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2016年3月31日 (木)

滝口雅子アウトライン特別編/茨木のり子の恋愛詩「私のカメラ」続

 

(前回からつづく)

 

 

 

 

茨木のり子の「私のカメラ」が詩集「鎮魂歌」に収められ発表されたのは1965年。

 

滝口雅子の「青春の詩集」は1967年、

詩集「鋼鉄の足」は1960年の発行です。

 

「鋼鉄の足」の後半部「Ⅱ」に

男や性をあつかった詩の流れがあるのは

その一部を見てきた通りです。

 

 

1960年に滝口雅子と茨木のり子とは面識があり

面識どころか、

日向あき子宅での学習会のような集まりに参加していて

互いに影響しあう関係にあったということの反映とは言えまいか。

 

これらはほんの一部のことかもしれませんが

作品への響き合い、連続し接続する関係を

物語っているように思えてなりません。

 

 

滝口雅子が「私のカメラ」をどのように読んでいるか

「青春の詩集」をめくってみましょう。

 

それは第3章「恋のよろこび」に配置されています。

 

第2章「恋にめざめるあなたに」を経て

いまや恋のさなかに「あなた」はいます。

 

初めて自覚された恋ごころは

やがて男によって開かれてゆく――。

 

恋心の芽生えを

滝口雅子は次のように記します。

 

 

“初恋”のたんたんとしたものが、次第に目をひらいて、朝露にぬれているすがたは、人が示すさまざ

まな姿のなかでも、最も美しいものの一つであろう。

 

 不安が花弁を風も吹かないのにふるわせていて、まだ肉体的な愛を自覚しないときでもある。

 

 それは、暁の空の色のように清らかであるが、何かを予期させるものである。

 

(二見書房「青春の詩集」より。)

 

 

そして、

D・H・ロレンスの「緑」という小品を読みます。

 

ロレンスは言うまでもなく

小説「チャタレー夫人の恋人」の作家であり、詩人です。

 

 

志賀勝訳

 

暁は林檎の色の緑だった

空は日光にささげられた緑の酒だった

月はその間の金色の花弁だった

 

彼女は眼をひらいた、すると緑色に

その眼は輝いた、はじめて莟(つぼみ)を破った色が

はじめて人に見られたように

 

(同。一部、ルビをふり、新漢字に直しました。編者。)

 

 

まだ幼さの残っている少女は多分、男の手のなかにある。

男の目は多分、太陽のように強く光っている。

少女の目が、初めて世界をみた時のようなみどり色に輝いているのを見ている。

 

――という数行で

滝口雅子はこの詩を捉えます。

 

恋に性の芽生える瞬間です。

 

そしてロレンス文学へひととおり言及したのちに

「私のカメラ」を読むのです。

 

 

この流れの理由は明確です。

 

女性の側から男性の美を歌ったのが

「私のカメラ」であるという理由です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。 

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