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2016年8月14日 (日)

滝口雅子を知っていますか?/「人と海」と「死の岬の水明り」

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

「死の岬の水明り」は

「人と海」の次にあり

詩集「蒼い馬」全体では18番目の詩です。

 

「人と海」が

海底を抜け出て水平線の見える空を歌ったように

「死の岬の水明り」の「ここ」は

岬の見える陸(おか)です。

 

といっても

この陸は地上をストレートに指示しているものではなく

「窓」という象徴表現の向こうに見える陸(=岬)ですから

実際のシーンに置き換えるのは控えたほうがよいかもしれません。

 

 

二つの詩は

切り離して読めないような

密接なつながりがある関係にあります。

 

ペアとして読むと

互いを補完するような詩といってよいことでしょう。

 

 

死の岬の水明り

 

ここからはよく見える

多くの人の

かみしめると甘ずっぱくてにがい

雑草のこころが

その人たちのうしろの

窓の向うにみえるのは

蒼い氷河の横たわる死の岬

寒気がここにつたわって

夜がわたしたちに雫する

ひとりがひとつずつの草の根を持って

幾万のひると夜を抱いてきた

この世では 何が幸せで

何が不幸だったかわからなくなっても

ずりおちる根っこの土にしがみついて

 <信ずる>

この明るみだけ

 

岬の突端で

あたらしい玉藻のように結球する

悔いることのない 人間のかなしみ

死の岬の水明りは

窓をこえて ひたひたと寄せる

 

(土曜美術社「滝口雅子詩集」より。)

 

 

この詩が「ここ」ではじまるのは

この言葉以外に見当たらないほどの必然です。

 

海の底ではない場所であることを

詩(人)は示したのです。

 

「人と海」ではそこがどこであるのか

水平線や空の見える

海を遠くに見る場所ではありましたが

この詩では「近く」を表す指示代名詞「ここ」で示され

詩(人)は「死の岬」を見ています。

 

 

具体的特定の場所ではなく

「ここ」です。

 

海の底ではない「ここ」です。

 

その分、視界が開けたような明るさがありますが

希望が見えたというほどのことではないようなかすかな変化で

依然として

つぶやきは孤独な響きをもって

自身に向かって続けられます。

 

読み手はこうして

詩(人)のより近くに立つことになり

孤独なつぶやきをより近くで聞きます。

 

 

「ここ」からは

「多くの人」が見え

雑草のこころが見え

「その人たちのうしろ」には「窓」があり

「窓」の向うには「青い氷河の横たわる死の岬」が見えます。

 

 

この詩は

このように堅牢な骨組みを持つ詩であることを知っておくと

詩へ近づきやすくなるかもしれません。

 

 

では「死の岬」とは

どのような岬でしょうか?

 

ようやく詩の入り口にたどりつきますが

詩の中に入り込むのは

詩の骨組みをつかむことほどに容易ではありません。

 

多くの人

甘ずっぱくてにがい 雑草のこころ

青い氷河

寒気

草の根

幸せ

不幸せ

……。

 

そして、

この明るみ。

 

これらの詩語に

詩(人)が込めようとしているものが

たやすくは伝わって来ません。

 

 

「窓」の向こうに見える「死の岬」に

ひたひたと寄せるもの――。

 

それは

人間のかなしみ以外のものではないはずですが

詩はいっこうに

暗鬱な色調を帯びずに

却(かえ)って明るいのは

なぜでしょうか?

 

自然に、もう一度

「人と海」に向かうことになります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 


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