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2016年3月

2016年3月31日 (木)

滝口雅子アウトライン特別編/茨木のり子の恋愛詩「私のカメラ」続

 

(前回からつづく)

 

 

 

 

茨木のり子の「私のカメラ」が詩集「鎮魂歌」に収められ発表されたのは1965年。

 

滝口雅子の「青春の詩集」は1967年、

詩集「鋼鉄の足」は1960年の発行です。

 

「鋼鉄の足」の後半部「Ⅱ」に

男や性をあつかった詩の流れがあるのは

その一部を見てきた通りです。

 

 

1960年に滝口雅子と茨木のり子とは面識があり

面識どころか、

日向あき子宅での学習会のような集まりに参加していて

互いに影響しあう関係にあったということの反映とは言えまいか。

 

これらはほんの一部のことかもしれませんが

作品への響き合い、連続し接続する関係を

物語っているように思えてなりません。

 

 

滝口雅子が「私のカメラ」をどのように読んでいるか

「青春の詩集」をめくってみましょう。

 

それは第3章「恋のよろこび」に配置されています。

 

第2章「恋にめざめるあなたに」を経て

いまや恋のさなかに「あなた」はいます。

 

初めて自覚された恋ごころは

やがて男によって開かれてゆく――。

 

恋心の芽生えを

滝口雅子は次のように記します。

 

 

“初恋”のたんたんとしたものが、次第に目をひらいて、朝露にぬれているすがたは、人が示すさまざ

まな姿のなかでも、最も美しいものの一つであろう。

 

 不安が花弁を風も吹かないのにふるわせていて、まだ肉体的な愛を自覚しないときでもある。

 

 それは、暁の空の色のように清らかであるが、何かを予期させるものである。

 

(二見書房「青春の詩集」より。)

 

 

そして、

D・H・ロレンスの「緑」という小品を読みます。

 

ロレンスは言うまでもなく

小説「チャタレー夫人の恋人」の作家であり、詩人です。

 

 

志賀勝訳

 

暁は林檎の色の緑だった

空は日光にささげられた緑の酒だった

月はその間の金色の花弁だった

 

彼女は眼をひらいた、すると緑色に

その眼は輝いた、はじめて莟(つぼみ)を破った色が

はじめて人に見られたように

 

(同。一部、ルビをふり、新漢字に直しました。編者。)

 

 

まだ幼さの残っている少女は多分、男の手のなかにある。

男の目は多分、太陽のように強く光っている。

少女の目が、初めて世界をみた時のようなみどり色に輝いているのを見ている。

 

――という数行で

滝口雅子はこの詩を捉えます。

 

恋に性の芽生える瞬間です。

 

そしてロレンス文学へひととおり言及したのちに

「私のカメラ」を読むのです。

 

 

この流れの理由は明確です。

 

女性の側から男性の美を歌ったのが

「私のカメラ」であるという理由です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

2016年3月29日 (火)

滝口雅子アウトライン特別編/茨木のり子の恋愛詩「私のカメラ」

(前回からつづく)

 

滝口雅子編著の「青春の詩集」のなかに

茨木のり子の「私のカメラ」があるのも

偶然のことではないでしょう。

 

ややこしくなってきましたが

茨木のり子の「詩のこころを読む」に導かれて

滝口雅子の恋愛詩を読んでいるうちに

散文に目をやっていて「青春の詩集」を読んでいると

中に茨木のり子の恋愛詩「私のカメラ」が鑑賞されてあるのにぶつかりました。

 

 

私のカメラ

 

それは レンズ

 

まばたき

それは わたしの シャッター

 

髪でかこまれた

小さな 小さな 暗室もあって

 

だから わたし

カメラなんてぶらさげない

 

ごぞんじ? わたしのなかに

あなたのフィルムが沢山しまってあるのを

 

木洩れ陽のしたで笑うあなた

波を切る栗色の眩しいからだ

 

煙草に火をつける 子供のように眠る

蘭の花のように匂う 森ではライオンになったっけ

 

世界にたったひとつ だあれも知らない

わたしのフィルム・ライブラリイ

 

(二見書房「青春の詩集」より。)

 

 

この詩の中の、

 

木洩れ陽のしたで笑う

波を切る栗色の眩しいからだ

煙草に火をつける 

子供のように眠る

蘭の花のように匂う 

森ではライオンになったっけ

――のような男へのまなざし。

 

 

滝口雅子に限らず

多くの詩人が

目、眼、瞳……見ることへの関心から無縁でいるはずもありませんが

第4詩集「見る」をもつほど

滝口は視覚へのこだわりの強い詩を残しました。

 

男もしばしば

その「見る」対象になりました。

 

 

たとえば、「若もの」は

全行が若者の像の描写にちかいものです。

 

先に読んだばかりの「男S」には

 

腰はドラム罐

肩に這い上る肉の“こぶ”

 

とか

 

横顔の深い“しわ“

木綿生地の厚い“しわ”

 

などとあるのは記憶に新しいことです。

 

 

「私のカメラ」の茨木のり子と

滝口雅子の幾つかの詩は

相互に響き合いますが

それが実作の場面で意識されていたかはわかりません。

 

互いにライバル意識みたいなものが

あったかもしれませんし

偶然であったかもしれません。

 

 

滝口雅子が「青春の詩集」に

茨木のり子の「私のカメラ」を選んだのは

なんといっても

それが恋愛詩の名作であるからです。

 

詩集「鎮魂歌」(1965年)に収められています。

 

この恋唄に歌われている男(=あなた)が

夫君・三浦安信であることは

もはや知る必要もないことでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

2016年3月28日 (月)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? アウトライン「青春の詩集」その2

(前回からつづく)

 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

 

野薔薇は、少年に手折られるために咲いていたのか?

 

永遠のアポリア(答えの出ない問い)に

ゲーテが出した答えは?

 

滝口雅子は

はぐらかすことなく

ゲーテの答えを明かします。

 

然り(イエス)、と。

 

 

そうだったのだ!

 

若き日に

そういう答えまで確認して読んだものだった。

 

その記憶がよみがえるのを感じながら

それから半世紀。

 

滝口雅子の案内で

ふたたび青春の時の回廊へ踏み込んでは

ああ、とか、おお、とか

深い悔いのうめき声(感嘆)をあげても

だれも咎(とが)めることはないでしょう。

 

 

「青春の詩集」のページに

もう少し分け入って

作品と詩人を見てみましょう――

 

<1 青春をさすらうあなたに>

 

さびしき野辺(立原道造)

またある夜に(同)

小異異情(室生犀星)

山のあなた(カール・ブッセ)

旅上(萩原朔太郎)

利根の松原(同)

体操(村野四郎)

花(ポール・エリュアール)

 

<2 恋にめざめるあなたに>

 

「愛」より(リルケ)

ある少女が歌う(同)

まっかなイチゴの木(上田保)

野薔薇(ゲーテ)

忘れたるにあらねども(サッフォ)

初恋(島崎藤村)

逢ひて来し夜は(室生犀星)

幻影(吉行理恵)

ノンレトリック(新川和江)

 

<3 恋のよろこび>

 

緑(D・H・ロレンス)

私のカメラ(茨木のり子)

薔薇(オプストフェルダー)

歌曲(ノエル)

いとうるわしの五月(ハイネ)

わが涙したたらば(同)

わが頬に頬を(同)

君がひとみに(同)

ぼくは彼女の目をふさいで(同)

庭(プレヴェール)

サアヂの薔薇(ヴァルモオル夫人)

猫(ボードレール)

何もかも(同)

ふきあげ(同)

野生の桃(ワイリー)

 

<4 恋のかなしみ>

 

夜汽車(萩原朔太郎)

昨日にまさる恋しさの(同)

願い(ヘッセ)

美しい人(同)

せつない日々(同)

雪(グウルモン)

あなたも単に(黒田三郎)

淋しき二重(鮎川信夫)

 

<5 恋のおわり>

 

青年が夜明けの五時に(E・ケストナー)

かのひと去りてより(ハイネ)

鎮静剤(ローランサン)

ミラボー橋(アポリネール)

哀しみ(カトリーヌ・バァラ)

最期の詩篇(ロベール・デスノス)

別離(ポール・フォール)

変らぬこころ(ルネ・シャール)

 

<6 孤独なあなたに>

 

落葉(ヴェルレーヌ)

都に雨の降るごとく(同)

あんずの木(ブレヒト)

海(ミショー)

二十億年の孤独(谷川俊太郎)

千鳥と遊ぶ智恵子(高村光太郎)

秋の接吻(滝口雅子)

 

――という内容(ラインアップ)です。

 

これが滝口雅子厳選の恋愛詩です、50年前の。

 

 

道造、犀星、朔太郎、村野四郎

島崎藤村

吉行理恵、新川和江、茨木のり子

黒田三郎、鮎川信夫

高村光太郎

谷川俊太郎、滝口雅子本人

……と絞らざるを得なかった(であろう)にしては、

近現代日本の詩人の恋歌もバランスが取れていることがわかります。

 

この中にある女性詩人、

吉行理恵、新川和江、茨木のり子、滝口雅子

――の4人の名があることに引かれるのは

これが滝口雅子の眼にかなった恋愛詩であるからにほかなりません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

 

 

2016年3月26日 (土)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? アウトライン「青春の詩集」

(前回からつづく)

 

 

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

滝口雅子が男についての考えを明らかにするのは

「男について」などの自作詩を通じてばかりではありません。

 

 

滝口雅子の編著「青春の詩集」(1967年、二見書房)は

滝口雅子がまもなく50歳を迎えるころのエッセイ集ですが

内外の名作詩を次々に読み解いていく手さばきは

息苦しくなるほど濃密な時間が継続します。

 

たとえばゲーテは

「野薔薇」とともに現れます。

 

 

野薔薇

(手塚富雄訳)

 

野にひともと薔薇が咲いていました

そのみずみずしさ 美しさ

少年はそれを見るより走りより

心はずませ眺めました

あかい薔薇 野薔薇よ

 

「おまえを折るよ、あかい野薔薇」

「折るなら刺します

いついつまでもお忘れにないように

けれどわたし折られたりするものですか」

あかい薔薇 野薔薇よ

 

少年はかまわず花に手をかけました

野薔薇はふせいで刺しました

けれど歎きやためいきもむだでした

薔薇は折られてしまったのです

あかい薔薇 野薔薇よ

 

 

折られたバラは不幸だろうか。

バラを折った少年は、残酷な少年だろうか。

あなたは少年を憎く思うだろうか。

あなたは、バラがいつまでも折られなければいいと思うだろうか。

 

――と滝口雅子はこの詩を読みはじめます。

 

 

「青春の詩集」を

少しひもといてみましょう。

 

まず目次を見ますと

 

1 青春をさすらうあなたに

2 恋にめざめるあなたに

3 恋のよろこび

4 恋のかなしみ

5 恋のおわり

6 孤独なあなたに

 

――という6章で構成されています。

 

 

ああ、そうだったか!

 

青春はさすらいであり

そのうち自然に恋にめざめ

時には喜びにあふれた恋の時間にひたり

時にはそれが悲しみに変わり

終わりを告げる

ふたたび孤独の境涯をかみしめる……。

 

この構成!

この内容!

 

絵に描いたような

まだ読んでいないうちから

人生の道のりを振り返らせられて

ハッとさせられるような。

 

青春を人生の花だとは決して言わせまい(ポール・ニザン)

――という激しい生(ロマン)に共鳴して生きてきた世代にも

このような青春が隣り合わせていたことを

ためいきとともに思い出す人があるに違いありません。

 

 

ようやく今、心の異変に気づきはじめた

すっぱい林檎の恋人たちも

自分の心のなかに目を向け

その原因がどうやらあの人にあることを知ったばかりです。

 

世界がようやく目の前に現われ

恋人たちは

恋のはじまりを知らず

恋に果てのあることを知りません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

2016年3月22日 (火)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? 「革命とは」

(前回からつづく)


 

(茨木のり子の読みを離れています。)

 

 

同じ詩集の連続した詩の群れに

同じようなテーマ(内容)が歌われていることがあるのは

詩集を初めて読むときの手がかりです。

 

詩集が川であるなら

小さな流れのような同質の世界がそこにあります。

 

「男について」の流れの中に

「革命とは」はあります。

 

 

革命とは

 

ごつごつ荒い花崗岩の坂みちで

手招きする女

しゅんしゅん沸騰するつよいキスをしよう

背なかに手をまわして 刺してしまおう

合わせなかった唇を

いつまでも火照らしていないで

眼ばかりみていてかなしげに

そらしたりしないで

終(つい)の相手はお前だ

腕にずっしりとかかっているやつだ

 

(「新編滝口雅子詩集」所収「鋼鉄の足」より。)

 

 

男を歌えば

女を歌うのは必然。 

 

男を歌うことは

女を歌うことでもあります。

 

この詩は女へ革命を呼びかける

アジテーション。

 

男が

ゴツゴツの荒い岩の坂道をのぼっているのだから。

 

 

「合わせなかった唇をいつまでも火照らしてい」る

「眼ばかりみていてかなしげにそらしたり」する

―古典的な女たちへ向けて。

 

男が生きているのが

険しい世界であるなら

遠目に手招きしているくらいでは

何事もはじまりませんよ。

 

しゅんしゅん沸騰するつよいキスを!

背なかに手をまわして 刺してしまおう!

 

 

これは、恋だとか愛だとか

というのではないらしい。

 

終生の付き合いの相手とめぐり合うための術(すべ)であり

こころのありようのことなのでしょう、きっと。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

 

2016年3月20日 (日)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? 「男S」

(前回からつづく)

 

茨木のり子「詩のこころを読む」にはないのですが

滝口雅子の詩をもう少し読みましょう。

 

「かなしみよ こんにちは」

「男について」の次に置かれたのが

「男S」です。

 

男についての詩が続きますが

男を見る女(詩人)のまなざしに読みごたえがあります。

 

 

男S

 

酒やけした一匹の猿

天井にはね返るけたたましい声

こっけいな こっけいな

フッフッフッ

フッと笑いやむと

 

崖の裾の水のいろ

きりきりねじまいた男のエゴイズム

その果てのいろ

ハンドルのとれたいろ

拒絶のいろ かなしみのいろ

ごつごつの岩山に ある日とつぜん

ふき出した鉱泉のいろ

あるとは知らなかったその

色のつめたい澄みよう

 

腰はドラム罐

肩に這い上る肉の“こぶ”

まるで缶詰のふた押しあけて出た男

こっけいな こっけいな

フッフッフッ

フッと見ると

 

横顔の深い“しわ”

木綿生地の厚い“しわ”

うすよごれた運河に

さっぱりと苦労を沈めた

男よ

ぶ厚い本をかざして

その“しわ”を隠すな

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」所収「鋼鉄の足」より。傍点は“ ”で示しました。編者。)

 

 

確かに、男は酒焼けした赤ら顔の猿。

けたたましく声張り上げて天井に響かせ

滑稽そのもの。

 

フッフッフッフと

不気味に笑い

笑い止(や)むと

――と第2連へ。

 

 

男は、

崖のすその水の「いろ」になり

男のエゴイズムを歌いますが

エゴイズムの果ての「いろ」は

ハンドルがとれた「いろ」

拒絶の「いろ」

悲しみの「いろ」と

ゴツゴツしている岩山ですがある日

吹き出した鉱泉の「いろ」ですし

それまであるとは知らなかった

色は冷たく澄んでいる。

 

 

ドラム缶の腰

盛り上がる肉の瘤(こぶ)

缶詰から出てきたような男の

滑稽なのをよく見れば、という

見るのは女=詩人です。

 

 

最終連はより接近して

男の横顔の深いシワ

木綿(のズボン)の厚いシワに(目を向けて)

苦労を苦労と見なさない

(愚痴を言っているほどのヒマもないであろう)

さっぱりと苦労を沈めた男を

あっぱれと言おうとしては(思いとどまり)

ぶ厚い書物を振りかざし

魅力であるそのシワを隠そうとするのはよしなさい、とアドバイスします。

 

シワは男の勲章なのだからと言わんばかりに。

 

 

これはやはり

男へのエールなのでしょう。

 

絶望とか憂愁とか苦悩とか苦労とかを通過中の

決して通過し得ないかもしれないそれらに

さっぱりとしている男への。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

 

2016年3月19日 (土)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? 「かなしみよ こんにちわ」

(前回からつづく)

 

「男について」の一つ前に置かれているのが

 「かなしみよ こんにちわ」です。

 

 

かなしみよ こんにちわ

 

うしろからきて呼びとめる

煙色の低音

 かなしみよ こんにちわ

 

道はうしろからまくれてきて

窓は遠くまで見とおしだ

 

5月 黄色いチューリップ

唇をくいっと曲げて

道のまんなかで踊り出す

  かなしみよ

  こんにちわ

 

2月 国境の冬

に身を伏せて眠る

雪の山につもる対話

対話は 男の夢を刺す

 

8月 つよいジンのにおい

夜と夜明けがすれちがうときの

灯をつけたままで ひとは

夜通し別のひとを待つ

 (かなしみよ こんにちわ)

 

明け方の舗道をふるわせて

波うつ口笛

絶望の優しさよ

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」所収「鋼鉄の足」より。)

 

 

何か西洋の映画のシーンを思わせるイメージは

フランソワーズ・サガン「悲しみよこんにちは」によるものであるより

この小説のエピグラフに引用された

ポール・エリュアールの詩のせいか。

 

「灰とダイヤモンド」(アンドレ・ワイダ)のシーンのようであるし 

口笛がジェームズ・ディーンを思わせもするし

どこまでも広がってしまう連想には

けじめをつけるきっかけがありません。

 

これらはまったく見当はずれのことなのかもしれませんが

何かのモデルがあるように思えてなりません。

 

 

「男について」を恋唄と見た茨木のり子のまなざしは

炯眼(けいがん)というべきで

あたかも親友の心の底をつかんでいるような確かさがあります。

 

事実、茨木のり子19262006と滝口雅子の2人は

日向あき子(1930~2002)宅での集まりで

牧羊子(19232000

牟礼慶子(1929~2012)とともに

親しい関係にありました。

 

 

ホームページ「来歴」

詩人、牟礼慶子の業績を伝える親族によるメモリアムですが

この集まりに参じた詩人5人の姿が

牟礼慶子のアルバムからピックアップされています。

 

日向あき子の写真の裏に

牟礼の字で「35.6 日向さんを訪問」とあり

牟礼の写真がないのは、

撮影したのが牟礼だったからでしょうか。

 

356は昭和35年6月。

 

60年安保反対闘争の国会デモで

樺美智子が死んだのが

615日でしたからその前後のことになります。

 

それぞれがビール瓶を前に

茨木のり子はたばこに火をつけようとし

なにやら真剣な勉強会の印象ですが

合間の雑談には

「雨夜の品定め」みたいな場面もあったでしょうか。

 

肉声が聞こえてきそうな

写真ばかりで貴重です。

 

滝口雅子(19182002)は40歳代のはじめで

まさしく「鋼鉄の足」を出版した直後でした。

 

 

詩集「鋼鉄の足」も「窓ひらく」同様に

ⅠとⅡに分かれて構成され

Ⅱの冒頭詩「少女の死」が序詩の役を負うのについで

2番目にあるのがこの「かなしみよ こんにちわ」です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年3月17日 (木)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? 「男について」その2

(前回からつづく)

 

 

しゃっきりのびた女の2本の脚(あし)の間に起こる

生理現象(あるいは生体のドラマ)を

あたかも透視者のように男は知っている

――というのは

意外にも男が女のからだのシステムを知っているものだという

女(詩人)の驚きが含まれているのか。

 

という疑問を抱くのとほぼ同時に読者は、

しゃっきりのびた女の

二本の脚の間で

――の詩行にガーンとやられてしまい、

 

それをズバリと云う

女の脳天まで赤らむような

――の詩行に共鳴するのに任せたまま 

詩の中の女とこの詩の作者との距離を推し測ろうとします。

 

そこに巧みな倒置と省略がありながら

鮮烈なイメージの衝撃をうけて

第2連へと読み進んでいきます。

 

男と女の断絶が歌われているのかと

身を乗り出す思いで。

 

 

第2連は、

 

早く死んでくれろ

早く死ねよ

棺(かん)をかついでやるからな

――という3連打に見舞われながら読み通して

第1連でもそうだったように

特定の刺激的な詩行がこびりつくのを払い落とそうとする構えになります。

 

それで、ほかの行をよく読もうとして

全体に目を配ります。

 

 

すると

棺(かん)をかついでやるからな

――という終わりの行は

女が死んだ後の心配までしている男のセリフ。

 

生きている人間は

他人の死を所有することはできないのだから

そもそも男のこのセリフは無意味なのに

女を自分のものにするために考えついた究極の殺し文句でもあるな

それを無意味と知っている女は

悪くは思わないだろうなどと想像します。

 

 

1連で、男は知っている

2連で、男はねがっている

 

連の冒頭1行で

女(詩人)のまなざしは断言的であり(客観的であり描写的であり)

3連では、男は急いでいるのです。

 

その一途(いちず)さ、強引さ、勝手ぶり……

神エホバもそうしたものであると信じる男の掌(てのひら)は

脂(あぶら)で湿っている――。

 

そのように急いでいる、とまなざしを向けるのです。

 

男と女の

断絶であるかのように

親密さであるかのように。

 

 

茨木のり子は

この詩を他でもない恋唄として取りあげました。

 

そう書いている部分を読んでおきましょう。

 

 

男性への憎悪(ぞうお)をテーマにした詩ととらえる人も多いのですが、

私は愛憎こもごもの男性への恋唄と、とっています。

こうでなければ男といえない面もあるからで、

かなり年上の女が、かなりのゆとりをもって、

男のうとましさ、いとおしさを、

突きはなして思いやっているような、複雑な味わいをもち、

まごうかたなき詩であって、上等のワインのようなコクがあります。

 

(「詩のこころを読む」より。改行を加えました。編者。)

 

 

「男について」は

滝口雅子の代表作の一つとしてばかりでなく

日本を代表する女性詩の一つとして海外で注目されることになるのは

茨木のり子が読んだような「外国のいい詩の名訳」のような味があるからのことでしょう。

 

読みようはさまざまにありますが

その人が読んだように詩はあり

日本語以外の言葉を話す人の読みようがわかる気がする詩です。

 

 

男について 

 

男は知っている

しゃっきりのびた女の

二本の脚の間で

一つの花が

はる

なつ

あき

ふゆ

それぞれの咲きようをするのを

男は透視者のように

それをズバリと云う

女の脳天まで赤らむような

つよい声で

 

男はねがっている

好きな女が早く死んでくれろ と

女が自分のものだと

なっとくしたいために

空の美しい冬の日に

うしろからやってきて

こう云う

早く死ねよ

棺(かん)をかついでやるからな

 

男は急いでいる

青い“あんず”は赤くしよう

バラの蕾(つぼみ)はおしひらこう

自分の掌がふれると

女が熟しておちてくる と

神エホバのように信じて

男の掌は

いつも脂でしめっている

           ――詩集「鋼鉄の足」

 

(「詩のこころを読む」より。傍点は“ ”で示し、促音「つ」は現代表記「っ」に直しました。編者。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

2016年3月14日 (月)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? 「男について」

(前回からつづく)

 

詩人、滝口雅子のアウトラインを見る途中ですが

やはり詩を読みましょう。

 

「男について」は

第2詩集「鋼鉄の足」に収められています。

 

茨木のり子は「詩のこころを読む」で

「男について」と「秋の接吻」の2作を

「恋唄」の章で取りあげたのでした。

 

 

男について 

 

男は知っている

しゃっきりのびた女の

二本の脚の間で

一つの花が

はる

なつ

あき

ふゆ

それぞれの咲きようをするのを

男は透視者のように

それをズバリと云う

女の脳天まで赤らむような

つよい声で

 

男はねがっている

好きな女が早く死んでくれろ と

女が自分のものだと

なっとくしたいために

空の美しい冬の日に

うしろからやってきて

こう云う

早く死ねよ

棺(かん)をかついでやるからな

 

男は急いでいる

青い“あんず”は赤くしよう

バラの蕾(つぼみ)はおしひらこう

自分の掌がふれると

女が熟しておちてくる と

神エホバのように信じて

男の掌は

いつも脂でしめっている

           ――詩集「鋼鉄の足」

 

(「詩のこころを読む」より。傍点は“ ”で示し、促音「つ」は現代表記「っ」に直しました。編者。)

 

 

思わず釘づけになります。

 

しゃっきりのびた女の2本の脚、

その間で春夏秋冬咲く一つの花。

 

男はそれを知っているつもりなのを

女がそれを実は見ている、ということらしい。

 

どうしようもなく男と女はからまりあったようで

実は女の冷めた目は

神エホバをも単なる男として眺めやっています。

 

 

茨木のり子は、

「最初よんだとき、外国のいい詩を、名訳で読んだような感銘」とコメントし

そう読んだ理由について

次のように記しました。

 

 

ここに描かれた男たちの特徴が、

世界に共通の雄(おす)の性(さが)であるためでしょう。

うぬぼれ心、横溢(おういつ)で、手が神エホバのようにしめっているせいで、

人類はここまで存続してきたわけなのですが、

それにしても、あまりにも、はびこりすぎたのでは……。

 

(「詩のこころを読む」より。改行を加えました。編者。)

 

 

滝口雅子の第2詩集「鋼鉄の足」は

Ⅰが14篇、Ⅱが15篇、合計29篇で構成されていて

「男について」はⅡの第3番に置かれています。

 

Ⅱを通して読むと、

1番詩「少女の死」にも

2番詩「かなしみよ こんにちわ」にも

4番詩「男S」にも

5番詩「革命とは」にも

6番詩「すこやかな現実」にも

7番詩「水平線」にも

8番詩「若もの」にも

9番詩「港の対話――逃亡者」にも

……

 

男(の影)が現れるのに気づきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

2016年3月13日 (日)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? アウトライン・鮎川信夫の読み

 

(前回からつづく)

 

(茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

「現代詩人全集 第10巻 戦後Ⅱ」(角川文庫)は1963年発行であり

滝口雅子の第1詩集「蒼い馬」の刊行が1955年

第2詩集「鋼鉄の足」が1960年ですから

鮎川信夫の解説はかなり早い時期の批評であり

滝口雅子にいちはやく着目した

いまや歴史的な評価の一つということになります。

 

「新編滝口雅子詩集」(土曜美術社)の巻末資料には

「作品が収録されているアンソロジーと鑑賞書」が列挙され

日本国内で刊行された30冊が年代順に案内されています。

 

この中の3番目に「現代詩人全集」はあり

「日本詩人全集」(村野四郎、1953年)

「戦後の詩」(安西均、1962年)に続いています。

 

 

30冊を見渡してみると

1960年代(14冊)と70年代(7冊)の刊行が多く

80年代(3冊)、90年代(5冊)となっています。

 

ここに鑑賞者・選者・編者として現れる女性詩人(作家)に

新川和江

三井ふたばこ

茨木のり子

高良留美子

 

男性には

村野、安西、鮎川のほかに

小海永二

真壁仁

西条八十

黒田三郎

西脇順三郎

伊藤信吉

三好達治

伊藤整

大岡信

山本太郎

塚本邦雄

佐高信

――らの名があります。

 

 

鮎川信夫は「現代詩人全集」(1963年)の解説で

戦後詩のうちの抒情詩型の詩を概観し

抒情の変質にふれて次のように述べています。

 

 

 これが茨木のり子、吉野弘、滝口雅子、菅原克己などになると、社会的関心を離れてはもはやその抒

情は存在しないと言ってよいほどになる。茨木の「わたしが一番きれいだったとき」、吉野の「記録」、滝

口の「鋼鉄の足」、菅原の「階段の上の部屋で」など。これらの作品を読むとき、非情の社会的現実を通

過せずして現代の抒情は成り立たないという思いがする。彼等の作品は、抒情詩といっても民俗的要

素が強く、社会詩の中に分類することもできる。

 

しかし、特別の社会意識を持たない場合の方が、作品として面白いことが多い。上記の諸作よりも、「根

府川の海」、「さよなら」、「男について」、「ブラザー軒」などの方がすぐれているように思う。

 

(「現代詩人全集 第10巻 戦後Ⅱ」解説より。改行を加えました。編者。)

 

 

もとより女性の社会参加が進んでいない時代の論評の観があるにせよ

社会意識が前面にでない作品が「面白い」という読みは

時を経ても的を射ている印象があるのはなぜでしょうか。

 

滝口雅子の「男について」の衝撃でしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

 

2016年3月11日 (金)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? アウトライン・7つの詩集

 

(前回からつづく)

 

 

滝口雅子の名前を一般の読者が知るのは

他でもない茨木のり子の「詩のこころを読む」の中でであり

「恋唄」章中の「男について」と「秋の接吻」の2作品であり、

続けて他の詩を読もうとしてもなかなか見当たらず

書棚の奥から「現代詩人全集第10巻」(角川文庫、1963年初版)を引っ張り出し

鮎川信夫選の12篇をようやく見つけ

一通りそれらを読んでのちに

もっと多くを読みたくなって

日本現代詩文庫13「滝口雅子詩集」(土曜美術社、1984年)を買い求める

――というような経緯をたどるのがありふれたケースではないでしょうか。

(もちろん、ほかのケースもあることでしょうが。)

 

角川文庫の「現代詩人全集」も

土曜美術社の「現代詩文庫13」も

新刊書店ではとうになく

古書店で探すことになりますから

そんな面倒をするよりも

新・日本現代詩文庫21「新編滝口雅子詩集」を新本で購入することになるでしょう。

 

「蒼い馬」や「鋼鉄の足」などの単刊詩集は

新刊本店にあるはずもなく

普通の古書店でも見つけられませんから

神田あたりの詩誌専門の書店へのアクセスが必要になります。

 

以上のすべての手続きを

アマゾンとか

日本の古本屋やスーパー源氏で行う人もあることでしょう。

 

 

このブログでは

茨木のり子に誘われて

高良留美子を読んだ(一部をかじった)流れの中に

滝口雅子(そして新川和江)があり

「高良留美子詩集」(思潮社)中の小自伝「廃墟のなかから」には

1969年創刊の詩誌「蛸」で滝口雅子と高良留美子とは創刊メンバーであったことが記され

また巻末には滝口雅子の「高良留美子さん」という詩人論も収録されてあるなど

二人の詩人の接続する関係が明らかにされているので

自然に引き込まれる経過になりました。

 

 

そして

新・日本現代詩文庫21「新編滝口雅子詩集」では

高良留美子による卓抜な作品論「滝口雅子さんの詩について」を読めることになっています。

 

同詩集にはほかに

詩人の最期の記録を含んだ作品論「海底をくぐった瞳―滝口雅子の詩を読む―」(白井知子)があり

滝口雅子を一般読者へ親しく案内していてこれも要必読です。

 

滝口雅子に関しての記述は

同詩集以外に読むことは容易ではなく

巻末資料「滝口雅子年譜」「滝口雅子 著作一覧」とともに

極めて貴重なテキストという現状になります。

 

 

同詩集の巻末資料によって

ここで滝口雅子のアウトラインをつかんでおきましょう。

 

 

滝口雅子は

生涯に7冊の詩集を出しています。

 

蒼い馬  1955年 

鋼鉄の足 1960年

窓ひらく 1963年

見る 1967年

白い夜 1974年

赤煉瓦の家 1981年

雨のプラタナス 1990年

――というラインアップですが

このほかに日本現代詩文庫13「滝口雅子詩集」(1984年、土曜美術社)があることになります。

 

散文(エッセイ・評論)には

青春の詩集 1967年

わがこころの詩人たち 1971年

おんなの性 1973年

――があります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

2016年3月 7日 (月)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? 「秋の接吻」続

(前回からつづく)

 

 

「秋の接吻」の中に

実際に、女性は存在したのでしょうか?

 

そう尋ねるのは野暮というものでしょうか?

 

 

本当は、人などいない風景だったのではないでしょうか。

 

白萩の花を

ただ風が吹きつけているばかりの……。

 

 

秋の接吻

 

ひとを愛して

愛したことは忘れてしまった

そんな瞳(め)が咲いていた

萩の花の白くこぼれる道

火山灰の白く降る山の道

すすきを分けてきた風が

頬をさし出して

接吻(せっぷん)した

ひとを愛して

愛したことは忘れてしまった

            ――詩集「窓ひらく」

 

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。)

 

 

では、どこに

女性は存在するのでしょうか。

 

というと

やはり詩の中に存在するとしか言えないのです。

 

人を愛し

愛したことは忘れてしまった人が存在する、としか。

 

 

すべては

詩の中にあります。

 

詩のなかにしか

詩はありません。

 

茨木のり子は

逐条解釈をしているわけではありませんが

第3行にある「そんな瞳(め)」を捉(とら)えて

詩の中にたちまち入り込んでいます。

 

「そんな」はさりげない形容動詞(連体詞とも)ですが

受けた内容はこの詩では格別に重大です。

 

そうして次のように述べます。

 

 

その女のひとをいたわるように、

そっと接吻してゆくのは秋風ばかり

 

ずいぶんさびしいけれど、典雅な風景です。

 

(「詩のこころを読む」より。改行を加えました。編者。)

 

 

すでに

「その女のひと」です。

 

えっ? どの女のひと?

みたいな感じですが

愛し愛したことを忘れたひとであることを

飲みこむことは容易でしょう。

 

このように

詩の背景(の事実)に

気を奪われる必要はありません。

 

詩に入り込むのが先決です。

 

 

「秋の接吻」は滝口雅子の第3詩集「窓ひらく」に

収められています。

 

1963年の発行ですが

第2詩集「鋼鉄の足」で第1回室生犀星詩人賞を得たのは

1960年のことでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

2016年3月 2日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩/滝口雅子を知っていますか? 「秋の接吻」

(前回からつづく)

 

秋の接吻

 

ひとを愛して

愛したことは忘れてしまった

そんな瞳(め)が咲いていた

萩の花の白くこぼれる道

火山灰の白く降る山の道

すすきを分けてきた風が

頬をさし出して

接吻(せっぷん)した

ひとを愛して

愛したことは忘れてしまった

            ――詩集「窓ひらく」

 

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。)

 

 

この詩の作者は

滝口雅子(たきぐち・まさこ)です。

 

1918年(大正7年)に生まれ

2002年(平成14年)に亡くなりました。

 

高良留美子は1932年生まれ、

茨木のり子は1926年生まれです。

 

 

久しぶりに

茨木のり子の「詩のこころを読む」に戻ってきました。

 

「恋唄」の章は、

女性の詩人を

高良留美子の次に滝口雅子を紹介していますので

次の新川和江を含めて外せません。

 

 

茨木のり子は

まず「男について」を紹介し

その後でこの詩「秋の接吻」を読んでいるのですが

ここでは先に「秋の接吻」を読むことにしました。

 

 

10行の詩の

冒頭と末尾の2行、合計4行がルフランで

きっちり締まった濃密な措辞(そじ)に

はじめ釘(くぎ)付けになり

何度も読み返しているうちに

じわじわーっと浮き上がってくるような生鮮なイメージ。

 

なんとも高雅な

なんともエロスの漂う1行1行に

想像の翅(はね)が広がっていきます。

 

咲きこぼれる白萩の花と

女性の瞳とが一瞬、混淆(こんこう)するかのような

この錯視感はなんでしょうか。

 

 

そう問うたものではなく

その理由を述べたわけではありませんが

茨木のり子はこの詩を「恋の果て、の感慨」と

明快に読みます。

 

なぜそれほどに明快であるか、というと

茨木のり子がこの詩に初めて触れたときの思いが

まざまざと今(この詩を鑑賞をした時)立ち上がってくるからでした。

 

人の目にまつわるその思いとは――。

 

 

目というのは小さな容積ながら、実に無限のものを湛(たた)えています。

でも皆、自分のことにかまけて他人の目に湛えられているものに注意を向けたりはしません。

 

どこかの高原にひっそりと立つ女のひとの瞳(め)のなかに、

ひとを愛して、燃焼しつくして、そして死別、生別、裏切りによってか……

ともかくその愛から遠くきてしまって、もうすべてを忘れ去ってしまったかのような、

一見、ほほけたような瞳を作者は発見します。

 

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。改行を加えてあります。編者。)

 

 

ひっそり立つのは

女性か白萩か。

 

白萩が女性か

女性が白萩か。

 

いずれであっても

瞳が咲いています、この詩の中では。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

 

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