滝口雅子を知っていますか?/「人と海」と「死の岬の水明り」
(前回からつづく)
「死の岬の水明り」は
「人と海」の次にあり
詩集「蒼い馬」全体では18番目の詩です。
「人と海」が
海底を抜け出て水平線の見える空を歌ったように
「死の岬の水明り」の「ここ」は
岬の見える陸(おか)です。
といっても
この陸は地上をストレートに指示しているものではなく
「窓」という象徴表現の向こうに見える陸(=岬)ですから
実際のシーンに置き換えるのは控えたほうがよいかもしれません。
◇
二つの詩は
切り離して読めないような
密接なつながりがある関係にあります。
ペアとして読むと
互いを補完するような詩といってよいことでしょう。
◇
死の岬の水明り
ここからはよく見える
多くの人の
かみしめると甘ずっぱくてにがい
雑草のこころが
その人たちのうしろの
窓の向うにみえるのは
蒼い氷河の横たわる死の岬
寒気がここにつたわって
夜がわたしたちに雫する
ひとりがひとつずつの草の根を持って
幾万のひると夜を抱いてきた
この世では 何が幸せで
何が不幸だったかわからなくなっても
ずりおちる根っこの土にしがみついて
<信ずる>
この明るみだけ
岬の突端で
あたらしい玉藻のように結球する
悔いることのない 人間のかなしみ
死の岬の水明りは
窓をこえて ひたひたと寄せる
(土曜美術社「滝口雅子詩集」より。)
◇
この詩が「ここ」ではじまるのは
この言葉以外に見当たらないほどの必然です。
海の底ではない場所であることを
詩(人)は示したのです。
「人と海」ではそこがどこであるのか
水平線や空の見える
海を遠くに見る場所ではありましたが
この詩では「近く」を表す指示代名詞「ここ」で示され
詩(人)は「死の岬」を見ています。
◇
具体的特定の場所ではなく
「ここ」です。
海の底ではない「ここ」です。
その分、視界が開けたような明るさがありますが
希望が見えたというほどのことではないようなかすかな変化で
依然として
つぶやきは孤独な響きをもって
自身に向かって続けられます。
読み手はこうして
詩(人)のより近くに立つことになり
孤独なつぶやきをより近くで聞きます。
◇
「ここ」からは
「多くの人」が見え
雑草のこころが見え
「その人たちのうしろ」には「窓」があり
「窓」の向うには「青い氷河の横たわる死の岬」が見えます。
この詩は
このように堅牢な骨組みを持つ詩であることを知っておくと
詩へ近づきやすくなるかもしれません。
◇
では「死の岬」とは
どのような岬でしょうか?
ようやく詩の入り口にたどりつきますが
詩の中に入り込むのは
詩の骨組みをつかむことほどに容易ではありません。
多くの人
甘ずっぱくてにがい 雑草のこころ
窓
青い氷河
寒気
夜
草の根
幸せ
不幸せ
……。
そして、
この明るみ。
これらの詩語に
詩(人)が込めようとしているものが
たやすくは伝わって来ません。
◇
「窓」の向こうに見える「死の岬」に
ひたひたと寄せるもの――。
それは
人間のかなしみ以外のものではないはずですが
詩はいっこうに
暗鬱な色調を帯びずに
却(かえ)って明るいのは
なぜでしょうか?
自然に、もう一度
「人と海」に向かうことになります。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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