滝口雅子を知っていますか?/海3部作の一つ「水炎」
(前回からつづく)
「蒼い馬」冒頭に
沈んだつぶやきは 海の底からくる
――とある「つぶやき」は
「蒼い馬」をつらぬく詩(人)のひとりごとであるかのように
詩全体を流れつづけます。
このつぶやきは
詩集中心部に置かれた「水炎」に至って
頂点に達するかのようです。
◇
水炎
目をひらくと 海の底にいた
いつ 地上の歩みをふみはずしたのか
いつか地上が終りになるな と思ったことが
いま本当のことになったな
すきとおった薄い何枚もの水は
あとからあとからかぶさってきて
それは 瞳の上に
愛情やいろいろな感情の幕が
すべりおりてくるのに似ていた
さびしくて寒かった地上でも
はっきり目をあいていたのだから
水の底を進むときも 目をあいて
水圧で目が痛んでも 目をあいて
酸素の少い曇った地上では
人と人のあいだに たびたび夜がきて
人間から出る<いのちの線>がもつれたり
まっすぐにものを考えることも
生きるためには 差支えたり
それが終りになったのは
あたらしい別のものがくるのかな
岩や小石にからんだ海藻は
水の炎になって延びる
(土曜美術社出版販売「新編滝口雅子詩集」より。)
◇
この詩は
つぶやきの詩といってもよいものです。
目をひらくと 海の底にいた
――という冒頭行の主格が
蒼い馬と同じ馬であることは明らかです。
「蒼い馬」では
馬が主格であり
馬という喩(ゆ)を通じて詩人のつぶやきが表明されるのに比べて
「水炎」では
馬の姿は消えたために
つぶやきはいっそう近づいて
詩人の肉声がじかに聞こえます。
◇
いつ 地上の歩みをふみはずしたのか
いつか地上が終りになるな と思ったことが
いま本当のことになったな
とか、
それが終りになったのは
あたらしい別のものがくるのかな
――というように使われる終助詞「な」は
詩人自身が確認する声です。
詩人はいまも海の底にいます。
目をひらくと海の底にいて
地上の終りが本当のことになったのを知りました。
その喜びに似たような感情が
「な」に込められました。
◇
長い時間が経過したのでしょうか?
深い眠りから覚めたようなことなのでしょうか?
奇跡が起きたのでしょうか?
蒼い馬の姿はないのにもかかわらず
蒼い馬はそこに存在しています。
◇
さびしくて寒かった地上
酸素の少ない曇った地上
たびたび夜がきて
<いのちの線>がもつれたり(する地上)
……。
地上は終わりになったことが
詩(人)にはいまや見えています。
それが終りになったのは
あたらしい別のものがくるのかな
――と確認します。
この確認が
強い調子の確認であることを知るのは
末尾の2行にたどり着いて後のことです。
◇
岩や小石にからんだ海藻は
水の炎になって延びる
この2行が意味するのは
突き詰めれば
海藻=水=炎。
「蒼い馬」に
からみつく海藻を払いながら行く
――とあった海藻と
水の炎と化すこの海藻とは異なるものではないでしょう。
そうであるなら
海藻も水も炎も
何か、奇跡的な転換へ向かっているような
延びるものであるような
あらしい別のものがくることの予兆と言えるものかもしれません。
◇
「水炎」という詩の構造を
こうして少しはつかまえることができたのでしょうか。
自信はありませんが
「歴史 Ⅰ海への支度」
「蒼い馬」
「水炎」
――を海3部作と見立てれば
詩集の構造の少しはつかまえることができたかもしれません。
海をあつかった詩は
「蒼い馬」に他にもあります。
「夕陽の海」
「人と海」
「死の岬の水明り」
――と合わせれば海6部作となります。
◇
詩人の孤独なたたかいの跡は
海の詩だけにでも存分に表白されていますが
それも一部であることに変わりありません。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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