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2016年5月16日 (月)

滝口雅子アウトライン特別編/茨木のり子の恋愛詩集「歳月」の終わりに/中也「祈り」の反響

(前回からつづく)

(滝口雅子アウトラインを離れています。)

 

 

 

 

 

 

 

死というのは

自分の死を見ることは出来ないのだから

他者の死にふれて

自分の死を思う(想像する)ほかにないのだから

それにしても

家族親族を含む他者の死を

自分のことのように悲しむのは

自分の死に近づくはじまりでもあると言えるでしょうが

そうであっても

自分が本当に死ぬという実感は

すぐにはやってこない場合が多いでしょうし

他者の死を何度も何度も送り悲しむうちに

ついに自分の死が近づいたことを肉感(自覚)するという時が訪れるのでありましょうし

それはその時になってみないと

わからないものなのでしょう。

 

それにしても

自分に見えたと思えたその死を

他者に伝えるということができるものかどうか

古来多くの詩人が果敢に

チャレンジしてきたことですが……。

 

 

詩集「歳月」には

Yの死を悼むその時々の詩が集められますが

中には詩人自身の死にふれるものまでがあることになります。

 

Yの死の直後と

それから10年、20年、30年を経過するうちに見えてきたYの死は

その時々で異なっているのは当然ですが

これらの死に重ねて

詩人自身が自らの死を見る(見ようとする)ようになりました。

 

それらの詩が歌われるのは

どれもこれも必然でした。

 

そのことを理解するのは

死者への同化願望を歌った詩に触れた時のことかもしれません。

 

 

しかし詩人は

死を想うことばかりに明け暮れていたのではありません。

 

詩人はより良く生きようとしました。

 

Yの死をきっかけに詩人は

1976年にはハングルの勉強をはじめたり

1979年には「詩のこころを読む」を書いたりしました。

 

その後も、

1977年に詩集「自分の感受性くらい」

1982年に詩集「寸志」

1986年にエッセイ集「ハングルへの旅」

1990年に「韓国現代詩選」

1992年に詩集「食卓に珈琲の匂い流れ」

1994年にエッセイ集「一本の茎の上に」

1999年に評伝「貘さんがゆく」

詩集「倚りかからず」

評伝「個人のたたかい――金子光晴の詩と真実」などと

旺盛に著作物を刊行しました。

 

 

「歳月」を離れるにあたって

「詩のこころを読む」の最終章である「別れ」の

中原中也「羊の歌」中の「祈り」に言及した部分に

ふたたびここで触れる機会が巡ってきました。

 

石垣りんの「幻の花」を読み

永瀬清子の「悲しめる友よ」を読んだ続きに

中原中也のこの詩を詩人が取り上げたのには

必然的な理由があるというほかになく

その理由をもう一度ここで尋ねてみたい欲求(誘惑)に駆られます。

 

死の時には私が仰向かんことを!

――と中也が歌った詩句に

なぜ茨木のり子は立ちどまったのだろう。

 

何を読んだのだろう。

 

「詩のこころを読む」の中に

詩人は次のように記しました。

 

 

「私が死ぬ瞬間、いくらかの時間があれば、あなたの<祈り>という詩は、検証してみたいもののひとつ

です。そのとき、うなずくことになるのか、かぶりをふることになるのか……」

そういうスリルを伴った問いとして住みついていて、何かの拍子にひょいと脅(おびや)かしにくる一篇で

もあります。

(茨木のり子「詩のこころを読む」より。)

 

 

茨木のり子は文や詩を書いている時に

思いが高じてきて感動の域に達すると

「あなた」という呼びかけの二人称を記すことがよくあります。

 

親しみの表現でもあり

対等な位置からの呼びかけでもあるような「あなた」が現れるのです。

 

ここにも

その「あなた」が現れました。

 

 

自分の死について

本人ですらその時になってみなければわからないのですから

そのことをみだりに想像するのは無理がありますが

このコメントが書かれた1979年の時点で

詩人はすでに自らの死に様に強い関心を示していたのですし

この文章の前後に見られる乱れ(揺れ)には

尋常でないものが漂っています。

 

その時になってみなければわからないことを

それ以上書くことをやめた様子が見えるのは明らかで

判断を猶予したのでしょうか。

 

代わりに(というのは語弊があるかもしれませんが)

岸田衿子の「アランブラ宮殿の壁に」を読み

わからないこと(死後世界)があるということの

「素敵に素敵なこと」を記して

この本のエンディングとしたのでした。

 

 

詩人最期の検証の結果は

どうだったのでしょうか?

 

その答えの一つが

「歳月」の中にはあるでしょう。

 

 

今になってみれば

詩人は死をテーマした詩を書いたばかりでなく

自分の死の周辺のゴタゴタに関しても

輪郭のはっきりした主張を

さまざまに表明していたことに気づかされます。

 

このたび私○○○○年○月○日、○○にてこの世におさらばすることになりました。これは生前に書き

置くものです。(朝日新聞 2006321日付記事「追悼 詩人 茨木のり子さん」)

――と書き出される「お別れ」のあいさつ状にはびっくりさせられましたし

感動させられました。

 

近親者には生前、

葬儀、偲ぶ会は行わないよう伝えてあったそうですし、

(谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」の年譜。)

死の当日の

誰からも看取られることのない様子は

孤独の強さみたいなものがありますし、

葬式に参列することがいかに嫌いだったか

詩人自身の発言があります。

(「花一輪といえども」)

 

これらのことは、

「歳月」あとがき(宮崎治)や、

「清冽」(後藤正治)などにも言及されています。

 

 

「花一輪といえども」は

1979年5月、演劇雑誌「悲劇喜劇」に発表されたものですが

「生涯のしめくくり」に関する詩人の考えが

あのきっぱりとした口調のなかにまとめられています。

 

このエッセイの参考にしたのが

劇作家、木下順二から届いた母堂の死を知らせる葉書の文章でした。

 

いつか自分のために良き参考にしようと思って

詩人は長く保存しておいたのだそうです。

 

引用された木下順二の文章は

ほぼ全文であるらしく

飛躍省略のレトリックを感じさせないものですが

その一部には次のようにあります。

 

「そのような次第ですので、御香料そのほかも勝手ながら花一輪といえども御辞退申しあげます。一輪

のお志を受けてしまうことは、大輪の花環を御辞退する理由をなくさせてしまいます事情、どうか御諒察

下さいますよう。」

 

(ちくま文庫「一本の茎の上に」所収「花一輪といえども」より。)

 

茨木のり子は

この文章に全面的に共感しているのです。

 

 

美意識とか美学とか

身辺整理とか……。

 

そんなことではなく

死(者)をして死(者)をあらしめる生者=詩人の

内部からの必然(祈り)であった――。

 

そこのところでは

中原中也の「祈り」に遠く反響していると言えそうです。

 

「羊の歌 Ⅰ」の「祈り」を

もう一度読んでみましょう。

 

 

 祈り

 

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!

この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!

それよ、私は私が感じ得なかったことのために、

罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

 

ああ、その時私の仰向かんことを!

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

 

 

仰向(あおむ)かん(=仰向けになっていよう)

――というのは

何か特別なことをするというのではなく

何か飾るようなことではなく

じたばたするようなことでもありません。

 

生れたときに

花を持っているわけでもなく

生れたままの格好で死にたいという祈りを歌ったものです。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。 

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