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2016年4月 4日 (月)

滝口雅子アウトライン特別編/茨木のり子の恋愛詩「私のカメラ」続々

 

(前回からつづく)

 

 

 

 

美は女性の独占であって、男性の美は精神的なものとされてきたが、

男の歩いている後すがた、その肩つきとか、足ののび方とか、頬の線とか、“ひたい“だとか、

女性のあこがれを誘うことは多いのである。

 

(二見書房「青春の詩集」より。改行を加え、ルビは“ ”で示しました。編者。)

 

 

「私のカメラ」の第6、7連の

 

木洩れ陽のしたで笑うあなた

波を切る栗色の眩しいからだ

 

煙草に火をつける 子供のように眠る

蘭の花のように匂う 森ではライオンになったっけ

 

――というような詩行を

滝口雅子は女性が歌った男性美の例として読みました。

 

男の精神的なものだけでなく

身体(肉体)の形や動きや匂いまでもが

女性のあこがれの対象になるという方法は

滝口自らが実作してきた詩の作法でもありましたから

強く惹かれるものがあったのでしょう。

 

両者の詩がクロスするところです。

 

滝口雅子は

「私のカメラ」の、

蘭の花のように匂う 森ではライオンになったっけ

――の1行に

とりわけ注目したに違いありませんが

それに突っ込んでは触れませんでした。

 

象徴的に歌われたエロスを

それ以上分析し解剖する作業を

敢えて踏みとどまった様子です。

 

 

代わりに、滝口雅子は、

 

男性と女性とは二人そろったときが、やはり一番美しい。いくら美しい男だけが揃って集っていても、さ

びしいのである。それに、女ばかりが、どんなに晴れやかに明るく笑っていても、やはり大切なものが足

りないのである。
(同。)

――と続けます。

 

そして、

 

男は女のために、女は男のために存在するのだと思う。男がひとりで、椅子にかけて本をよんでいるの

もすてきであるが、どこかに、その男のために存在している女がいればこそであろう。(同。)

――と結びました。

 

 

本を読んでいる男は

ドラム罐の腰の男(「男S」)と同列でありましょう。

 

 

女性の美しさをとことん描いたロレンスを案内した次に

滝口雅子は「私のカメラ」を配置しました。

 

女性美礼賛の後に

茨木のり子のこの詩が案内されたのですから

男の美しさはよりいっそう官能的であることが予感されるように。

 

「私のカメラ」に

どことはなく漂う官能を嗅ぎとるように。

 

 

しかし、よく考えれば

この詩自体は

詩行通りに

「だあれもしらない」秘密が歌われているのです。

 

この詩の相手である「あなた」も知らない。

 

この詩が作られたその時

詩人しか知らない秘密なのです。

 

詩に歌われて

それが公表されて

相手に知られたということはあっても。

 

 

茨木のり子が亡くなって1年後の2007年、

詩集「歳月」が遺族によって刊行されます。

 

中には「あなた」を歌った詩が多く集められ

それはまぎれもなく

「私のカメラ」に繋がる恋唄の一群でした。

  

 

途中ですが

今回はここまで。 

 

 

 

 

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