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2016年8月19日 (金)

滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓・その2

(前回からつづく)

 

 

 

窓という詩の言葉が

どのように使われているかを見るために

「女の半身像」を呼び出しましたが

この詩が

ハッと息を飲むような珠玉(しゅぎょく)であることを

期せずして知ることになります。

 

もう一度読んでみましょう。

 

◇

 

女の半身像

 

白いからだ 白い胸

白い足のうら

折りまげた膝のうらにひそむ影

耳につるばらの花がかかり

口の切りこみにゆれる緑の葉

黒ずむ乳房

しなう腕はやがて折れおちて

とじられた目のうらに一つの窓がひらく

窓の下におちていく大理石の

女の半身像

 

幾世紀のむかし

ばらは さざ波をくぐって

窓の果てまで匂いを放ったが

闇に唇をひらいて燃えているのは

あれは 忘れられてしまった愛

今は 死んでしまった愛

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」より。)

 

◇

 

白いからだ

白い胸

白い足のうら

ひざのうらにひそむ影

つるばらの花

緑の葉

黒ずむ乳房

大理石

ばら

燃えている

……

 

まず驚かされるのは

透明感のある色彩。

 

地中海の空気のような。

 

白、黒、緑。

 

闇に唇をひらいて燃えている

――とあるから

赤も鮮やかであり

さざ波もあるから

海の青も見えるようだし

みなぎる光線を感じることもできる……。

 

◇

 

ここはどこだろう?

――という疑問は

この詩を味わうための入り口となることでしょう。

 

といって

ヴィーナスの大理石像が出土した

ギリシアのミロ島を想像するのは

あながち無駄なことではありません。

 

詩が自ずと解き放っている空気を感じ取ることは

詩を読む楽しみの一つですから。

 

◇

 

白いからだ

――とこの詩(人)が書き出す女のからだは

はじめ、「外」から見られ

カメラがパンするように

白い胸へ

白い足のうらへ

膝の裏の影へ

耳にまつわるつるバラの花へ

口に咥えられた葉へ

黒ずんだ乳房へ

……と追われるのですが

しなう腕へきて、それは折れ落ち

同時に、

閉じられた目の裏に

一つの窓が開くのです。

 

開かれた窓の下に

落ちてゆくのは

いま見てきた大理石の女の半身像です。

 

目が閉じられた瞬間に

この詩は「内」の劇に転化します。

 

◇

 

この、めまいのするような

空間のビジョン(=映像)は次に

一挙に時(とき)を遡行(そこう)して

遠い過去が目の前に現れます。

 

窓のした(それが海であることは容易に想像できます)に落ちていった女の半身像は

忘れられてしまった愛、

死んでしまった愛そのものであることが

このように歌われるのです。

 

◇

 

見知らぬ愛の物語の中身について

詩はなんら歌いませんが

その物語への入り口の役を

窓が負います。

 

◇

 

「死の岬の水明り」では

窓をこえて寄せてくるものは

人間のかなしみでしたが

「女の半身像」では

窓が

死んでしまった愛の物語のはじまりを告げるのです。

 

窓はともに

詩人の辿ってきた足跡(過去)から

センチメントやらイデオロギーやら観念やらの不要なものを削(そ)ぎ落とし

経験と呼べるものへと濾過し純化するための

篩(ふるい)のような装置として現れます。

 

ここで経験というのは

詩の源泉(もと)のことです。

 

あるいは

詩そのものと呼んでいいものかもしれません。

 

◇

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

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コメント

滝口 雅子さんの 悲しみの数 という詩が気になります。
女声合唱曲として信長貴富さんが曲をつけられているのですが、それも相まって透き通った、乾いた、空気感が漂っています。
熱い悲しみではなく、それよりももっと深い所に落ちる、心が渇ききったような悲しみを私は感じるのです。
作者は何を思われたのでしょうか。気になります。この詩についても解説頂ければ嬉しいです。

読んでいただいてありがとうございます。滝口雅子の詩は、読めば読むほど深みにはまっていくような、根っこの奥深さを感じています。すでに半年以上、読み続けていますが、1作1作、街を歩いていたり、喫茶店でぼんやりしていたり、新聞記事をよんでいたり……するときに、解釈がやってきて、ようやく前に進めるといった調子で読んでいます。独自の読みになるように気を使うと、自然そうなります。「悲しみの数」が、女声合唱のために作曲されているというのは、大変重要な意味を持っていることですね。現代作曲の世界の先進性みたいなものを感じます。そのうち触れることがあるかもしれませんが、いまは「蒼い馬」をたゆたっている状態ですので、どうなることかわかりません。今後も引き続き、感想などお寄せください。

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