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« 折にふれて読む中原中也の名作/「朝(雀の声が鳴きました)」 | トップページ | 折にふれて読む中原中也の名作/「狂気の手紙」 »

2016年6月29日 (水)

折にふれて読む中原中也の名作/小林秀雄選の「詩四編」

「夜明け」は、

第1行の、

夜明けが来た。雀の声は生唾液(なまつばき)に似ていた。

――と最終2行の、

《えー……今日はあれとあれとあれと……?………》

脣(くち)が力を持ってくる。おや、烏(からす)が鳴いて通る。

――とが生命線です。

 

ここに詩(人)のこころがあります。

 

脣(くち)が力を持ってくる。

――を読み過ごしては

この詩の意義はつかまえられません。

 

 

「朝」は、冒頭3行の、 

雀の声が鳴きました

雨のあがった朝でした

お葱(ねぎ)が欲しいと思いました

――に詩(人)の動機があります。

 

「夜明け」も「朝」も

暗黒ばかりではなく

悲しみばかりではなく

生存への意欲や自覚や喜びの

わずかばかりであるかのような欲求が表明されますし、
「朝」の肝(きも)は
お葱(ねぎ)が欲しいと思いました

――という部分ですから

これを読み過ごしてはいけません。

 

 

「昏睡」は、

第2連、

何ももう要求がないということは

もう生きていては悪いということのような気もする

それかと云(い)って生きていたくはある

それかと云って却に死にたくなんぞはない

――のうちの後半行、

それかと云(い)って生きていたくはある

それかと云って却に死にたくなんぞはない

――に詩(人)のいのちがあります。

 

この2行が欠けていたならば

この詩は成り立ちません。

 

 

「いちじくの葉」は、

二つの詩ともに

末行に詩のいのちがあることは先に触れました。

 

どちらの「いちじくの葉」も

バイタルなものの源泉とか

希望に似た響きが歌われています。

 

この4作(5作)を繋げているのは

いのちへのウイ(肯定)です。

 

 

「狂気の手紙」は

いのちへのウイがあふれるばかりに歌われていて

これらの詩に繋がっていますが

小林秀雄は「創元」への発表を控えました。

 

おそらく

タイトルを嫌ったからでしょうが

控えただけのことです。

 

代わりに「いちじくの葉」を選んだのも

炯眼(けいがん)というほかにありません。

 

 

ここで「詩四編」ともう一つの「いちじくの葉」を

一堂に会しておきましょう。

 

 

いちじくの葉

 

いちじくの、葉が夕空にくろぐろと、

風に吹かれて

隙間(すきま)より、空あらわれる

美しい、前歯一本欠け落ちた

おみなのように、姿勢よく

ゆうべの空に、立ちつくす

 

――わたくしは、がっかりとして

わたしの過去の ごちゃごちゃと

積みかさなった思い出の

ほごすすべなく、いらだって、

やがては、頭の重みの現在感に

身を托(たく)し、心も托し、

 

なにもかも、いわぬこととし、

このゆうべ、ふきすぐる風に頸(くび)さらし、

夕空に、くろぐろはためく

いちじくの、木末(こずえ) みあげて、

なにものか、知らぬものへの

愛情のかぎりをつくす。

 

 

いちじくの葉

 

夏の午前よ、いちじくの葉よ、

葉は、乾いている、ねむげな色をして

風が吹くと揺れている、

よわい枝をもっている……

 

僕は睡(ねむ)ろうか……

電線は空を走る

その電線からのように遠く蝉(せみ)は鳴いている

葉は乾いている、

風が吹いてくると揺れている

葉は葉で揺れ、枝としても揺れている

 

僕は睡ろうか……

空はしずかに音く、

陽は雲の中に這入(はい)っている、

電線は打つづいている

蝉の声は遠くでしている

懐しきものみな去ると。

       (1933・10・8)

 

 

昏 睡

 

亡びてしまったのは

僕の心であったろうか

亡びてしまったのは

僕の夢であったろうか

記臆というものが

もうまるでない

往来を歩きながら

めまいがするよう

 

何ももう要求がないということは

もう生きていては悪いということのような気もする

それかと云(い)って生きていたくはある

それかと云って却に死にたくなんぞはない

 

ああそれにしても、

諸君は何とか云ってたものだ

僕はボンヤリ思い出す

諸君は実に何かかか云っていたっけ

       (1934・4・22)

 

 

夜明け

 

夜明けが来た。雀の声は生唾液(なまつばき)に似ていた。

水仙(すいせん)は雨に濡(ぬ)れていようか? 水滴を付けて耀(かがや)いていようか?

出て、それを見ようか? 人はまだ、誰も起きない。

鶏(にわとり)が、遠くの方で鳴いている。――あれは悲しいので鳴くのだろうか?

声を張上げて鳴いている。――井戸端(いどばた)はさぞや、睡気(ねむけ)にみちている

であろう。

槽(おけ)は井戸蓋の上に、倒(さかし)まに置いてあるであろう。

御影石(みかげいし)の井戸側は、言問いたげであるだろう。

苔(こけ)は蔭(かげ)の方から、案外に明るい顔をしているだろう。

御影石は、雨に濡れて、顕心的(けんしんてき)であるだろう。

鶏(とり)の声がしている。遠くでしている。人のような声をしている。

おや、焚付(たきつけ)の音がしている。――起きたんだな――

新聞投込む音がする。牛乳車(ぐるま)の音がする。

《えー……今日はあれとあれとあれと……?………》

脣(くち)が力を持ってくる。おや、烏(からす)が鳴いて通る。

          (1934・4・22)

 

 

 

雀の声が鳴きました

雨のあがった朝でした

お葱(ねぎ)が欲しいと思いました

 

ポンプの音がしていました

頭はからっぽでありました

何を悲しむのやら分りませんが、

心が泣いておりました

 

遠い遠い物音を

多分は汽車の汽笛(きてき)の音に

頼みをかけるよな心持

 

心が泣いておりました

寒い空に、油煙(ゆえん)まじりの

煙が吹かれているように

焼木杭(やけぼっくい)や霜(しも)のよう僕の心は泣いていた

                        (1934・4・22)

 

(「新編中原中也全集 第2巻・詩Ⅱ」より。新かなに変えました。編者。)

 

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