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2016年8月

2016年8月28日 (日)

滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「窓」の役割

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

詩集「蒼い馬」の6番詩は

ズバリ「窓」というタイトルの詩です。

 

「女の半身像」や「死の岬の水明り」に現れる詩語・窓と

この詩「窓」がつながるものかどうかわかりませんが

ここで読む価値は十分にあることでしょう。

 

 

 

窓はいつでも開かれていたけれど

誰も窓の中をのぞかなかった

窓から見られることをおそれて

向う側の道を通っていったりした

窓の内側にはテーブルやコーヒー茶碗や

猫や編みかけの毛糸の代りに

窓の外と同じ自然がひろがっていた

樹の間に見えかくれする泉があり

泉に倒れかかる樹木があった けれど

だれも窓をのぞいたものはなかったから

のぞいたことがないものには

窓の内側は存在しなかった

窓は外側に向いながら

ひとり内側で

さまざまな樹木の言葉にあふれた

太陽と風にすべてを相談しながら

 

(土曜美術社出版販売「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

擬人法とか

象徴主義とか……。

 

この詩を位置づけたがる前に

やはり何度も何度も繰り返して読んでいるうちに

だんだん親しみやすくなってくるなかで

量の質的な変換というものが起こり

不思議なことにも

これは認識論の詩だとか

詩のありかをめぐる詩であるとか

詩人の居場所を問うた詩であるとか

詩の方法の問題に触れた詩であるとか

やはりこの詩を解釈し位置づける流れに沿うのが

自然であることに気づきます。

 

この詩が

そのようにさせるからです。

 

この詩は

人間の悲しみとか喜びとかを

真正面で歌ったものではなく

思念をかき立てるようにできているからです。

 

とりわけ

窓をモチーフに

窓の外側と内側という二項対立を通じて

表現されているものが何であるか、

のぞいたことがないものには

存在しなかった窓の内側とは何であるか、

自然には泉があり倒れかかる樹木があるというのは何を言いたいのか、

樹木の言葉とは何か、

太陽と風に相談するのはどんな内容か、など。

 

これらの問いが呼び起こすのは

感情であるよりも

思念です。

 

窓とは何なのか?

――を考えさせるのです。

 

 

詩の中では

具体的に何かがが起こるわけではありません。

 

歌われているのは

窓のある家の風景のようでいて

風景を描写するものではありません。

 

窓があり

それは開かれていて

向こうには道があり

人も通るのですが

窓の内側をのぞくことはない

――という前半部は

風景の描写ではなく

この詩の存在を示すための導入部です。

 

こうして、

窓の内側にはテーブルやコーヒー茶碗や

猫や編みかけの毛糸の代りに

窓の外と同じ自然がひろがっていた

――という3行が現れます。

 

窓の内側にあるはずである「Home」の風景ではなく

内側にあるのは

窓の外側と同じ自然です。

 

 

窓の内側には

窓と外側と同じの自然がある――。

 

ここまで読んで

この詩があり得ない景色を歌っていることを知るのですが

ではこの自然とは何なのだろうという問いが生じ

この問いに向きあうところで

はじめてこの詩の内部に入り込んでいます。

 

 

前半部によって

この詩はしっかりした骨組みを現します。

 

では、この詩の自然とは何でしょう。

 

それは、

樹木の言葉であることにほかなりませんが

樹木の言葉が何であるか

もはや詩の言葉にされることはありません。


窓は

すでにシュールな姿を明きらかにしており

その必要がないからです。


 

途中ですが

今回はここまで。

 


2016年8月19日 (金)

滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓・その2

(前回からつづく)

 

 

 

窓という詩の言葉が

どのように使われているかを見るために

「女の半身像」を呼び出しましたが

この詩が

ハッと息を飲むような珠玉(しゅぎょく)であることを

期せずして知ることになります。

 

もう一度読んでみましょう。

 

 

女の半身像

 

白いからだ 白い胸

白い足のうら

折りまげた膝のうらにひそむ影

耳につるばらの花がかかり

口の切りこみにゆれる緑の葉

黒ずむ乳房

しなう腕はやがて折れおちて

とじられた目のうらに一つの窓がひらく

窓の下におちていく大理石の

女の半身像

 

幾世紀のむかし

ばらは さざ波をくぐって

窓の果てまで匂いを放ったが

闇に唇をひらいて燃えているのは

あれは 忘れられてしまった愛

今は 死んでしまった愛

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

白いからだ

白い胸

白い足のうら

ひざのうらにひそむ影

つるばらの花

緑の葉

黒ずむ乳房

大理石

ばら

燃えている

……

 

まず驚かされるのは

透明感のある色彩。

 

地中海の空気のような。

 

白、黒、緑。

 

闇に唇をひらいて燃えている

――とあるから

赤も鮮やかであり

さざ波もあるから

海の青も見えるようだし

みなぎる光線を感じることもできる……。

 

 

ここはどこだろう?

――という疑問は

この詩を味わうための入り口となることでしょう。

 

といって

ヴィーナスの大理石像が出土した

ギリシアのミロ島を想像するのは

あながち無駄なことではありません。

 

詩が自ずと解き放っている空気を感じ取ることは

詩を読む楽しみの一つですから。

 

 

白いからだ

――とこの詩(人)が書き出す女のからだは

はじめ、「外」から見られ

カメラがパンするように

白い胸へ

白い足のうらへ

膝の裏の影へ

耳にまつわるつるバラの花へ

口に咥えられた葉へ

黒ずんだ乳房へ

……と追われるのですが

しなう腕へきて、それは折れ落ち

同時に、

閉じられた目の裏に

一つの窓が開くのです。

 

開かれた窓の下に

落ちてゆくのは

いま見てきた大理石の女の半身像です。

 

目が閉じられた瞬間に

この詩は「内」の劇に転化します。

 

 

この、めまいのするような

空間のビジョン(=映像)は次に

一挙に時(とき)を遡行(そこう)して

遠い過去が目の前に現れます。

 

窓のした(それが海であることは容易に想像できます)に落ちていった女の半身像は

忘れられてしまった愛、

死んでしまった愛そのものであることが

このように歌われるのです。

 

 

見知らぬ愛の物語の中身について

詩はなんら歌いませんが

その物語への入り口の役を

窓が負います。

 

 

「死の岬の水明り」では

窓をこえて寄せてくるものは

人間のかなしみでしたが

「女の半身像」では

窓が

死んでしまった愛の物語のはじまりを告げるのです。

 

窓はともに

詩人の辿ってきた足跡(過去)から

センチメントやらイデオロギーやら観念やらの不要なものを削(そ)ぎ落とし

経験と呼べるものへと濾過し純化するための

篩(ふるい)のような装置として現れます。

 

ここで経験というのは

詩の源泉(もと)のことです。

 

あるいは

詩そのものと呼んでいいものかもしれません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2016年8月16日 (火)

滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

<信じる>

この明るみだけ

――と「死の岬の水明り」前半連は歌い終わります。

 

この「明るみ」は

いったいどこからやってくるでしょうか。

 

この明るみは水明りに他なりませんが

死の岬に星か月かの光があったのでしょうか。

 

 

そうであってもおかしくはありませんが

この明るみは

自然の明るさを指すものではないでしょう。

 

この明るみは

多くの人の、その人たちのうしろの

窓の向こうの死の岬

――を見ている(詩人の)心の中の光です。

 

そして、この光は、

幾万のひると夜を

何が幸せで何が不幸だったかわからなくなっても

(雑草の)根っこにしがみついて(でも)

それ(=明るみ)を信ずる

――という断言をもたらします

 

この断言は

結びの連の5行につながっていきます。

 

 

あたらしい玉藻のように結球する

悔いることのない

人間の悲しみ。

 

キャベツが葉を巻いて大きくなっていくような

後悔する暇(ひま)もない。

 

(ここに、省略と飛躍と詩はあるでしょう!)

 

「かなしみ」を

照らし出すかのように

水明りは

窓を飛び越えて

ひたひたと押し寄せます。

 

 

何が幸せで何が不幸だったかわからないというほどのこと(経験)。

 

人間のかなしみ。

 

「ここ」からは

それらがよく見える、ということでしょうか。

 

 

それにしても

この詩には

暗さがないのは何故でしょう。

 

この詩人の詩に共通する

それは謎のようなことです。

 

この詩に現れる窓は

謎を読み解く

一つの手がかりです。

 

 

「蒼い馬」と「水炎」の間に置かれた

「女の半身像」にも窓が現れますから

なんらかのヒントがあるかもしれません。

 

 

女の半身像

 

白いからだ 白い胸

白い足のうら

折りまげた膝のうらにひそむ影

耳につるばらの花がかかり

口の切りこみにゆれる緑の葉

黒ずむ乳房

しなう腕はやがて折れおちて

とじられた目のうらに一つの窓がひらく

窓の下におちていく大理石の

女の半身像

 

幾世紀のむかし

ばらは さざ波をくぐって

窓の果てまで匂いを放ったが

闇に唇をひらいて燃えているのは

あれは 忘れられてしまった愛

今は 死んでしまった愛

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

 

2016年8月14日 (日)

滝口雅子を知っていますか?/「人と海」と「死の岬の水明り」

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

「死の岬の水明り」は

「人と海」の次にあり

詩集「蒼い馬」全体では18番目の詩です。

 

「人と海」が

海底を抜け出て水平線の見える空を歌ったように

「死の岬の水明り」の「ここ」は

岬の見える陸(おか)です。

 

といっても

この陸は地上をストレートに指示しているものではなく

「窓」という象徴表現の向こうに見える陸(=岬)ですから

実際のシーンに置き換えるのは控えたほうがよいかもしれません。

 

 

二つの詩は

切り離して読めないような

密接なつながりがある関係にあります。

 

ペアとして読むと

互いを補完するような詩といってよいことでしょう。

 

 

死の岬の水明り

 

ここからはよく見える

多くの人の

かみしめると甘ずっぱくてにがい

雑草のこころが

その人たちのうしろの

窓の向うにみえるのは

蒼い氷河の横たわる死の岬

寒気がここにつたわって

夜がわたしたちに雫する

ひとりがひとつずつの草の根を持って

幾万のひると夜を抱いてきた

この世では 何が幸せで

何が不幸だったかわからなくなっても

ずりおちる根っこの土にしがみついて

 <信ずる>

この明るみだけ

 

岬の突端で

あたらしい玉藻のように結球する

悔いることのない 人間のかなしみ

死の岬の水明りは

窓をこえて ひたひたと寄せる

 

(土曜美術社「滝口雅子詩集」より。)

 

 

この詩が「ここ」ではじまるのは

この言葉以外に見当たらないほどの必然です。

 

海の底ではない場所であることを

詩(人)は示したのです。

 

「人と海」ではそこがどこであるのか

水平線や空の見える

海を遠くに見る場所ではありましたが

この詩では「近く」を表す指示代名詞「ここ」で示され

詩(人)は「死の岬」を見ています。

 

 

具体的特定の場所ではなく

「ここ」です。

 

海の底ではない「ここ」です。

 

その分、視界が開けたような明るさがありますが

希望が見えたというほどのことではないようなかすかな変化で

依然として

つぶやきは孤独な響きをもって

自身に向かって続けられます。

 

読み手はこうして

詩(人)のより近くに立つことになり

孤独なつぶやきをより近くで聞きます。

 

 

「ここ」からは

「多くの人」が見え

雑草のこころが見え

「その人たちのうしろ」には「窓」があり

「窓」の向うには「青い氷河の横たわる死の岬」が見えます。

 

 

この詩は

このように堅牢な骨組みを持つ詩であることを知っておくと

詩へ近づきやすくなるかもしれません。

 

 

では「死の岬」とは

どのような岬でしょうか?

 

ようやく詩の入り口にたどりつきますが

詩の中に入り込むのは

詩の骨組みをつかむことほどに容易ではありません。

 

多くの人

甘ずっぱくてにがい 雑草のこころ

青い氷河

寒気

草の根

幸せ

不幸せ

……。

 

そして、

この明るみ。

 

これらの詩語に

詩(人)が込めようとしているものが

たやすくは伝わって来ません。

 

 

「窓」の向こうに見える「死の岬」に

ひたひたと寄せるもの――。

 

それは

人間のかなしみ以外のものではないはずですが

詩はいっこうに

暗鬱な色調を帯びずに

却(かえ)って明るいのは

なぜでしょうか?

 

自然に、もう一度

「人と海」に向かうことになります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 


2016年8月 4日 (木)

滝口雅子を知っていますか?/「水炎」から「人と海」へ

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

 

海藻が水の炎になって延びる

その海藻には、岩や小石がからんでいる

――というとき

海藻は何を示すメタファーなのか?

 

水は?

炎は?

岩や小石は?

 

 

「延びる」が海藻の述語であるなら

海藻は成長し増殖し

前へ先へ未来へと向かう前進的なエネルギー(存在)を指し

その海藻は、

水にさらされて

水に洗われて

水にもまれて

いつしか水と一体となり

水そのものになり

炎になっている。

 

 

海底の馬(=詩人)は

目を開けることができたのだ!

 

その目がとらえたのが

海藻(岩石や小石がからまっている)であり

水であり炎だった。

――ということになるのでしょうか。

――といってしまうと詩を見失ってしまうでしょうか。

 

 

爆発的な変化ではないけれど

詩(人)は、

生きた心地みたいなものを

ようやくつかんだような

何か脱け出たような領域に入った感じがあります。

 

 

海を扱ったほかの詩を

もう少し読んでみましょう。

 

「人と海」は

「水炎」の次の次に配置されています。

 

「水炎」とは異なる時間が流れています。

 

あきらかに時間は推移しています。

 

 

人と海

 

海の向うで声がする

死んだひとの声がする

生きているものまでが

海の向うから声をかける

 

寄せてきてひいていく海の言葉

孤独な海の言葉

たくさんの時間を呑みこんだ

さまざまな水温の層

海の向うの光

生と死のぶつかる光

光りのなかから湧くういういしいこころ

水平線を軸に静かにまわる空

 

海に向って進んでいく

生きているものの

ふるえやまない怖れと期待と

死んだものの呼びかけ

 

魚がかがやき跳ねる海のはて

生きているとき

ひとは何が云いたかったか――

過ぎていった幾つもの永い世紀

 

(土曜美術社「滝口雅子詩集」より。)

 

 

ここでは海は、

海底ではありません。

 

水平線の見えるところですから

地上のはずです。

 

海はここにあるのではなく

遠くにあり、

過ぎていった時のようであります。

 

 

詩(人)は

それを振り返っているようですから

ここ(=地上)はすでに

生地朝鮮ではなく

日本のどこかであるかもしれません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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