カテゴリー

2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月

2016年7月30日 (土)

滝口雅子を知っていますか?/海3部作の一つ「水炎」

(前回からつづく)

 

 

 

 

「蒼い馬」冒頭に

沈んだつぶやきは 海の底からくる

――とある「つぶやき」は

「蒼い馬」をつらぬく詩(人)のひとりごとであるかのように

詩全体を流れつづけます。

 

このつぶやきは

詩集中心部に置かれた「水炎」に至って

頂点に達するかのようです。

 

 

水炎

 

目をひらくと 海の底にいた

いつ 地上の歩みをふみはずしたのか

いつか地上が終りになるな と思ったことが

いま本当のことになったな

すきとおった薄い何枚もの水は

あとからあとからかぶさってきて

それは 瞳の上に

愛情やいろいろな感情の幕が

すべりおりてくるのに似ていた

さびしくて寒かった地上でも

はっきり目をあいていたのだから

水の底を進むときも 目をあいて

水圧で目が痛んでも 目をあいて

酸素の少い曇った地上では

人と人のあいだに たびたび夜がきて

人間から出る<いのちの線>がもつれたり

まっすぐにものを考えることも

生きるためには 差支えたり

それが終りになったのは

あたらしい別のものがくるのかな

 

岩や小石にからんだ海藻は

水の炎になって延びる

 

(土曜美術社出版販売「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

この詩は

つぶやきの詩といってもよいものです。

 

目をひらくと 海の底にいた

――という冒頭行の主格が

蒼い馬と同じ馬であることは明らかです。

 

「蒼い馬」では

馬が主格であり

馬という喩(ゆ)を通じて詩人のつぶやきが表明されるのに比べて

「水炎」では

馬の姿は消えたために

つぶやきはいっそう近づいて

詩人の肉声がじかに聞こえます。

 

 

いつ 地上の歩みをふみはずしたのか

いつか地上が終りになるな と思ったことが

いま本当のことになったな

 

とか、

 

それが終りになったのは

あたらしい別のものがくるのかな

 

――というように使われる終助詞「な」は

詩人自身が確認する声です。

 

詩人はいまも海の底にいます。

 

目をひらくと海の底にいて

地上の終りが本当のことになったのを知りました。

 

その喜びに似たような感情が

「な」に込められました。

 

 

長い時間が経過したのでしょうか?

 

深い眠りから覚めたようなことなのでしょうか?

 

奇跡が起きたのでしょうか?

 

蒼い馬の姿はないのにもかかわらず

蒼い馬はそこに存在しています。

 

 

さびしくて寒かった地上

酸素の少ない曇った地上

たびたび夜がきて

<いのちの線>がもつれたり(する地上)

……。

 

地上は終わりになったことが

詩(人)にはいまや見えています。

 

それが終りになったのは

あたらしい別のものがくるのかな

――と確認します。

 

この確認が

強い調子の確認であることを知るのは

末尾の2行にたどり着いて後のことです。

 

 

岩や小石にからんだ海藻は

水の炎になって延びる

 

この2行が意味するのは

突き詰めれば

海藻=水=炎。

 

「蒼い馬」に

からみつく海藻を払いながら行く

――とあった海藻と

水の炎と化すこの海藻とは異なるものではないでしょう。

 

そうであるなら

海藻も水も炎も

何か、奇跡的な転換へ向かっているような

延びるものであるような

あらしい別のものがくることの予兆と言えるものかもしれません。

 

 

「水炎」という詩の構造を

こうして少しはつかまえることができたのでしょうか。

 

自信はありませんが

「歴史 Ⅰ海への支度」

「蒼い馬」

「水炎」

――を海3部作と見立てれば

詩集の構造の少しはつかまえることができたかもしれません。

 

海をあつかった詩は

「蒼い馬」に他にもあります。

 

「夕陽の海」

「人と海」

「死の岬の水明り」

――と合わせれば海6部作となります。

 

 

詩人の孤独なたたかいの跡は

海の詩だけにでも存分に表白されていますが

それも一部であることに変わりありません。

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年7月24日 (日)

滝口雅子を知っていますか?/「蒼い馬」から「水炎」へ

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

東洋牧場には、乳牛が5、60頭、軍供出用の馬が10頭近く放牧されていたという。牧場の丘から丘

へ、馬に乗って駆けぬけ、ずんずんこちらに向かってくる少女の姿が見えてくる。

――と詩人、白井知子は「新編滝口雅子詩集」巻末の解説に記しています。(「海底をくぐった瞳――滝

口雅子の詩を読む」)

 

東洋牧場は

滝口雅子の養父・滝口松治が朝鮮の京城で経営していた牧場でした。

 

「蒼い馬」のモチーフが

ここにあるとする詩人・白井知子の想像の所産ですが

最近(2002年)になって連絡が取れるようになった雅子の姪に取材して

それまで知られていなかった雅子の生活が

新たに明らかになりました。

 

この記述に続けて

牧場を営む滝口夫妻には子どもがなく、雅子を養女にして間もなく、松治さんの実兄の子ども、つまり甥

を養子に迎えている。戸籍上の滝口雅子の兄にあたる人で、由紀さんの父親である。

 

養女雅子と、あらたに養子に迎えたしっかり者の甥を結婚させ、牧場を継がせるつもりであったという。

しかし、雅子の方は反発する。

――とあるのにぶつかって

滝口雅子の心境をより具体的に想像することが可能になります。

 

そりゃあそうだ!

意にそぐわない結婚を

詩人が受け入れることは到底できまいと

同情の念に似た感情をもって推し測ることができます。

 

(※「由紀さん」とあるのは、白井知子が取材した雅子の姪のこと。滝口雅子の後見人を探す役所が、

戸籍をたどって探し当てたことが記されている。編者。)

 

 

こうした事情(背景)が

滝口雅子を朝鮮脱出の決断へと導いていった

一因であることを知ります。

 

やり遂げたかった学業を断念し

裁縫と生け花に明け暮れ

肺門淋巴腫脹という病気に罹ってしまう……。

 

大陸(中国)では

満州事変(1931年)以来、不穏な情勢が続いているし

日本からは2.26事件のニュースが伝わってくる……。

 

小学校で勉学を共にしたA君には赤紙(召集令状)が届いたし

ほかのクラスメートも17歳になっているから

いずれ召集されるであろう……。

 

そんな詩人のこころを満たすものが

朔太郎の詩集「氷島」であり

犀星の「愛の詩集」であり

宮沢賢治の「春と修羅」であって必然でした。

 

裁縫、生け花のけいこの合間に

そっとこれらを盗み読む時間はあったでしょうし

病気になっては、じっくり読む時間が手に入ったのかもしれません。

 

 

「歴史 Ⅰ海への支度」に現れる

前よりもやせてせきとめられた激しい流れ

――という詩行が

「蒼い馬」に書き込まれたのもまた必然でした。

 

 

「蒼い馬」はその後

どのような足どりを残したのでしょうか?

 

詩集には、海を扱った詩が5、6篇ありますが

「水炎」は「歴史」と並んで

海3部作と呼んで可能な作品です。

 

 

水炎

 

目をひらくと 海の底にいた

いつ 地上の歩みをふみはずしたのか

いつか地上が終りになるな と思ったことが

いま本当のことになったな

すきとおった薄い何枚もの水は

あとからあとからかぶさってきて

それは 瞳の上に

愛情やいろいろな感情の幕が

すべりおりてくるのに似ていた

さびしくて寒かった地上でも

はっきり目をあいていたのだから

水の底を進むときも 目をあいて

水圧で目が痛んでも 目をあいて

酸素の少い曇った地上では

人と人のあいだに たびたび夜がきて

人間から出る<いのちの線>がもつれたり

まっすぐにものを考えることも

生きるためには 差支えたり

それが終りになったのは

あたらしい別のものがくるのかな

 

岩や小石にからんだ海藻は

水の炎になって延びる

 

(土曜美術社出版販売「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2016年7月21日 (木)

滝口雅子を知っていますか?/タイトル詩「蒼い馬」を読む・その3

(前回からつづく)

 

 

 

滝口雅子が単身で日本の土を踏み

東京・世田谷の速記塾へ入ったのは1938年の5月、

その3か月前から通信教育で速記を練習していた

――と年譜にあるのは19歳の時でした。

 

9月の誕生日には

20歳になる年でした。

 

 

単身上京を記したこの1938年(昭和13年)の項の前に

1936年(昭和11年)の項があり

ここには、女学校を優秀な成績で卒業したことが書かれ

奈良女(奈良女子高等師範)をひそかに目ざしていたが

(養父の)承諾が得られず

詩人は裁縫と生け花の稽古に通ったことが記録されています。

 

上級学校への進学の願いは

あっさりと却下されたのでしょうか

年譜には無念の感情は抑制されていますから

事実だけが記録され

詩人のリアクションは明記されていません。

 

代わりに、

萩原朔太郎の「氷島」や

室生犀星の「愛の詩集」や

宮沢賢治などを読んだこと、

さらに、肺門淋巴腫脹という病気で

1年間の療養を余儀なくされたことが記録されています。

 

これは、1937年にわたる記述のはずですから

単身上京のプランはこの2年の間に練成されたのでありましょう。

 

 

年譜のこのあたりをひもといているうちに

詩集「蒼い馬」の冒頭詩「歴史」の前半部「Ⅰ」がよみがえってきます。

 

「Ⅰ」には、まさしく「海への支度」というタイトルがつけられていました。

 

 

それは流れるために 木の破片や樹の葉を

めぐって遠廻りしながらもあきることなく

流れつづけるためにある

おおいかぶさる樹木の緑にかくれながら

岩にぶつかって のけぞって

退いてきた水の瞳は灰色に洗いさらされ

しるされた傷の重たさが水底に沈む

水のすがたにしみている水の思い出

幾度かその面にやさしい愛が燃え

落葉と共に流れた女のからだの思い出

うっすらと また

爆発する濃さで しびれる夢の短かさで

それもいつかうすれていって

こまかくうちくだかれて 思い出の暗さの

底で光りうめきながら月の形を抱きながら

前よりもやせてせきとめられた激しい流れが

夜も休むことなく眠りもなく

流れつづけることで海への遠い

ひそかな支度をする

朝がきて昼がきて陽の光をとかし夜をとかし

季節の移りのなかで流れつづける時間は

時間みずから

流れすぎていくためにあり あたらしい

思い出をくみ立てて

歴史の深いダムのなかへ流れこむ

 

(「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

それは流れるために 木の破片や樹の葉を

めぐって遠廻りしながらもあきることなく

流れつづけるためにある

 

――という歌い出しの「それ」は

依然として謎がのこりますが

「歴史」にしても

「蒼い馬」にしても

「それ」が指示する実態(本体)は詩人に重なるものに違いはないはずですから

そのあまりにも大きな時間の正体を

「それ」そのままにしておくことのほうがよいかもしれません。

 

ここでは、中の、

 

前よりもやせてせきとめられた激しい流れが

夜も休むことなく眠りもなく

流れつづけることで海への遠い

ひそかな支度をする

 

――という詩行が

くっきりと、衝撃をともなって、

呼び起こされてくることに目を離さないことにしましょう。

 

前よりもやせてせきとめられた激しい流れ

――という1行に。

 

 

「歴史」は

せきとめられた流れが

やがて巨大な悲しみのような怒りのようなものを沈めたダムとなる流れを歌います。

 

上級の学校(奈良女)への進学の希望を絶たれた詩人の無念は

無念のまま終わることはありませんでした。

 

詩(人)はそこからはじまっているのです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年7月17日 (日)

滝口雅子を知っていますか?/タイトル詩「蒼い馬」を読む・その2

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「蒼い馬」の盲(めし)いた馬は

 

秋になって

 

冷たさを増す海水に浸(つ)かり

 

海の底でじっと耐えています。

 

 

 

耐えながら待っているのですが

 

待っていることにも耐えている。

 

 

 

つめたさに耐えて

 

待つことに耐えて

 

――という末尾2行が

 

今(=つめたさ)とこれまで(=待つ)という二つの時間を物語るのですが

 

痛いとも寒いとも言わない馬の不動の姿勢が

 

想像を絶する、一種畏敬に似た感慨を呼び覚ますとともに

 

この詩に揺るぎない強い意志の力を放出しています。

 

 

 

ここで耐えているのは

 

馬であり詩人です。

 

 

 

 

 

 

過去にどのような悲しみの種があり

 

どのような苦難の元があったのか

 

詩はなんらかの手がかりを与えません。

 

 

 

盲いた

 

背なかに浴びた血しぶき

 

傷ついた脇腹からしみ出る血

 

――といったダメージが

 

どのようにして馬にもたらされたのか

 

蒼い馬(=詩人)の記憶から忘却されているかのように

 

詩(人)はそれを歌いません。

 

 

 

 

 

 

どのようにして

 

蒼い馬が海にすむようになり

 

どのようにして盲いた目をもつようになったか。

 

 

 

そのことについて

 

この詩が一切(いっさい)触れないのには

 

理由があることでしょう。

 

 

 

 

 

 

蒼い馬

 

 

 

沈んだつぶやきは 海の底からくる

 

水のしわをすかして見える一匹の馬の

 

盲いたそのふたつの目

 

かってその背中に

 

人をのせた記憶さえうすれて

 

海底を行く一匹の蒼い馬4

 

馬はいつから 海に住むか

 

背なかに浴びた血しぶきは

 

自分のものだったか

 

誰のだったか

 

何の気取りもなく 片脚で

 

からみつく海藻を払いながら行く

 

盲いた馬の目は ひそかに

 

海のいろよりも

 

遠くさびしい藍色を加え

 

傷ついた脇腹からしみ出る血は

 

海水に洗われ

 

水から水へ流されて――

 

 

 

秋になると

 

海面にわき上るつめたい濃霧

 

そのとき 海底の岩かげに

 

馬はひとり脚を折ってうずくまる

 

つめたさに耐えて

 

待つことに耐えて

 

 

 

(土曜美術社「滝口雅子全詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

蒼い馬は

 

水を透かして向こうにいますが

 

向こうにいるようでいて

 

ここ(=詩人のいる場所)にもいるかのようです。

 

 

 

蒼い馬は傷ついているのですが

 

蒼い馬を見ている詩人はいつしか

 

傷ついている馬であります。

 

 

 

傷ついている馬はいま

 

傷そのものにケアを集中する暇(いとま)もなく

 

ひたすら耐えています。

 

 

 

 

 

 

それにしても。

 

 

どこから来て、どこへ行こうとしているのか?

 

――という、この詩(人)の出自・来歴および未来が気になります。

 

 

 

あたかも、そう問うことが予想されていたかのように

 

詩の企(たくら)みが

 

そう問うように仕向けられているかのようです。

 

 

 

詩人の出生と生い立ちを知りたくなります。

 

 

 

 

 

 

1918年(大正7年)

 

9月20日、朝鮮咸鏡北道に生れる。父・山本勝三郎は京城府庁の土木技師であった。病身の母の傍を

離れて親戚の家を転々としたが、4歳の時母逝く。

 

 

 

1925年(大正14年)

 

牧場主、滝口家の養女になり、滝口姓になる。京城西大門公立尋常小学校に入学。4年生の時、実父・

勝三郎は、郷里福岡の病院で亡くなる。

 

 

 

1931年(昭和6年)

 

 1月、6年生の時、学業優秀品行方正ということで、京畿道知事の表彰を受ける。「小辞林」1冊もらう。

この時、男子の部で表彰されたA君は、のちに召集され、北支で戦死した(21歳)。3月、西大門小学校

卒業、家のものは女子に学問は不要として上級学校志望の届を出さなかった。誰に頼まれたわけでは

なかったが、担任の教師が家を訪れて、上級に行くことを両親にすすめてくれ、「先生がああ云われる

から」ということで学校にいくことが出来た。4月、京城第一公立高等女学校に入学。学校は道をへだて

て、当時の梨花女子専門学校と対していた。2年生の頃から、文学全集などに親しみ、横光利一、川端

康成などをよく読む。学校では数学が一番好きで成績もよかった。音楽、体操はにが手であった。

 

 

 

1936年(昭和11年)

 

3月、女学校を卒業。成績は197人中12番。当時の奈良女子高等師範を目ざしてひそかに勉強して

いたが許されず、裁縫と生け花のけいこに通う。この時期、萩原朔太郎の「氷島」、室生犀星の「愛の詩

集」、宮沢賢治などを読んだ。肺門淋巴腫脹のため1年間療養する。

 

 

 

1938年(昭和13年)

 

5月、3ヶ月前から、通信教育で練習していた速記を仕上げるため、単身上京して世田谷の速記塾に入

る。1週間後には鵠沼海岸に移り、そこで速記に明け暮れる1年を過ごす。

 

 

 

(「新編滝口雅子詩集」の巻末年譜より。)

 

 

 

 

 

 

これで「蒼い馬」の背景にあった現実を

 

おおよそ見当つけることが可能でしょうか。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年7月13日 (水)

アッバス・キアロスタミ追悼・その4/再録「オリーブの林をぬけて 」鑑賞記

オリーブの林をぬけて

1994 イラン



前作「そして人生はつづく」の1シーンを撮影する風景に、そのシーンに登場する青年が相手の

娘に求婚する物語をからませて、「劇外劇」「劇中劇」の様相を見せるキアロスタミ作品。


震災後4年を経たコケル村は、復旧が進んだが、山間に住んでいた人々の多くは、幹線道路

沿いに引っ越している。「そして人生につづく」で、監督役ファルハッドが新婚の若者に取材する

シーンがあったが、本作は、そのシーンの撮影現場を撮影しながら、そのシーンに起用された

若者ホセインが熱心に相手役の娘タヘレに求婚する様を追う。



「君のおかげで撮影が中止になった。彼女との間に何があった。話してくれ」という、監督の問

いに答えるホセインの「現在」を、ホセインに語らせよう。


 



エイノラの家で仕事をしていたときです。少し前のことです。その向かいが彼女の家

だったんです。彼女は階段に座って、勉強していたんです。僕が働いている目の前

で勉強していたんです。



彼女がおとなしく、よい娘に思え、きっとよい妻になる。彼女と結婚したいと思いました。

僕は仕事を続け、夕方まで働きました。帰る前に手足を洗いに行くと、彼女の母親も

泉にやってきました。水を汲みにきたんです。娘のことをはなすと、すごく怒って。


(なぜ?)


たぶん、彼女の母親には僕が本気じゃないとか、不真面目だとか、彼女に相応しくないと。


(わかった。それで?)


夜、服を着替えているとエイノラがやってきて、明日から来ないでいいと。きっと彼女

の母親に頼まれたんです。もっとよく働くひとを紹介するとか言われて。

地震が起こったのはその夜でした。エイノラの家族もお気の毒に。あの娘の家族も死にま

した。


(タヘレの両親が?)


ええ。


(それで?)


皆、死んだんです。喪に服して3日後にお墓へ行ってみると、人が大勢いたけど、彼

女とは会えませんでした。喪に服して7日後に彼女が両親のお墓にいるのを見つけ

ました。話をしようと思って近づいていくと、おばあさんにお祈りしろと言われた。僕

がお祈りを終えないうちに行ってしまいました。


(その後に会ったのか?)


ええ。喪に服して40日目に1度だけ会いました。


(どんな話をした?)


その日、お墓に行くとおばあさんがいて、僕は思いました。もし死ぬと知ってたら短

い人生を大切に思い、僕を傷つけなかった。もし僕に優しくしてくれていたら、きっと

彼女の家族は死なずにすんだろう。僕は思いました。僕の悲しい心が、皆の家族を

壊したと。


簡単に家を買えるわけないです。そのとき僕はやけをおこして言ってしまったんで

す。「今はもう誰にも家がない。僕もあんた方も、これで平等になった。たしかに僕に

は家がないけど、あんた方にもない。結婚の申し込みに返事をくれ」と。

そしたらこんな返事が返ってきました。本当に傷つきました。「皆、新しい家を建てて

いる。見えないのか」って。


(なるほどな)


僕は11歳のときから、家を建ててきたんです。


(君の職業はなに?)


レンガ職人の手伝いです。


(というと?)


レンガを積んだり、泥とわらを混ぜたり、なんでもやりました。皆、僕に言いました。

「家なしに嫁なし。お前には家がないから娘を嫁にやれないと。家なんて買えません。


(その後、彼女に会った?)


会いました。今日じゃなくて、先週の木曜日に撮影現場で監督さんに会ったときです。


(それで?)


もう1度、結婚の申し込みを、気が進まなかったけど、決心して行きました。


(どこへ?)


お墓です。そこで会いました。





この会話は、突然、ホセインがタヘレに最近会ったシーンの回想に転じた後、そのシーン

に「カット」という撮影中断の合図がかぶさるのである。ホセインがタヘルに会った「先週の

木曜日」=過去が、撮影している今日の木曜日=「現在」に直接連なって行き、連なった場

所は撮影で演技しているホセインとタヘレ、撮影中断で演技と離れているホセインとタヘレ

である。演技上(2人は新婚夫婦である)と現実上(ホセインがタヘレに一方的に求婚してい

る)のホセインが、演技上と現実上のタヘレと交錯するのである。



映画は、ホセインのプロポーズの執拗(しつよう)さ、熱心さ、熱烈振りに焦点をしぼっていくが、

「タヘレの心の変化」は不明だ。このシーンで、ホセインがタヘレに「OKなら本のページをめくっ

てくれ」と返事を迫るが、タヘレがめくりかけたページは戻されてしまう。タヘレが、本のページ

をめくりかけ、また元に戻してしまうこのしぐさは、なかなか暗示的であり、タヘルの心が開きか

けたことを示すのかもしれない。



エンディングは、撮影終了後に、独り徒歩で帰途につくタヘルを追うホセインをとらえる。緑なす

丘を越え、オリーブの林を抜け、野原を行くタヘレを追うホセイン。ホセインもタヘレも撮影用の

純白の衣服をまとい、野原を行く2人は緑の中の白2点になっている。ホセインの饒舌なほど

のプロポーズの声はもはや聞こえてこない。白い点は、ときに1点になり、また2点になり、野

原の端までホセインはタヘレを追うが、急に引き返す。



例によって、このシーンは遠撮され、ホセインの表情、タヘレの顔つきを見ることはできないが、

冒頭にしか流れなかった音楽がBGMとして流れ、ホセインが戻ってくる足取りに心もち軽快な

 

感じを与えていることに「恋の行方」が表現されているかのようだ。

(2001.5.11鑑賞&5.13記)

2016年7月12日 (火)

アッバス・キアロスタミ追悼・その3/再録「そして人生はつづく」鑑賞記

そして人生はつづく

1992 イラン

 

渋滞する幹線道路を、父と子が行く。目指すは、コケル村。父は、前作「友だちのうちは

どこ?」の監督、コケルはそのロケ地である。1990年、イランを襲った大地震で、コケル

村も壊滅的被害を蒙(こうむ)った。映画に出演してもらった少年アハマッドや村の老人

たちは、無事でいられただろうか。とるものもとりあえず、監督は、ややくたびれた愛車

に息子を同乗させ、コケルに向かっている。


映画は、道行く人々に、道を尋ね尋ねし、ときには降車して、復旧作業に追われ、テン

ト生活を強いられている被災者と語らう父子を追うだけの、ノン・ストーリー作品であ

る。だからといって、この作品をドキュメンタリーとは呼べない。緻密な演出、計算され

た会話、構成されたカメラワークなど、映画製作の技法が随所に散りばめられた映画

である。1990年の大地震から2年後の1992年に完成し、公開されていることからも、

そのことは推測できる。


プロの俳優を使わず、ほとんどが市井(しせい)の生活者を起用するキアロスタミ監督

の映画作りの手法は、この作品でも顕著に現われるが、だからといって「出演者」にな

んの注文をつけないわけではない。その典型が、「友だちのうちはどこ?」にも出演し

たルヒ老人に見られる。


渋滞をそれて山道に入った父子が見るのは、何本もの亀裂が入った山肌である。長さ

100メートル以上もある亀裂を前にして立ち往生する車が、豆粒のように俯瞰される。

まさしく地震の「爪跡(つめあと)」であるが、人々は子を失い、親兄弟を失い、親族を失

い、家財産を失う中で、悲嘆に明け暮れているばかりではない。テント生活を強いられ

ながらも、遠い山道を往復し、生活物資を運び、洗濯し……復旧に懸命だ。


ルヒ老人も、トイレの便器を運んでいるところを、通りすがった父子の車に同乗すること

になる。という、実際は「演出」が入ったわけで、カメラが、偶然にも、便器を運ぶルヒ老

人をとらえたのではない。「映画が与えたルヒ老人の家」に着くまでの、ルヒ老人の語り

に耳を傾けてみよう。

 





(お忘れですか?)

わしをご存知ですか?

(覚えていませんか?)

わしが?はいはい、思い出しましたよ。

(本当に?)

はいはい。

(あなたがご無事で何よりです)

地震ですべてが壊れ、不便で大変ですが、幸いいまだ生きていますよ。神のご加護

でね。

(マハマドブールの家は?)

どのマハマドブール?

(一緒に映画に出た……)

あの人たちはコケルだから、わしの村ではない。

(そうですね。この道でコケルへ行けます?)

地震の前には道があったんだが、今はもうなくなってしまったよ。

(この大変なときに、何を運んでるんです?)

口に出して言うまでもない物だよ。何に使うか、見ればわかるだろ?死んだ人は死

んだ人、生きる人にはなくてはならぬ物だよ。<笑>やれやれ。だがね、わしが思う

に、罪のない人々が死んで、沢山の家が壊れたのに、わしの家だけ無事だったな

んて、神様はわしを特別扱いしてくださったのかね。

(すごい幸運の持ち主なんですね)

そんなことはない。

(なぜですか?)

わしが考えるのは、地震とは腹を空かせた狼のようなもので、手当たり次第に人を

食べてしまうんだよ。神の仕業ではない。

(ルヒさん!=これは子の言葉)

なんだね?

(「友だちのうちはどこ?」では、もっとお年寄りでしたよね?=これも子の声)

映画の人たちが、背中にこぶをつけたからだよ。「もっと年寄りに見せなくちゃ」なん

て言って。それでわしも言う通りにしたんだよ。本当は気に入らなかったがね。公平

じゃない。<笑>

映画がどんな芸術か知らないが。年寄りをもっと年寄りに見せるのが芸術かね。若

くきれいに見せるのが芸術ってものじゃないかね。人は年寄りになって初めて若さ

がわかるのさ。

(でも無事だったし、若く見えますよ)

死んではじめて生きてるありがたさがわかる。もし墓に入ったものが生きてくるな

ら、その人はよりよく生きるようになる。





会話は、まだ続き、「ルヒさんの家」に着くが、ここでもルヒさんは、ルヒさんの家とされ

ている家が、実は映画が設定した「ルヒさんの家」であることを暴露するのである。観客

は、映画がこうして創られていることを知るが、どこまでが「事実」に則した内容である

のかを戸惑うまでもない。映画表現の手法として、このような方法もあることを受容でき

るのであるし、何よりも映画が伝えたかったことが伝わればよいのであるから。


コケルを目指し、父子の車は行く。途中、何度も何度も、コケルへの道を尋ね、コケル

の状況を尋ねる。そして、アハマドブールの消息を尋ねながら、コケルはもうひとやま

を越えたところに近づいている。


キアロスタミの映画は、結果を明らかにしない(場合が多い)。しかし、目標=テーマを

放棄するわけではない。テーマを、この映画を見た人々に、より鮮明に、より多く自らの

想像力で考えてほしいと考えているかのように、結果を明らかにしないのである。結果

は、あきらかに、「この今」の中にある。「この細部」にある。このプロセスに隠されてい

る、露出している、とでもいわんばかりである。


アハマドブールの消息、コケルの状況は、もうすぐ、目にすることが可能だ。もうひと息

だ。車は、急坂を登りきれず、後退し、しかし、再びエンジンを最大限ふかして、登りは

じめる。ひとやま越えた。また急坂が立ちはだかる。また登りきれず、押し戻され、坂の

とば口まで後退する。そこへ、生活物資を背負った青年が通りかかり、車を押す。また

再び、車は急坂を登り、ひとやま越えた……。


これらを、カメラが遠撮し、それは、まるで「シジフォス神話」でシジフォスが岩を山頂に

運んでは落とされ、また運んでは落とされる、あの繰り返しのようであるが、まったく異

なる行為である。ここに来るまで、何人もの家族兄弟を失ってなお、懸命に生きようと

する少年少女や老人や青年男女との対話のプロセスを経てきた観客、そして映画の

作り手には、「希望」が捕まえられているのである。

(2001.5.4鑑賞&5.6記)

2016年7月11日 (月)

アッバス・キアロスタミ追悼・その2/再録「友だちのうちはどこ? 」鑑賞記

友だちのうちはどこ?

1987 イラン



小学校の授業風景にはじまり、授業風景で終わる物語。ラストシーンの授業風景では、じわ

じわーっと感動のようなものが立ち上ってきて、いつまでもいつまでもその感動が反芻される

ような作品だ。



成長経済下のイランの山村コケル。隣村のボシュテは、山を一つ越えたところにあるという感

じだろうか。山というより、丘を一つ越えたと言ったほうが適切かもしれない。コケルの小学校

には、遠地ボシュテから登校する子供たちもいる。



主人公のアハマッドはコケルに住み、親友のネマツアデはボシュテに住むが、ネマツアデの

父親はドアの取り付け販売のために、ロバに乗ってコケルを訪れる関係にある。


ネマツアデが、書き取りのノートをアハマッドに間違えて持ち帰られたために宿題をできず

に、教師にひどく叱られる。叱られたその日にも、同じ間違えでアハマッドは、ネマツアデのノ

ートを持ち帰ってしまった。2人のノートは、表紙がそっくりで間違えやすかったのである。


物語は、アハマッドが、ネマツアデのノートを返しに、ボシュテの村を探しまわり、夜になっても

ネマツアデを見つけられずに、仕方なくコケルに戻り、翌日の授業にのぞむ……というシンプ

ルなものだが、この過程で見聞きする人々の生活や少年同士の繋がりあいに、キアロスタミ

の眼差しが散りばめられる。



どの子供たちも、「家父長的共同体」の中にあり、親たちは生活に追われている。学校から戻

った子供たちは、「近代教育」を受けながら、家に帰れば、その共同体の規範に従い、また、

親たちの労働の手助けに参じている。アハマッドは、母親の手伝いや祖父の称する「しつけ」

に素直に応じる、心根の優しい少年である。そのマハマッドが、母親からのパンを買う「お使

い」と、ネマツアデのノートを返しに行かなければならない、というディレンマに陥った。



アハマッドは、このディレンマを突破する。ボシュテのネマツアデに会いに行く。パンを買うお

使いを忘れたわけではない。結果は、しかし、そのどちらも成就できなかったのである。


夜遅く、マハマッドは、夕飯を食べる気持ちになれない。ノートをネマツアデに届けられなかっ

たことに、胸が痛むのである。帰宅した父親は、何も、言わない。母親も、昼間の母親ではな

く、穏やかな声で、食事をしないマハマッドを労(いた)わる。



翌日の授業風景。マハマッドの姿がない。ネマツアデの心は、今にも、潰(つぶ)れそうであ

る。教師が、後ろの席の生徒たちの宿題を点検しはじめているのだ。もうすぐ、教師がネマツ

アデの宿題を点検する。


その教室へ、マハマッドが、到着した。一時は、くたびれ果て、落ち込んだマハマッドが病気に

でもなって、欠席したのだろうか、と思っても仕方のない事態であった。そのマハマッドが、ネ

マツアデの隣りの席に着くと、丁度、教師が2人のところへやってきた。


パラパラと、マハマッドのノートをめくる音。静かだ。OK、OK。今度は、ネマツアデのノートであ

る。マハマッドの書いた「書き取り」を、教師は気づかない。OK、OK……。ネマツアデのノート

に、花が一輪、押し花になっている。昨夜、ボシュテの村で親切にしてくれた老人が手折って

くれた花である。

(2001.5.3鑑賞、5.4記)

2016年7月 9日 (土)

アッバス・キアロスタミ追悼/再録「桜桃の味」鑑賞記

桜桃の味 

 

1997 イラン


自殺に関しての、長い長い映画である。昨2000年末、NHKの番組で長谷川肇久さんが、

引き合いにしていたのを聞いて、見よう見ようと思っていたのを、ようやく見た。


舞台は、テヘラン郊外の丘陵地。というより、主人公バディの運転する車の中が大半で

ある。自殺を決意した初老の男バディが、自家用車でその手助けを求め、街中や近郊の

村を彷徨し、ときに助手席へ誘って、交渉する。「夜に睡眠薬を飲んで穴の中に横たわる。

あなたは次の朝に来て、穴の中の私を呼んでほしい。返事がなかっ たら、土をかけて、

埋めてほしい」というのが、男の頼みである。その交渉の会話が主軸となっている作品

である。

 
会話はしかし、それだけが独立した世界を形成しているわけではない。荒地をジグザグ

しながら進む車を遠撮し、俯瞰する映像をともなっていたり、男の目に映る山肌、子供

たち、村人たち、カラスの群れ、飛行機雲、猫、落日……などの風景が、会話に重なる。

会話と映像は、巧みに絡まりあい、映像の中に言葉が沁み込み、言葉の中に映像が入り

込む関係にあり、そこにまた作品の眼差しはある。男の目に映る風景は、男の内面をシ

ンボリックに反映し、ひとつひとつ「意味」を付与されているようである。

 
セメント採掘現場を覗き込んだ男が、自分の影が、落下する瓦礫に重なるのにショック

を受け、その場にしゃがみ込んでしまうシーンは、この映画の中で、映像と内面の最も

緊張したシンボリックな表現になっている、といえるであろう。運転席から、男が見る

風景は、荒々しい生のシンボルなのか、死のイメージがかぶさっているものなのか、ひ

とつひとつが何ものかを語っていて、緊迫感がみなぎる。その、男の視界と異なる、作

品の視界(神学生と男の会話のシーンは、荒地を行く車を遠景でとらえる)には、キア

ロスタミ監督の眼差しがある。

 
クルドの若い訓練兵、神学を学ぶアフガンの青年らに、断られた男は、ついに自然史博

物館で動物の剥製製作を仕事にしている老人ハゲリに巡り会う。ハゲリの子息は白血病

で治療費の捻出に逼迫(ひっぱく)している、という設定だが、真偽のほどは問題では

ない。ハゲリが、男の手助けに応じたのは、男が「生きる」ためにであって、自殺の手

助けではない、ということは、映画の中で断言されているわけではないが、そう感じさ

せる「生への確信」がハゲリに漂っている。ハゲリとは、「普通のおじさん」であるよう

にみえながら、「ひとかど」の人物であるから、そう理解できるのである。

 
若き日に、ハゲリ自身、自殺を試みた。そのときの様子を、男の運転する車の中で、語

りはじめたハゲリにも、男の決意は揺らがない。揺らがないが、身心のどこかに「ボデ

ィーブロー」を与えているかのようでもある。荒れた丘陵の土煙は、男の目に「死」の

イメージとして映っているのだろうか。ハゲリと会う直前、男は、セメント採掘場で、

自らの「死の影」に怯(おび)えたばかりであった。

 
ハゲリが車の中で男に語った言葉を、書き出しておこう。







「思い出を話そう。結婚したばかりのことだ。生活は貧しく、すべてが悪くなるばかり

だ。わしは疲れ果て、死んだら楽になると思った。もう限界だとね。ある朝、暗いうち

に車にロープを積んで家を出た。わしは固く決意してた。自殺しようと。1960年のこと

で、わしはミネアに住んでいた。

 
わしは家の側の果樹園に入って行った。1本の桑の木があった。まだ辺りはまっ暗でね。

ロープを投げたが枝に掛からない。1度投げてだめ、2度投げてもだめ。とうとう木に登

ってロープを枝に結んだ。すると手になにか柔らかい物が触れた。熟した桑の実だった。

 
1つ食べた。甘かった。2つ食べ、3つ食べ……。いつの間にか夜が明け、山の向うに日

が昇ってきた。美しい太陽!美しい風景!美しい緑!学校へ行く子供たちの声が聞こえ

てきた。子供たちが木を揺すれと。わしは木を揺すった。皆、落ちた実を食べた。わし

はうれしくなってきた。

 
それで桑の実を摘んで家に持って帰った。妻はまだ眠っていた。妻も起きてから桑の実

を食べた。美味しいと言ってね。わしは死を置き忘れて、桑の実を持って帰った。桑の

実に命を救われた。」

 
(ここで、男が問う。「桑の実を食べたら万事うまくいったとでも?」)

 
「そうとは言わない。わしが変わった。わしの気持ちが変わったし、考え方も変わった。

すべて変わった。この世の人間はだれでも悩みを抱えて生きている。生きている限り仕

方ない。人間が何億いようと、悩みのない人間はいない。悩みを教えてくれたら、もっ

と上手く話ができたが。

 
あんただって病院に行けば、医者に病むところを教えるだろ。あんたはトルコ人じゃな

いから、一つ、笑い話をしよう。怒らないで。

 
トルコ人が医者に行って訴えた。「先生、指で体を触るとあらゆるところが痛い。頭を触

ると頭が痛い。足を触ると足が痛い。腹も痛い、手も痛い、どこもかしこも痛い。」


医者は男を診察して、こう言った。「体はなんともない。ただ指が折れてる」と。

あんたの体はなんともない。ただ考えが病気なだけだ。わしも自殺しに行ったが、桑の

実に命を救われた。ほんの小さな桑の実に。あんたの目が見てる世界は、本当の世界と

違う。見方を変えれば、世界が変わる。幸せな目で見れば、幸せな世界が見えるよ。


 
そんなに若いのに。つまらない悩みで死んでしまうなんて。たったひとつの悩みで。人

生は汽車のようなものだ。前へ前へ、ただ走って行く。そして最後に終着駅に着く。そ

こが死の国だ。死はひとつの解決法だが、旅の途中で実行してしまったらだめだよ。

初めはいいと思っても、間違っていることもある。まず、よく考えること。正しいと信

じていても、後で間違っていることに気づくものだ。

 
希望はないのかね?

朝起きたとき、空をみたことはないかね。夜明けの太陽を見たいとは思わないかね?赤

と黄に染まった夕焼け空をもう1度見たくないか?月はどうだ?星空を見たくないか?

夜空にぽっかり浮かんだ満月を見たくない?

 
目を閉じてしまうのか?

あの世から見に来たいほど、美しい世界なのに、あんたはあの世に行きたいのか。もう

1度、泉の水を飲みたくはないかね?泉の水で顔を洗いたくないかね?

 
自然には四季があるが、四季はそれぞれで違った果物がとれる。夏には夏の果物。秋に

は秋の果物。冬は冬の果物、春には春の果物。この世のどんな母親も、それほど果物を

備えられない。どんなに子供を愛する母親も、神には適わない。それほど神は人を慈(い

つく)しんでいる。

 
すべてを拒み、すべてを諦めてしまうのか?

桜桃の味を忘れてしまうのか?

だめだ、友達として頼む。諦めないでくれ。」








車は、赤茶けた山肌の露出する丘陵の道を、右に折れ、左に折れ、やがて街中に出て、

ハゲリの職場である自然史博物館へ辿(たど)り着く。ハゲリを降ろしてまもなく、男

はハゲリのもとへ引き返し、死の手助けを確実に実行するように、ハゲリに念押しする。

ハゲリの言葉は、男に、届いていないかのようだ。

 
やがて夜が来て、男は自殺を決行する「穴」へ入る。暗闇から、男は、満月に行き交う

雲を凝視している――。


このシーンで男の物語は断絶し、一転、緑たわわな丘陵での撮影シーンとなり、キアロ

スタミ監督自らも登場、撮了を告げる。キアロスタミが言う。「これから音入れに入る」

と。主人公の男も、撮影隊やエキストラがくつろぐ丘にまぎれている。そして、この映

画で初めて、BGMが流れ、エンディングとなる。

 
男は、自殺を決行してしまったのだろうか?そこを、映画は見せない。それは、観客が

この作品をどう見るか、見たかにかかっていることを問いかけているかのようである。

桑の実が救った命の話は、男に通じたのだろうか。桜桃の味が男の生きる力に響いたで

あろうか。

 
「死」へ向かう生存にとって、では、「生きる」とはどういうことか。ハゲリと男の「巡

り会い」そのもの、会話そのもの、対話そのものの中に、ヒントが隠されている気がし

てならない。「自殺願望の男の物語」というより、これは、一種、「友情の物語」として

見ることができるのかもしれない。

 
登場する人々は、微塵も曲がったところのない誠実さを滲(にじ)ませている。その意

味では、「悪」というものが、何ひとつ存在しない、人間賛歌を聴いた感じが強く残る作

品でもある。

(2001.4.28鑑賞&記、4.30追補)

※この鑑賞記録は、「花琳党シネマ館」からコピーし、一部変更を加えました。2016年7月9日。合地。

2016年7月 6日 (水)

折にふれて読む中原中也の名作/「狂気の手紙」

 

やっぱりここで「狂気の手紙」を読んでおきましょう。

 

この詩が名作かどうか、

そんなことは問題ではありません。

 

この詩に問題があるとすれば

狂気がどこにも見つからないということです。

 

 

狂気の手紙

 

袖の振合い他生(たしょう)の縁

僕事(ぼくこと)、気違いには御座候(ござそうら)えども

格別害も致し申さず候間

切角(せっかく)御一興とは思召(おぼしめ)され候て

何卒(なにとぞ)気の違った所なぞ

御高覧の程伏而懇願仕候(ふしてこんがんつかまつりそうろう)

陳述此度(のぶればこたび)は気がフーッと致し

キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)

野辺(のべ)の草穂と春の空

何仔細(しさい)あるわけにも無之(これなく)候処

タンポポや、煙の族(やから)とは相成候間

一筆御知らせ申上候

猶(なお)、また近日日蔭など見申し候節は

早速参上、羅宇(ラウ)換えや紙芝居のことなぞ

詳しく御話し申し上候

お葱(ねぎ)や塩のことにても相当お話し申上候

否、地球のことにてもメリーゴーランドのことにても

お鉢(はち)のことにても火箸(ひばし)のことにても何にても御話申上可候(おはなしもうしあぐべくそうろう)匆々(そうそう)

                                       (1934・4・22)

 

 

詩人はこの詩を書いたころ

陰口(かげぐち)をたたかれたのか

面と向かって誰かに罵(ののし)られたのか

気違い呼ばわりされたことがあって

それが風聞(ふうぶん)となって

詩人の属する共同体(交友関係)に広く伝わっていることを知りました。

 

その反撃みたいなことを歌ったのがこの詩です。

 

しかし怒りは抑えられ

候文(そうろうぶん)による道化調が駆使されました。

 

 

人が生きるっていうのは

袖の振合い他生(たしょう)の縁

――と申します通りのこと!

 

僕事(ぼくこと)、気違いには御座候(ござそうら)えども

(僕、気違いということになってはございますが)

格別害も致し申さず候間

(別段、危害を加えることも致しませんから)

 

切角(せっかく)御一興とは思召(おぼしめ)され候て

(折角ですから、ご一興とお思いになされまして)

何卒(なにとぞ)気の違った所なぞ

(何卒どうか、気の違ったところなどを)

御高覧の程伏而懇願仕候(ふしてこんがんつかまつりそうろう)

(とっくりとご覧になりますことを平に平にお願い致すところでございます)

――とまずは丁寧至極の挨拶。

 

つぎにこの度の一件を説明します。

 

 

陳述此度(のぶればこたび)は気がフーッと致し

(少しだけ今度のことを話しませば、気がフーっとなって)

キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)

(まさしくキンポウゲになってしまいましたのです)

 

野辺(のべ)の草穂と春の空

――がそこにあったというようなもので

何仔細(しさい)あるわけにも無之(これなく)候処

(なんらこれといった理由があるものでもございませんで)

タンポポや、煙の族(やから)とは相成候間

(タンポポや、煙の仲間になったみたいなものでして)

一筆御知らせ申上候

(そのことを一筆お知らせ申し上げいたします)

 

 

次が最終連にあたる締めの部分。

 

猶(なお)、また近日日蔭など見申し候節は

(なお、また近く佳い日がありました折には)

早速参上、羅宇(ラウ)換えや紙芝居のことなぞ

(さっそく参上し、羅宇(ろう)換えや紙芝居のことなども)

詳しく御話し申し上候

(詳しくお話し申し上げいたしますし)

お葱(ねぎ)や塩のことにても相当お話し申上候

(お葱や塩など日々の暮らしのこともたっぷりとお話し申し上げますし)

否、地球のことにてもメリーゴーランドのことにても

(いや、地球のことやメリーゴーランドのことや)

お鉢(はち)のことにても火箸(ひばし)のことにても何にても御話申上可候(おはなしもうしあぐべくそうろう)匆々(そうそう)

(お鉢や火箸のことやその他なんでもお話し申し上げるつもりでございます)

草々。

 

 

思い出されるのは

茗荷を食い過ぎた月が現れる詩「月」(「在りし日の歌」)ですね。

 

 

キンポウゲ、とか。

タンポポや、煙の族、とか。

 

怪しい詩語が現れますが

詩人がLSD体験とかハッシシ体験とかに及んだわけではありますまい。

 

 

ロジックに一抹の乱れはなく

詩そのものに狂気の気配もありません。

 

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »