滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓・その2
(前回からつづく)
窓という詩の言葉が
どのように使われているかを見るために
「女の半身像」を呼び出しましたが
この詩が
ハッと息を飲むような珠玉(しゅぎょく)であることを
期せずして知ることになります。
もう一度読んでみましょう。
◇
女の半身像
白いからだ 白い胸
白い足のうら
折りまげた膝のうらにひそむ影
耳につるばらの花がかかり
口の切りこみにゆれる緑の葉
黒ずむ乳房
しなう腕はやがて折れおちて
とじられた目のうらに一つの窓がひらく
窓の下におちていく大理石の
女の半身像
幾世紀のむかし
ばらは さざ波をくぐって
窓の果てまで匂いを放ったが
闇に唇をひらいて燃えているのは
あれは 忘れられてしまった愛
今は 死んでしまった愛
(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」より。)
◇
白いからだ
白い胸
白い足のうら
ひざのうらにひそむ影
つるばらの花
緑の葉
黒ずむ乳房
大理石
ばら
燃えている
……
まず驚かされるのは
透明感のある色彩。
地中海の空気のような。
白、黒、緑。
闇に唇をひらいて燃えている
――とあるから
赤も鮮やかであり
さざ波もあるから
海の青も見えるようだし
みなぎる光線を感じることもできる……。
◇
ここはどこだろう?
――という疑問は
この詩を味わうための入り口となることでしょう。
といって
ヴィーナスの大理石像が出土した
ギリシアのミロ島を想像するのは
あながち無駄なことではありません。
詩が自ずと解き放っている空気を感じ取ることは
詩を読む楽しみの一つですから。
◇
白いからだ
――とこの詩(人)が書き出す女のからだは
はじめ、「外」から見られ
カメラがパンするように
白い胸へ
白い足のうらへ
膝の裏の影へ
耳にまつわるつるバラの花へ
口に咥えられた葉へ
黒ずんだ乳房へ
……と追われるのですが
しなう腕へきて、それは折れ落ち
同時に、
閉じられた目の裏に
一つの窓が開くのです。
開かれた窓の下に
落ちてゆくのは
いま見てきた大理石の女の半身像です。
目が閉じられた瞬間に
この詩は「内」の劇に転化します。
◇
この、めまいのするような
空間のビジョン(=映像)は次に
一挙に時(とき)を遡行(そこう)して
遠い過去が目の前に現れます。
窓のした(それが海であることは容易に想像できます)に落ちていった女の半身像は
忘れられてしまった愛、
死んでしまった愛そのものであることが
このように歌われるのです。
◇
見知らぬ愛の物語の中身について
詩はなんら歌いませんが
その物語への入り口の役を
窓が負います。
◇
「死の岬の水明り」では
窓をこえて寄せてくるものは
人間のかなしみでしたが
「女の半身像」では
窓が
死んでしまった愛の物語のはじまりを告げるのです。
窓はともに
詩人の辿ってきた足跡(過去)から
センチメントやらイデオロギーやら観念やらの不要なものを削(そ)ぎ落とし
経験と呼べるものへと濾過し純化するための
篩(ふるい)のような装置として現れます。
ここで経験というのは
詩の源泉(もと)のことです。
あるいは
詩そのものと呼んでいいものかもしれません。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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コメント
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滝口 雅子さんの 悲しみの数 という詩が気になります。
女声合唱曲として信長貴富さんが曲をつけられているのですが、それも相まって透き通った、乾いた、空気感が漂っています。
熱い悲しみではなく、それよりももっと深い所に落ちる、心が渇ききったような悲しみを私は感じるのです。
作者は何を思われたのでしょうか。気になります。この詩についても解説頂ければ嬉しいです。
投稿: 梅 | 2016年8月30日 (火) 11時35分
読んでいただいてありがとうございます。滝口雅子の詩は、読めば読むほど深みにはまっていくような、根っこの奥深さを感じています。すでに半年以上、読み続けていますが、1作1作、街を歩いていたり、喫茶店でぼんやりしていたり、新聞記事をよんでいたり……するときに、解釈がやってきて、ようやく前に進めるといった調子で読んでいます。独自の読みになるように気を使うと、自然そうなります。「悲しみの数」が、女声合唱のために作曲されているというのは、大変重要な意味を持っていることですね。現代作曲の世界の先進性みたいなものを感じます。そのうち触れることがあるかもしれませんが、いまは「蒼い馬」をたゆたっている状態ですので、どうなることかわかりません。今後も引き続き、感想などお寄せください。
投稿: 合地 | 2016年9月 1日 (木) 13時17分