1)」の砂漠に

 

接続する時間と空間が示されているのでしょう。

 

 

 

こちらは夢の中のようではなく

 

リアルな時間が流れている様子です。

 

 

 

主格は

 

行列の中から飛び出した少年です。

 

 

 

少年は

 

石段に死んでいる鳥に駆け寄り

 

今まさに死んでゆく鳥を手に取ります。

 

 

 

ここまでで

 

詩の半分です。

 

 

 

 

 

 

少年の胸には

 

今手にしている鳥の死ではない

 

もう一つの小鳥の死が存在しています。

 

 

 

熱風に巻かれて

 

夜明けの空に焼け落ちた鳥――。

 

 

 

戦争の焼け跡で見た

 

小鳥の死が突如、よみがえるのです。

 

 

 

少年は幼い日に

 

焼け落ちた石段の上に死んでいる鳥を見ました。

 

 

 

 

 

 

さて……。

 

 

 

詩に現れる少年が

 

詩人である必要はありませんが

 

詩人でない必要はいっそうありません。

 

 

 

少年は少女であっても

 

いいでしょう。

 

 

 

 

 

 

「公園で」

 

「生徒と鳥(1)」

 

「塔」

 

「風」

 

「生徒と鳥(2)」

 

――という配列は

 

詩集「生徒と鳥」のほぼ中心部にあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


中心部の中心には

 

 

 

 

 

「塔」があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月15日 (月)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「生徒と鳥(1)」続

 

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生徒と鳥(1)」は

 

完全な行分け詩でもなく

 

完全な散文詩でもなく

 

散文詩が改行(1行空き)を加えられ

 

結果、連の形を持った散文詩になっていて

 

「塔」と似た構造の詩です。

 

 

 

 

 

 

連と連の間には

 

時間と空間の転換があり

 

場面が展開しますから

 

4連の詩と読めば

 

ここでも起承転結の流れを読むことになりますが

 

それでいいのかはわかりません。

 

 

 

 

 

 

意味やメッセージを追うことができる詩なのか

 

そもそもそのあたりがわかりませんが

 

意味を否定する詩ではなさそうですから

 

追いかけてみますと――。

 

 

 

 

 

 

主格のかれ・生徒の行動が記述されています。

 

 

 

生徒だから教師がいて

 

教師が生徒をどこかへ連れて行く途中で

 

鳥に会ったところで

 

詩の表面からは消えてしまいます。

 

 

 

生徒に重要なのは鳥であることを引き立たせるためにだけ

 

教師は現れたかのようです。

 

 

 

生徒は

 

眼の大きい、脚の太い古代の鳥にあいさつし

 

一緒に歩きだします。

 

 

 

第1連は

 

このような「物語」のはじまり(起)です。

 

 

 

 

 

 

鳥と生徒は、

 

砂漠の中の国へ行きます。

 

 

 

そこでは、はだしの黒い男たちが荷を運んでいる。

 

 

 

ここまでは自然な描写のようですが

 

次の1行から尋常ではない風景が立ち現われます。

 

 

 

広場があり立派な建物があるけれど誰も住んでいないところに

 

扇風機が回っていて

 

骸骨の形をした男たちは

 

くさいところで

 

裸で眠るのです。

 

 

 

黒い男たちのほかに

 

骸骨の形をした男たちが出てきます。

 

 

 

(ここで1字下げで改行され、1行空きではないけれど、第3連の形になります。)

 

 

 

 

 

 

重い荷物が砂漠の中を運ばれ、海の遠くの国へ運ばれた、

 

だが、すべては黒い男たちの知らないことだった。

 

――と第3連は、やや引いた感じで語られ、

 

続けて、最終連。

 

 

 

生徒は

 

物乞いする、足の萎(な)えた少年の眼の中に

 

黒い大洋を見た

 

――と閉じるのです。

 

 

 

 

 

 

物乞いする足なえの少年は

 

どこかリアルな存在感があります。

 

 

 

その少年の眼の中に映る黒い大洋が

 

想像力を刺激します。

 

 

 

 

 

 

砂漠の中の国

 

誰も住まない広場の立派な建物

 

ひとり回る扇風機

 

骸骨の形した男たち

 

くさいところ

 

……と

 

夢の記述かと思わせるようなメタファーの連続が

 

俄(にわ)かに現実味を帯びるような感覚を起こさせます。

 

 

 

 

 

 

黒い男たちの「黒」と

 

「黒い大洋」の「黒」が

 

錯綜(さくそう)し反響するのが妙です。

 

 

 

絶妙ですし

 

謎です。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

2016年2月13日 (土)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「生徒と鳥(1)」

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

「塔」は

 

1953年に「作品」の一部として書かれ

 

1958年発行の第1詩集「生徒と鳥」に収録されました。

 

 

 

行分け詩――散文詩――行分け詩で構成されていた「作品」が

 

散文詩の部分を独立して「塔」と題され

 

発表されたということになります。

 

 

 

この時、改行が加えられ

 

散文詩でありながら

 

4連の形になり

 

現在の「塔」となりました。

 

 

 

はじめ自動速記で書かれた散文詩に

 

わずかですが「形」が整えられたのです。

 

 

 

 

 

 

「わが二十歳のエチュード」中の「作品」にも

 

それが作品であるための「形」への意志を読むことができます。

 

 

 

行分け詩・散文詩・行分け詩

 

――という配列そのものに

 

その意志の一つはあります。

 

 

 

このように配列された詩の

 

一つ一つの詩の内容(モチーフ)が

 

連続していようといまいと

 

全体で「作品」となったのには

 

理由があったに違いありませんから。

 

 

 

 

 

 

「塔」はところが

 

「生徒と鳥」に発表されたときには

 

「作品」中の散文詩だけが選択されました。

 

 

 

そして

 

公園で

 

生徒と鳥(1)

 

 

 

生徒と鳥(2)

 

――と並ぶ配列で新たに登場します。

 

 

 

詩集のタイトル詩である「生徒と鳥(1)」へ

 

こうしてたどり着きます。

 

 

 

 

 

 

「生徒と鳥(1)」

 

 

 

 かれは生徒だ。で教師がかれをつれて行く。どこへ行くかわからない。教師にもよくわか

らない。二人は途中で鳥にあった。眼の大きい、脚の太い古代の鳥だ。生徒は鳥にあいさ

つする、それから鳥と一緒に歩き出した。

 

 

 

 鳥と生徒はある砂漠の中の国へ行った。はだしの黒い男たちが荷を運んでいた。広場の

立派な建物には誰も住まず、扇風機がひとりで廻って、骸骨の形した男たちはくさいところ

ではだかで眠る。

 

 重い荷物が砂漠の中を遠い国から運ばれてきて、海を越えて遠くの国へ運ばれた。すべ

ては黒い男たちのまったく知らないことだった。

 

 

 

 生徒は物乞いする足なえの少年の眼の中に、かれらの黒い大洋をみとめた。

 

 

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「生徒と鳥」より。)

 

 

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月10日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「塔」へ9

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

1953年の高良留美子の認識では

 

ランボーの挫折の必然を読み取っていたのですが

 

後にその認識が修正されたのか、されなかったのか

 

その認識を支えるのはマルクスの「ドイツ・イデオロギー」でした。

 

 

 

 

 

 

その認識へ至るのに

 

ランボーが媒介となったことは

 

ここで銘記しておかなければならない

 

重大なポイントです。

 

 

 

「わが二十歳のエチュード」というネーミングがそれを十分に物語っていますが

 

小林秀雄にはじまる「ランボーという事件」が

 

戦後10年になって

 

女性の詩人にも波及していたことを知るだけでも

 

現在では当たり前のことのようですが

 

ランボーの栄光と言わねばなりません。

 

 

 

「塔」に

 

ランボーの影があるとすれば

 

なおさらのことになります。

 

 

 

 

 

 

詩の「外」から

 

「塔」の中へ――。

 

 

 

第1詩集「生徒と鳥」の中で

 

最も早い時期に作られた「塔」が

 

発表した作品の第1番ということではないにせよ

 

デビュー作と言って過言ではないでしょう。

 

 

 

詩人の出発時に

 

「少女たちよ」と呼びかけられた

 

その少女たちの女性性こそに

 

詩人のあらゆるものが詰まっているとも言うことができるでしょう。

 

 

 

 

 

 

「塔」の呼びかけは

 

詩人自身へのエールであることは間違いありません。

 

 

 

「わが二十歳のエチュード」の「10月24日 スケッチ帳2に」に現れた「作品」は

 

散文詩「塔」に続いて

 

次の行分け詩を置いて

 

あたかもそのエールにエールを送っているかのような詩です。

 

 

 

 

 

 

雲と銀杏(いちょう)

 

 

 

ぐんぐん体を伸ばした白雲は

 

ついに太陽に足をかけた

 

銀杏の樹は真っ裸で

 

髪を逆立てて立ちはだかった

 

天に突き出したその幾百の腕は

 

荒れ狂う風に

 

雲をむち打ってばりばり鳴った

 

 

 

 

 

 

バリバリ

 

――になんとも強い響きがあります。

 

 

 

幾百の腕は

 

もちろん銀杏です。

 

 

 

銀杏は

 

後に

 

銀杏並木のイメージになって

 

高良留美子の詩に度々出現します。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月 7日 (日)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「塔」へ8

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それこそ私が少女時代を通してたたかってきた敵だったのだ。

 

 

 

――と記述するにいたった「それ(敵)」について

 

詩人はそれを自覚した日から

 

その時も

 

その時以後も

 

現在も

 

たたかいを続けているに違いない

 

巨大なテーマのようなものであることが明らかです。

 

 

 

「それ」は

 

一言でいえば

 

「女」の問題――。

 

 

 

 

 

 

「塔」は、

 

「それ」と深く繋がっています。

 

 

 

塔が崩れてから二千年

 

――という「塔」の冒頭行は

 

女がそのような状況に置かれるようになった歴史的時間のすべてを意味することでしょう。

 

 

 

 

 

 

ぐるぐるぐるぐる回りながら

 

詩への入り口を探すのは

 

穴を掘るようなことであると知り

 

暗闇はいよいよ大きくなっていくようですが

 

大きくなった暗闇はまた

 

詩(世界)の大きさ(スケール)に匹敵(ひってき)するようでもあります。

 

 

 

 

 

 

学校帰りの少女たちよ

 

――と「塔」の中で呼びかけられる少女たちは

 

こうなっては詩人自らも含まれることになりますが

 

詩はそのように読むことを強要されるものではありません。

 

 

 

そう読むのは自由ですが

 

詩人はこれを「作品」とした時から

 

「こちら」から「あちら」に詩を投げ出して

 

「こちら」(=私)と「あちら」(=世界)に距離を置いたのでした。

 

 

 

断絶することによって

 

所有するという

 

作品化のプロセスを経過しました。

 

 

 

 

 

 

「塔」の制作に

 

アルチュール・ランボーの影があるのは

 

「最も高い塔の歌」(この影響があるかも断定できませんが)ばかりではありません。

 

 

 

「わが二十歳のエチュード」中の「日付のない文章17」は

 

先に引用した「悪夢」の記述に連なっていますが

 

これには「ランボーの女性観」という見出しがつけられてあります。

 

 

 

その後半部は

 

ランボーの詩にあらわれる「女に対する思想の変化」がまとめられています。

 

 

 

①1870年頃の詩

 

②1871年5月15日の手紙

 

③1873年の「地獄の季節」

 

――とランボーの詩文をピックアップして

 

ランボーの女性観の変化をたどったものの③では、

 

 

 

「おれの下の方に女共の地獄を見た」。女たちの地獄が彼の地獄よりさらに“下”の方にあ

るという認識

 

――と詩人はメモし、

 

これらの変化にコメントを加えます。

 

 

 

 

 

 

 右のように、期待と希望にあふれた肯定から「女共の地獄」という認識へ進んだことを見て

 

も、ランボーの「自然肯定」が挫折せざるを得なかったことは明らかだ。なぜなら、私有財

産制度――分業社会――はまず子孫の再生産における分業によって、男と女を分裂させ

ているからだ。なぜなら、私有財産制度――分業社会――はまず子孫の再生産における

 

分業によって、男と女を分裂させているからだ。

 

 

 

(「わが二十歳のエチュード」中「Ⅱ 愛すること生きること、女であること 1953年」より。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月 4日 (木)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「塔」へ7

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

穴――。

 

 

 

掘れば掘るほど大きくなっていく暗闇。

 

 

 

もう少しで

 

向こうが見えそうなのに。

 

 

 

突き抜けることはできるのか。

 

 

 

詩(ことさら現代詩)を読むことは

 

なんと穴を掘る作業に似ていることでしょうか。

 

 

 

 

 

 

「わが二十歳のエチュード」から

 

「塔」と関係していそうな部分を

 

もう少し引いておきましょう。

 

 

 

 

 

 

 今、私は彼の自由をはっきりと見る。彼はやっと私から離れたのだ。だがそれを見た瞬間

私の中を通り過ぎたあの渦巻きの暗さは何か。肉、物体、女、髪の香り、やわらかな胸の

厚み、さらに甘え、母のひざ、伝統、等という言葉が通り抜ける。ああ、私は彼の自由が、

あのような形であらわれるだろうとは、期待していなかったのだ。

 

 

 

あのような形……はっきり言うことはむずかしいが、それは私の中に真黒な渦を巻き起さ

せたもの、まさに肉、物体、女……等という言葉の並列、あたたかさ、柔らかさ、ふくらみ、

純粋、といった一般的な言葉によって表現される非個性的な何かだ。この男、この女でなく

とも、またこの男の肉体、この女のからだでなくともすましうる何か、常にその中に一般性

を見ていることの何かだ。

 

 

 

それは恐ろしい没個性、人間を引きずり込んで沈めてしまう伝統の沼ではないのか。私は

その中に沈められてしまうのは真っ平だ。どんより曇った空の下で鈍く光っている平らな、

貪欲な重い液状の世界(私にはそうとしか思えない)、それこそ私が少女時代を通してたた

かってきた敵だったのだ。

 

 

 

(学芸書林「わが二十歳のエチュード」中「Ⅱ 愛すること生きること、女であること 1953年」より。改行を加えました。編者。)

 

 

 

 

 

 

これらの言葉は

 

「塔」とまったく関係ないものであるかもしれません。

 

 

 

因果関係どころか

 

かえって「塔」から

 

遠ざかる結果となることかもしれません。

 

 

 

そもそも詩は

 

詩の外に意味を読み取るものではありませんので

 

この引用はかなりのリスクを犯していることです。

 

 

 

 

 

 

しかし、この記述の終わりの行、

 

 

 

それこそ私が少女時代を通してたたかってきた敵だったのだ。

 

 

 

――に至るとき

 

ここに「塔」への契機があるのを

 

感じてしまって無理もないことでしょう。

 

 

 

これが

 

塔が崩れてから2千年

 

――とまっすぐに繋(つな)ながっていることを

 

否定できるものではありませんから。

 

 

 

 

 

 

さてここでまた

 

「塔」が書かれた実際のきっかけは

 

目白の喫茶店で高校時代の級友が打ち明けた

 

両親の確執(かくしつ)にあったことを思い出すことになります。

 

 

 

この夜に一気に自動速記されて出来あがった詩が

 

「塔」でした。

 

 

 

 

 

 

いっぽう、

 

Yとの恋愛関係が進行するさなかの

 

1953年のある日に

 

「塔」は書かれたことをも思い出さずにはいられません。

 

 

 

 

 

 

そうです!

 

 

 

「塔」は

 

この二つのきっかけが交差するところから生まれた作品だったのです。

 

 

 

 

 

 

作品が生まれる謎は

 

解き明かそうとする飽くことのない努力とともに

 

謎を謎のままにしてあたためておくのが

 

醍醐味ですから

 

これ以上のことを言うのはやめておきましょう。

 

 

 

そのことによって

 

作品の謎(作品そのものが持つ謎)

 

いよいよ作品を魅力あるものにし

 

作品としての価値を高めるというようなことも起こります。

 

 

 

 

 

 

こうして

 

詩集「生徒と鳥」に

 

公園で

 

生徒と鳥()

 

 

 

生徒と鳥()

 

――と並ぶ詩が

 

一つの流れのように配置されている意図を

 

つかみかけています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 塔が崩れてから二千年、不幸は何処にもなかった。学校がえりの少女たちよ、この篠懸

通りの石段は君たちの脚幅には大きすぎる。赤い陽がまわり、君たちの頬は夕焼け色に

かがやく。わたしは君たちの悩みを追うまい、それはある月のある宵、家伝の金蒔絵の箱

に閉じこめられてしまったのだ。誰のとも知れぬ葬列は延々としてつづくではないか。

 

 

 

 塔が崩れてから二千年、不幸はひとびとの頭上で怪物に化け、誰ももう幸福の幻影さえ

描くことができない。弾丸が満月をかすり、塔が昇天するのを見た。血が濁った水を押し流

す、問いがうずまく。塔が見つかるのは何処の夏だろう。街の片すみで君は臆病そうな、し

かし堅固そうな瞳を光らせていたっけ。商店街は扉を閉ざし、安時計が時を刻む。「生活」

は銀杏並木に降る。

 

 

 

 舟のともづなを解こう。

 



 ふくろうは茂みの中で眼をむくだろう。人間共の、人間共の小心翼々がおまえにわかる

か。だがかれらと同じ赤い血が身内に流れている場合、それはまことにつらい拒否となる。

 

 

 

 忍耐がかんじんだ。リラの花が海辺をかざるのは夜だけではない。月は虹のあいだに逸

楽の砂地を見たのだ。葡萄の実はうれる。はなやかな仮装が地獄の道を通って行った。何

時かえってくるとも知れぬ、だが祭りはたしかに酔いしれた鉄骨に不思議な作用を及ぼし

たのだ。

 

 

 

(思潮社「高良留美子詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月 1日 (月)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「塔」へ6

(前回からつづく)



 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

謎が謎を生み

 

時折は永遠が見えるような

 

何かをつかんだような

 

離れて行くような。

 

 

 

「塔」がかかえている時間が

 

大きすぎるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

「廃墟のなかから」という小自伝は

 

「高良留美子詩集」(思潮社)が発行された少し前、

 

1970年頃に書かれたはずですから

 

その頃の記憶で

 

「1953年1月だったと思う」と「塔」が書かれた経緯が記されています。

 

 

 

ところが「わが二十歳のエチュード」では

 

1953年10月24日という日付に

 

「スケッチ帳2に」として

 

「塔」はその原初の形を現わします。

 

 

 

 

 

 

2014年刊行の「わが二十歳のエチュード」は

 

最近になって

 

資料を収集し直した上で編集したもので

 

記憶ではなく記録を根拠にしていますから

 

制作日が修正されたことになるのでしょう。

 

 

 

こちらを決定稿と考えてよいでしょうから

 

どちらが正しいのかなどと詮索するのは無駄なことです。

 

 

 

1月か10月か。

 

 

 

そんなことより

 

前年1952年ごろから

 

詩人は恋愛の中にあり、

 

「愛」というテーマと格闘していたさなかでした。

 

 

 

一連に繋がる時間の中で

 

「塔」は書かれ

 

「作品」は書かれたのでした。

 

 

 

 

 

 

詩人としての出発となった1953年は

 

2歳上の、師であり同志である、

 

Y(後の作家・竹内泰弘)との愛の関係が

 

「決定的瞬間」を迎えて

 

詩人ならではの内面のたたかいに苦闘していた時でした。

 

 

 

「不思議な出来事」と自ら呼ぶ事件を経るなかで

 

詩人は詩を書きはじめました。

 

 

 

「塔」は

 

詩人が認める第1作といえる詩でした。

 

 

 

 

 

 

ここで見ておきたいのは

 

「塔」は

 

頂点(始原、根源)とか、

 

芯(謎、核心)とかいうべきところに

 

存在(位置)しているという一点です。

 

 

 

 

 

 

第1詩集「生徒と鳥」に

 

「塔」が配置された理由(わけ)は

 

このようにくっきりしています。

 

 

 

では

 

「わが二十歳のエチュード」に

 

「塔」が現われる理由は何だったのでしょうか。

 

 

 

なぜ

 

愛の関係の真っ最中(頂点?)に

 

「塔」は書かれたのでしょうか?

 

 

 

その答えのヒントを

 

詩人自身の言葉から

 

拾っておきましょう。

 

 

 

 

 

 

「10月24日 スケッチ帳2に」に「作品」はあり

 

続いて「11月」の項が立てられた中にある記述です。

 

 

 

「わが二十歳のエチュード」第2章が

 

「Ⅱ 愛すること生きること、女であること 1953年」とタイトルされた

 

あたかも核心の芯のような記述の一部です。

 

 

 

 

 

 

 私は悪夢にうなされていたのだ。二千年の歴史がよみがえるのだ。長いあいだ、じつに

長いあいだ「物」、肉塊、道具、にされつづけて来た女の、巨大な脅かすようなコンプレック

ス。それが私の脳髄の中で黒雲のようにわき起り、内部から圧しつける。何千年かつづい

た不幸な夜々のすべてが、私の中によみがえる。錯乱した脳髄、肉体の中に閉じこめられ

た意識の混濁、たよりなさ、裏切り、嫉妬、涙、陰鬱、凶暴な怒り、ヒステリー、意志になる

ことのできない欲望の渦、胸の中だけで必死に叫ぶ拒否の言葉、あきらめしか残されてい

ない狭い生活、自由でない女が男の自由を見た時に感じるあのどうにもやり場のない暗

さ、それらのものが一瞬、真黒な渦をまいて過ぎ去った。

 

 

 


 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

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