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2016年5月

2016年5月31日 (火)

滝口雅子を知っていますか?/「蒼い馬」へ/「歴史 Ⅰ 海への支度」

(前回からつづく)

 

 

 

 

年譜によると

滝口雅子が初めて単身上京したのは1938年(昭和13年)であり

19歳の時だった。

 
(後に、これが滝口雅子と朝鮮との決別であることがわかります。)

 

それまでは朝鮮・京城にいた。

 

その前までは

生れた咸鏡北道で暮らしていた。

 

第2次世界大戦前夜の京城が

どんな空気にあったか

2年前に女学校を卒業したうら若き女性がどんなことを考えていたか

ほんの少しだけ想像しておくことは無駄なことではないでしょう。

 

1936年(昭和11年)3月に

京城第一高等女学校を卒業。

 

197人中12番という優秀な成績は

頑張り屋であること以上に

滝口雅子固有の堅い意志を示しているようです。

 

この時彼女は

奈良女子高等師範学校(奈良女高師)への進学を目指していた。

 

奈良女高師といえば

東京女高師、広島女高師と並ぶ教員養成系の名門です。

 

しかし(家族から)許されず

裁縫、生け花の稽古を強いられるなか

肺門淋巴腺腫で1年間の療養生活をせざるを得なかった。

 

この時培った裁縫の腕は

「近所の人たちに頼まれて着物を縫ってあげるとお礼にお金を置いていく人があり、上京のための旅費

はそれでまかなえた、と滝口さんは語っていた。」と

高良留美子が記しているのが印象に残ります。

(「新編滝口雅子詩集」解説「滝口雅子さんの詩について」。)

 

裁縫、生け花の稽古のかたわら

萩原朔太郎の詩集「氷島」

室生犀星の「愛の詩集」

宮沢賢治などを愛読した。

 

 

序詩に続いて配置された「歴史」は

「Ⅰ 海への支度」と

「Ⅱ やさしさがかくれる」とで構成されるやや重厚な作品です。

 

実質の冒頭詩ですから

これは読まなければ前に進めないような詩です。

 

 

歴史

 

Ⅰ 海への支度

 

それは流れるために 木の破片や樹の葉を

めぐって遠廻りしながらもあきることなく

流れつづけるためにある

おおいかぶさる樹木の緑にかくれながら

岩にぶつかって のけぞって

退いてきた水の瞳は灰色に洗いさらされ

しるされた傷の重たさが水底に沈む

水のすがたにしみている水の思い出

幾度かその面にやさしい愛が燃え

落葉と共に流れた女のからだの思い出

うっすらと また

爆発する濃さで しびれる夢の短かさで

それもいつかうすれていって

こまかくうちくだかれて 思い出の暗さの

底で光りうめきながら月の形を抱きながら

前よりもやせてせきとめられた激しい流れが

夜も休むことなく眠りもなく

流れつづけることで海への遠い

ひそかな支度をする

朝がきて昼がきて陽の光をとかし夜をとかし

季節の移りのなかで流れつづける時間は

時間みずから

流れすぎていくためにあり あたらしい

思い出をくみ立てて

歴史の深いダムのなかへ流れこむ

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

何度も何度も読んでみましょう。

 

細部は後回しにして

構造をつかむのを先行させましょう。

 

 

冒頭の「それ」が指示するものは

歴史でしょうか。

 

流れるために

――にはじまり

流れつづけるためにある

――で終わる冒頭3行を導く主語「それ」が

指示代名詞の「それ」であるなら

「それ」はすでにタイトルとして表わされた「歴史」であるほかに見当たりませんから。

 

詩は文法順守を至上命題としませんから

断定できませんが。

 

詩人が指示している「それ」は

「歴史」と同等同格のほかの詩語、

例えば、

水(の瞳)

水の思い出

流れ

時間

――などにあるかもしれないことを放棄しないでおきましょう。

 

 

全行ぶっ通しで

連に分けられていないのは

歴史とか時間とか流れとか水とか

分けられないものを歌っているからでしょうか。

 

とはいえ、詩を読むためには

第3行の、

流れつづけるためにある

 

第10行の、

落葉と共に流れた女のからだの思い出

 

末尾から数えて第7行の、

ひそかな支度をする

 

最終行の、

歴史の深いダムのなかへ流れこむ

――で終わる「連」を仮定しても無理ではないことでしょう。

 

第1連は、

それ(=歴史)は流れるために流れつづけるという

絶え間ない(時間の)連続がいきなり宣言され

その連続の中で

水の瞳が灰色にさらされ、

傷の重たさが水底に沈む経過が述べられます。

 

水(の瞳)、傷……が

点滅する信号のような意味を投げかけます。

 

第2連は、

水に染(沁)みている水の思い出。

 

やさしい愛が燃え

落葉とともに流れた女のからだ(の思い出)。

 

第3連は、

海への支度のはじまり。

 

せきとめられた激しい流れが

流れつづけることで

ひそかに海への旅立ちを支度する、

噴出し奔流するのではなく。

 

最終連は、

流れつづける時間が思い出を組み立てて

歴史のダムへ流れこむ

――という

もはや「それ」は「歴史」というほかにないもののダムへと流れ込む。

 

 

大づかみにすると

このような骨組み(構造)が読み取れるようですが

詩は因果や物語や具体的な経験を

なんら明確に表明(メッセージ)してはいません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年5月27日 (金)

滝口雅子を知っていますか?/第1詩集「蒼い馬」へ・その2「問いかけ――序詩」

(前回からつづく)

 

 

太陽

太古世代

はちゅう類の中生代

森林

アンデス山系やパミール高原

上昇する気流

化石

太古の宇宙に遠のく星

何億万年の年れい

地表

<近代>

……

 

「女のひとは」が抱える時間や空間が

恐ろしく巨大であるからといって

知覚できないほどのものではありませんから

これは形而上の光景を指示しているものではないでしょう。

 

「女のひとを吹きぬける太古世代の風の音」は

(敗戦から2年後の)1947年5月に

青い麦の田野に立つ女性に吹いているのです。

 

 

「蒼い馬」の最終詩「女のひとは」は

詩集冒頭の序詩「問いかけ」へ流れこんできた長い時間を振り返っては

ふっとため息がもれるような

安息するような

未来を見晴(みは)るかすような現在の詩人の眼差しを示していることでしょう。

 

長い時間がどのようなものであったか。

 

詩集を読めばそれに触れることができると

序詩と最終詩とが教えてくれます。

 

その序詩「問いかけ」は

滝口雅子という詩人が

日本の詩壇に発した最初の一声です。

 

 

問いかけ――序詩

 

空の庭園の ひとつひとつの星の

ふきあげのかげに 黙って立ちつくす

人よ

地上のかなしみを どんなふうにして

過ぎてきましたか どんなふうにして

天の星までたどりつきましたか

 

(「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

ここにも星があります。

 

熱砂ふる太古の宇宙に遠のく星たち

――と「女のひとは」に現れた星が。

 

 

万感こもるものを

こぼれないようにこぼさないように

詩人の眼差しは天空に向けられているように思えてなりません。

 

「女のひとは」で

その星の彼方から

風の音は聞こえてきました。

 

「問いかけ」に現れる

ひとつひとつの星と

この星が異なるものであるはずがありません。

 

 

人よ

――と「問いかけ」で呼びかけられるその人は

詩を読む読者でありますが

この詩を歌った詩人その人でありそうです。

 

詩集「蒼い馬」の世界が

こうして開かれます。

 

 

「新編滝口雅子詩集」(土曜美術社)の二つある解説の一方で

詩人の白井知子は次のように

第一詩集「蒼い馬」までの長い時間について記しています。

 

 1938年に上京してからこの詩集の上梓まで、17年の歳月がかけられた。詩集の「あとがき」には

「……私の生いたちもあり、また第二次世界大戦で、20年住んだ故郷朝鮮の、そこにある一切の有形

無形を失いましたから……」と記されているが、この歳月は、生々しい体験を虚構に鍛えあげ、詩人滝

口雅子を鍛えあげた、機熟するためのものであったと言える。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年5月19日 (木)

滝口雅子を知っていますか?/第1詩集「蒼い馬」へ・その1最終詩「女のひとは」

(前回からつづく)

 

 

一人暮らしをしていた茨木のり子が

東京・東伏見の自宅で死んだのは2006年2月。

享年79歳。

誕生は1926年(大正15年)6月でした。

 

滝口雅子は

2002年11月、東京・調布の病院で

義理の姪に看取られて亡くなりました。

享年84歳。

誕生は1918年9月でした。

 

茨木のり子は「現代詩の長女」(新川和江)と呼ばれたのですから

8歳年上の「義理の姉」がいたことになります。

 

 

8歳違うのですから

「8・15」の迎え方もかなり違っていたであろうことが推測されます。

 

滝口雅子の1945年を年譜で見てみると、

 

1945年(昭和20年)

時々上京して友人宅に泊る。5月25日夜の大空襲で、泊っていた友人の家が全焼する。翌朝、交通が

とだえて、死体が重なる道を、東中野から上野まで歩いて帰る。

――などとあります。

(新・日本現代詩文庫21「滝口雅子詩集」より。)

 

もうすぐ27歳になるという日でした。

 

 

茨木のり子の8・15は、19歳でした。

 

年譜(谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」)では、

 

学徒動員で、当時、世田谷区上馬にあった海軍療品廠で就業中、敗戦の放送を聞く。翌日、友人と二

人、東海道線を無賃乗車で、郷里に辿りつく。

――とあります。

 

 

滝口雅子の消息については

明らかになっている情報が極めて乏しいため

敗戦の日に滞在していた友人とどのような関係にあったのか

何をしていたのかなど詳しくはわかりませんが

東中野にいたという事実だけでも

茨木のり子の世田谷・上馬とは遠からざる場所であり

妙に不思議なもの(縁=えにし)を感じてしまいます。

 

まったく面識も関係もない二人は

やがて詩を介した小さな集まりで巡りあうことになるのですから

軌道の異なる惑星が

何年に1度か何十年に 1度か

あるいは何百年に1度かすれ違うようなことで驚かざるを得ません。

 

敗戦日の意識の異なりよう以上に

目に見えない共通項がたくさんあったのではないかと想像を逞(たくま)しくしてしまいます。

 

 

やはり、詩を読みましょう。

 

第1詩集「蒼い馬」の最終詩が見つかりました。

 

東中野から上野まで歩いて帰る

――と年譜1945年の項にあった詩人の内部に

かなり近くにある詩の一つのはずです。

 

 

女のひとは

 

 女のひとは ひとりで何を見ただろう。熱い霧がたちこめて大きな太陽がすばやくめぐった太古世代か

ら、ななめにかぶった帽子のつばの影が、女のひとの頬にうつっていたろう。暗いはちゅう類の中生代、

森林のなかのかなしいせいぶつのうめきも女のひとは知っていたろう。アンデス山系やパミール高原の

上昇する気流をいつも呼吸して、長い時間だった。さびしいことも忘れさせた。

 沼地の上にもゴシックの尖塔がそびえ、森のなかで化石が層をなす長い長い時間。女のひとは知って

いた。熱砂のふる太古の宇宙に遠のく星たちを生み、何億万年の年れいを忘れて、ふしぎにもえつづけ

る。頬におちる女のひとの帽子のかげが、静かに地表をうごき、<近代>がもたらす感情の苦しいと

き、女のひとを吹きぬける太古世代の風の音――

 一九四七年五月 青い麦の田野に女のひとは、ひとりで何を思うだろう。

 

(新・日本現代詩文庫21「新編 滝口雅子詩集」より。)

 

 

長い長い時間。

 

この詩が生まれるまでにかかった時間でもありそうです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

2016年5月16日 (月)

滝口雅子アウトライン特別編/茨木のり子の恋愛詩集「歳月」の終わりに/中也「祈り」の反響

(前回からつづく)

(滝口雅子アウトラインを離れています。)

 

 

 

 

 

 

 

死というのは

自分の死を見ることは出来ないのだから

他者の死にふれて

自分の死を思う(想像する)ほかにないのだから

それにしても

家族親族を含む他者の死を

自分のことのように悲しむのは

自分の死に近づくはじまりでもあると言えるでしょうが

そうであっても

自分が本当に死ぬという実感は

すぐにはやってこない場合が多いでしょうし

他者の死を何度も何度も送り悲しむうちに

ついに自分の死が近づいたことを肉感(自覚)するという時が訪れるのでありましょうし

それはその時になってみないと

わからないものなのでしょう。

 

それにしても

自分に見えたと思えたその死を

他者に伝えるということができるものかどうか

古来多くの詩人が果敢に

チャレンジしてきたことですが……。

 

 

詩集「歳月」には

Yの死を悼むその時々の詩が集められますが

中には詩人自身の死にふれるものまでがあることになります。

 

Yの死の直後と

それから10年、20年、30年を経過するうちに見えてきたYの死は

その時々で異なっているのは当然ですが

これらの死に重ねて

詩人自身が自らの死を見る(見ようとする)ようになりました。

 

それらの詩が歌われるのは

どれもこれも必然でした。

 

そのことを理解するのは

死者への同化願望を歌った詩に触れた時のことかもしれません。

 

 

しかし詩人は

死を想うことばかりに明け暮れていたのではありません。

 

詩人はより良く生きようとしました。

 

Yの死をきっかけに詩人は

1976年にはハングルの勉強をはじめたり

1979年には「詩のこころを読む」を書いたりしました。

 

その後も、

1977年に詩集「自分の感受性くらい」

1982年に詩集「寸志」

1986年にエッセイ集「ハングルへの旅」

1990年に「韓国現代詩選」

1992年に詩集「食卓に珈琲の匂い流れ」

1994年にエッセイ集「一本の茎の上に」

1999年に評伝「貘さんがゆく」

詩集「倚りかからず」

評伝「個人のたたかい――金子光晴の詩と真実」などと

旺盛に著作物を刊行しました。

 

 

「歳月」を離れるにあたって

「詩のこころを読む」の最終章である「別れ」の

中原中也「羊の歌」中の「祈り」に言及した部分に

ふたたびここで触れる機会が巡ってきました。

 

石垣りんの「幻の花」を読み

永瀬清子の「悲しめる友よ」を読んだ続きに

中原中也のこの詩を詩人が取り上げたのには

必然的な理由があるというほかになく

その理由をもう一度ここで尋ねてみたい欲求(誘惑)に駆られます。

 

死の時には私が仰向かんことを!

――と中也が歌った詩句に

なぜ茨木のり子は立ちどまったのだろう。

 

何を読んだのだろう。

 

「詩のこころを読む」の中に

詩人は次のように記しました。

 

 

「私が死ぬ瞬間、いくらかの時間があれば、あなたの<祈り>という詩は、検証してみたいもののひとつ

です。そのとき、うなずくことになるのか、かぶりをふることになるのか……」

そういうスリルを伴った問いとして住みついていて、何かの拍子にひょいと脅(おびや)かしにくる一篇で

もあります。

(茨木のり子「詩のこころを読む」より。)

 

 

茨木のり子は文や詩を書いている時に

思いが高じてきて感動の域に達すると

「あなた」という呼びかけの二人称を記すことがよくあります。

 

親しみの表現でもあり

対等な位置からの呼びかけでもあるような「あなた」が現れるのです。

 

ここにも

その「あなた」が現れました。

 

 

自分の死について

本人ですらその時になってみなければわからないのですから

そのことをみだりに想像するのは無理がありますが

このコメントが書かれた1979年の時点で

詩人はすでに自らの死に様に強い関心を示していたのですし

この文章の前後に見られる乱れ(揺れ)には

尋常でないものが漂っています。

 

その時になってみなければわからないことを

それ以上書くことをやめた様子が見えるのは明らかで

判断を猶予したのでしょうか。

 

代わりに(というのは語弊があるかもしれませんが)

岸田衿子の「アランブラ宮殿の壁に」を読み

わからないこと(死後世界)があるということの

「素敵に素敵なこと」を記して

この本のエンディングとしたのでした。

 

 

詩人最期の検証の結果は

どうだったのでしょうか?

 

その答えの一つが

「歳月」の中にはあるでしょう。

 

 

今になってみれば

詩人は死をテーマした詩を書いたばかりでなく

自分の死の周辺のゴタゴタに関しても

輪郭のはっきりした主張を

さまざまに表明していたことに気づかされます。

 

このたび私○○○○年○月○日、○○にてこの世におさらばすることになりました。これは生前に書き

置くものです。(朝日新聞 2006321日付記事「追悼 詩人 茨木のり子さん」)

――と書き出される「お別れ」のあいさつ状にはびっくりさせられましたし

感動させられました。

 

近親者には生前、

葬儀、偲ぶ会は行わないよう伝えてあったそうですし、

(谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」の年譜。)

死の当日の

誰からも看取られることのない様子は

孤独の強さみたいなものがありますし、

葬式に参列することがいかに嫌いだったか

詩人自身の発言があります。

(「花一輪といえども」)

 

これらのことは、

「歳月」あとがき(宮崎治)や、

「清冽」(後藤正治)などにも言及されています。

 

 

「花一輪といえども」は

1979年5月、演劇雑誌「悲劇喜劇」に発表されたものですが

「生涯のしめくくり」に関する詩人の考えが

あのきっぱりとした口調のなかにまとめられています。

 

このエッセイの参考にしたのが

劇作家、木下順二から届いた母堂の死を知らせる葉書の文章でした。

 

いつか自分のために良き参考にしようと思って

詩人は長く保存しておいたのだそうです。

 

引用された木下順二の文章は

ほぼ全文であるらしく

飛躍省略のレトリックを感じさせないものですが

その一部には次のようにあります。

 

「そのような次第ですので、御香料そのほかも勝手ながら花一輪といえども御辞退申しあげます。一輪

のお志を受けてしまうことは、大輪の花環を御辞退する理由をなくさせてしまいます事情、どうか御諒察

下さいますよう。」

 

(ちくま文庫「一本の茎の上に」所収「花一輪といえども」より。)

 

茨木のり子は

この文章に全面的に共感しているのです。

 

 

美意識とか美学とか

身辺整理とか……。

 

そんなことではなく

死(者)をして死(者)をあらしめる生者=詩人の

内部からの必然(祈り)であった――。

 

そこのところでは

中原中也の「祈り」に遠く反響していると言えそうです。

 

「羊の歌 Ⅰ」の「祈り」を

もう一度読んでみましょう。

 

 

 祈り

 

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!

この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!

それよ、私は私が感じ得なかったことのために、

罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

 

ああ、その時私の仰向かんことを!

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

 

 

仰向(あおむ)かん(=仰向けになっていよう)

――というのは

何か特別なことをするというのではなく

何か飾るようなことではなく

じたばたするようなことでもありません。

 

生れたときに

花を持っているわけでもなく

生れたままの格好で死にたいという祈りを歌ったものです。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。 

2016年5月 7日 (土)

滝口雅子アウトライン特別編/茨木のり子の恋愛詩集「歳月」/「(存在)」

(前回からつづく)

 

(滝口雅子アウトラインを離れています。)

 

 

 

 

矛盾の門の一方を歌った

「その時」や「獣めく」のような

肉体(生)の記憶をあつかった詩の一群があり

一方に、

エロス(肉体)が限りなく希薄になり

ついには肉体のない世界(死)が歌われる一群もあります。

 

 

(存在)

 

あなたはもしかしたら

存在しなかったのかもしれない

あなたという形をとって 何か

素敵な気(き)がすうっと流れただけで

 

わたしも ほんとうは

存在していないのかもしれない

何か在りげに

息などしてはいるけど

 

ただ透明な気(き)と気(き)が

触れあっただけのような

それはそれでよかったような

いきものはすべてそうして消えて失せてゆくような

 

(花神社「歳月」より。)

 

 

愛するもの同士が

気(もの)と化してしまう状態――。

 

恋する相手を失って

あたかも初恋のような

肉体のない世界が取り戻されたのでしょうか。

 

そうであるならば

初々しく瑞々(みずみず)しくピュアであった

青春の輝きに満ちた世界であるところなのに

ここにあるのは

行く先の死を遠くから見ているような

宇宙から地球の摂理をながめているような

深い諦めのようなものが底にあります。

 

 

この詩は

タイトルがつけられていなかった作品であるため

( )で仮題が示されました。

 

「ひとり暮らし」に、

 

今はじめて 生まれてはじめて一人になって

ひとり暮らし十年ともなれば

宇宙船のなか

あられもなく遊泳の感覚

さかさまになって

宇宙食噛るような索漠の日々

 

手鏡をひょいと取れば

そこには

はぐれ猿の顔

 

――とあり、

 

「梅酒」に、

 

後に残るあなたのことばかり案じてきた私が 

先に行くとばかり思ってきた私が

ぽつんと一人残されてしまい

 

――などとある寂寥とは

異なる領域に踏み込んでいる詩であり

タイトルをつけかねていたのかもしれません。

 

 

「急がなくては」は、

 

あなたのもとへ

急がなくてはなりません

あなたのかたわらで眠ること

ふたたび目覚めない眠りを眠ること

それがわたくしたちの成就です

 

――と「成就」を歌い

この成就に近い世界なのかもしれません。

 

「急がなくては」では

恋する心はもはや

死者と同一化の願いを歌っています。

 

不在の相手との同一化の願いが

死でも生でもない

気体と気体との交流として歌われる「(存在)」が

ここ「急がなくては」では、

死者への同化によって完成(成就)します。

 

 

ここまでくると

矛盾の門は

どこか遠いところの世界へ退いたのでしょうか。

 

矛盾に満ちた生存は

存在するのかしないのか

はっきりしない「在り気」な存在になります。

 

 

愛の歌は

死を思い

死を思索する詩になります。

 

詩集「歳月」は

こうして愛の詩の深みを切り開いていきます。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。 

 

 

 

 

 

2016年5月 3日 (火)

滝口雅子アウトライン特別編/茨木のり子の恋愛詩集「歳月」/「恋唄」

 

(前回からつづく)

 

(滝口雅子アウトラインを離れています。)

 

 

 

 

 

恋唄

 

肉体をうしなって

あなたは一層 あなたになった

純粋の原酒(モルト)になって

一層わたしを酔わしめる

 

恋に肉体は不要なのかもしれない

けれど今 恋わたるこのなつかしさは

肉体を通してしか

ついに得られなかったもの

 

どれほど多くのひとびとが

潜って行ったことでしょう

かかる矛盾の門を

惑乱し 涙し

 

(花神社「歳月」より。)

 

 

あなたの肉体が消えてしまっても

(イメージの)エキスと化したようだわ。

原酒(モルト)になって

わたしをこうして酔わせてくれる――。

 

これなら肉体は不要なのかもしれない

――と思うそばから

いや、そう思えるのは

肉体の記憶があるからだと考え直す。

 

やっぱり

恋しさの出所(でどころ)は

肉体。

 

あれがあったからこそ

いま、こんなに恋しいのだ。

 

この矛盾の門を

多くの人がくぐり抜けてきたのでしょうね。



混乱したり、悲しみに暮れたりしたりして。

 

――と、このように読みをほどこすと

まったく抜け落ちてしまうものがあり

それが詩(の実体)ですから

詩を見失わないでください。

 

詩から離れないでください。

 

 

純粋の原酒(モルト)のように酔わせるものという

この純粋のモルトとは

不在の像(イメージ)であり

思い出の形であり

形に漂う面影(おもかげ)であり

……

素手でつかもうとすれば消えてしまう

気体(エキス)のようなもの

幽霊のようなものなのでしょう。

 

詩人は純粋のモルトのようなその香気につつまれ

心地よい酔いにひたりますが

ひたればひたるほど

肉体の不在を思い知ることになります。

 

アガペーのようなものであっても

それ自体の実在を知覚できるものではない。

 

それを手に入れることができたのは

肉体の経験を記憶しているからでしょ。

 

エロス(肉体)の経験が

モルトに醸造されているからこそ

この恋しさ、なつかしさがわたしを酔わせている。

 

 

矛があり盾がある――。

 

この裏腹の関係の

一方(肉体)は

もはや手に取ることはできないのですから

はじめから無いものねだりをしているような

切ない憧憬です。

 

それを詩は歌います。

 

それを歌うのが詩です。

 

その詩のタイトルが

恋唄とされました。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。 

 

 

 

 

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