折にふれて読む中原中也の名作/小林秀雄選の「詩四編」
「夜明け」は、
第1行の、
夜明けが来た。雀の声は生唾液(なまつばき)に似ていた。
――と最終2行の、
《えー……今日はあれとあれとあれと……?………》
脣(くち)が力を持ってくる。おや、烏(からす)が鳴いて通る。
――とが生命線です。
ここに詩(人)のこころがあります。
脣(くち)が力を持ってくる。
――を読み過ごしては
この詩の意義はつかまえられません。
◇
「朝」は、冒頭3行の、
雀の声が鳴きました
雨のあがった朝でした
お葱(ねぎ)が欲しいと思いました
――に詩(人)の動機があります。
「夜明け」も「朝」も
暗黒ばかりではなく
悲しみばかりではなく
生存への意欲や自覚や喜びの
わずかばかりであるかのような欲求が表明されますし、
「朝」の肝(きも)は
お葱(ねぎ)が欲しいと思いました
――という部分ですから
これを読み過ごしてはいけません。
◇
「昏睡」は、
第2連、
何ももう要求がないということは
もう生きていては悪いということのような気もする
それかと云(い)って生きていたくはある
それかと云って却に死にたくなんぞはない
――のうちの後半行、
それかと云(い)って生きていたくはある
それかと云って却に死にたくなんぞはない
――に詩(人)のいのちがあります。
この2行が欠けていたならば
この詩は成り立ちません。
◇
「いちじくの葉」は、
二つの詩ともに
末行に詩のいのちがあることは先に触れました。
どちらの「いちじくの葉」も
バイタルなものの源泉とか
希望に似た響きが歌われています。
この4作(5作)を繋げているのは
いのちへのウイ(肯定)です。
◇
「狂気の手紙」は
いのちへのウイがあふれるばかりに歌われていて
これらの詩に繋がっていますが
小林秀雄は「創元」への発表を控えました。
おそらく
タイトルを嫌ったからでしょうが
控えただけのことです。
代わりに「いちじくの葉」を選んだのも
炯眼(けいがん)というほかにありません。
◇
ここで「詩四編」ともう一つの「いちじくの葉」を
一堂に会しておきましょう。
◇
いちじくの葉
いちじくの、葉が夕空にくろぐろと、
風に吹かれて
隙間(すきま)より、空あらわれる
美しい、前歯一本欠け落ちた
おみなのように、姿勢よく
ゆうべの空に、立ちつくす
――わたくしは、がっかりとして
わたしの過去の ごちゃごちゃと
積みかさなった思い出の
ほごすすべなく、いらだって、
やがては、頭の重みの現在感に
身を托(たく)し、心も托し、
なにもかも、いわぬこととし、
このゆうべ、ふきすぐる風に頸(くび)さらし、
夕空に、くろぐろはためく
いちじくの、木末(こずえ) みあげて、
なにものか、知らぬものへの
愛情のかぎりをつくす。
◇
いちじくの葉
夏の午前よ、いちじくの葉よ、
葉は、乾いている、ねむげな色をして
風が吹くと揺れている、
よわい枝をもっている……
僕は睡(ねむ)ろうか……
電線は空を走る
その電線からのように遠く蝉(せみ)は鳴いている
葉は乾いている、
風が吹いてくると揺れている
葉は葉で揺れ、枝としても揺れている
僕は睡ろうか……
空はしずかに音く、
陽は雲の中に這入(はい)っている、
電線は打つづいている
蝉の声は遠くでしている
懐しきものみな去ると。
(1933・10・8)
◇
昏 睡
亡びてしまったのは
僕の心であったろうか
亡びてしまったのは
僕の夢であったろうか
記臆というものが
もうまるでない
往来を歩きながら
めまいがするよう
何ももう要求がないということは
もう生きていては悪いということのような気もする
それかと云(い)って生きていたくはある
それかと云って却に死にたくなんぞはない
ああそれにしても、
諸君は何とか云ってたものだ
僕はボンヤリ思い出す
諸君は実に何かかか云っていたっけ
(1934・4・22)
◇
夜明け
夜明けが来た。雀の声は生唾液(なまつばき)に似ていた。
水仙(すいせん)は雨に濡(ぬ)れていようか? 水滴を付けて耀(かがや)いていようか?
出て、それを見ようか? 人はまだ、誰も起きない。
鶏(にわとり)が、遠くの方で鳴いている。――あれは悲しいので鳴くのだろうか?
声を張上げて鳴いている。――井戸端(いどばた)はさぞや、睡気(ねむけ)にみちている
であろう。
槽(おけ)は井戸蓋の上に、倒(さかし)まに置いてあるであろう。
御影石(みかげいし)の井戸側は、言問いたげであるだろう。
苔(こけ)は蔭(かげ)の方から、案外に明るい顔をしているだろう。
御影石は、雨に濡れて、顕心的(けんしんてき)であるだろう。
鶏(とり)の声がしている。遠くでしている。人のような声をしている。
おや、焚付(たきつけ)の音がしている。――起きたんだな――
新聞投込む音がする。牛乳車(ぐるま)の音がする。
《えー……今日はあれとあれとあれと……?………》
脣(くち)が力を持ってくる。おや、烏(からす)が鳴いて通る。
(1934・4・22)
◇
朝
雀の声が鳴きました
雨のあがった朝でした
お葱(ねぎ)が欲しいと思いました
ポンプの音がしていました
頭はからっぽでありました
何を悲しむのやら分りませんが、
心が泣いておりました
遠い遠い物音を
多分は汽車の汽笛(きてき)の音に
頼みをかけるよな心持
心が泣いておりました
寒い空に、油煙(ゆえん)まじりの
煙が吹かれているように
焼木杭(やけぼっくい)や霜(しも)のよう僕の心は泣いていた
(1934・4・22)
(「新編中原中也全集 第2巻・詩Ⅱ」より。新かなに変えました。編者。)
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