2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近の記事

カテゴリー

ブログランキング参加中です

中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

電子書籍

無料ブログはココログ

« 滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓 | トップページ | 滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「窓」の役割 »

2016年8月19日 (金)

滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓・その2

(前回からつづく)

 

 

 

窓という詩の言葉が

どのように使われているかを見るために

「女の半身像」を呼び出しましたが

この詩が

ハッと息を飲むような珠玉(しゅぎょく)であることを

期せずして知ることになります。

 

もう一度読んでみましょう。

 

 

女の半身像

 

白いからだ 白い胸

白い足のうら

折りまげた膝のうらにひそむ影

耳につるばらの花がかかり

口の切りこみにゆれる緑の葉

黒ずむ乳房

しなう腕はやがて折れおちて

とじられた目のうらに一つの窓がひらく

窓の下におちていく大理石の

女の半身像

 

幾世紀のむかし

ばらは さざ波をくぐって

窓の果てまで匂いを放ったが

闇に唇をひらいて燃えているのは

あれは 忘れられてしまった愛

今は 死んでしまった愛

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

白いからだ

白い胸

白い足のうら

ひざのうらにひそむ影

つるばらの花

緑の葉

黒ずむ乳房

大理石

ばら

燃えている

……

 

まず驚かされるのは

透明感のある色彩。

 

地中海の空気のような。

 

白、黒、緑。

 

闇に唇をひらいて燃えている

――とあるから

赤も鮮やかであり

さざ波もあるから

海の青も見えるようだし

みなぎる光線を感じることもできる……。

 

 

ここはどこだろう?

――という疑問は

この詩を味わうための入り口となることでしょう。

 

といって

ヴィーナスの大理石像が出土した

ギリシアのミロ島を想像するのは

あながち無駄なことではありません。

 

詩が自ずと解き放っている空気を感じ取ることは

詩を読む楽しみの一つですから。

 

 

白いからだ

――とこの詩(人)が書き出す女のからだは

はじめ、「外」から見られ

カメラがパンするように

白い胸へ

白い足のうらへ

膝の裏の影へ

耳にまつわるつるバラの花へ

口に咥えられた葉へ

黒ずんだ乳房へ

……と追われるのですが

しなう腕へきて、それは折れ落ち

同時に、

閉じられた目の裏に

一つの窓が開くのです。

 

開かれた窓の下に

落ちてゆくのは

いま見てきた大理石の女の半身像です。

 

目が閉じられた瞬間に

この詩は「内」の劇に転化します。

 

 

この、めまいのするような

空間のビジョン(=映像)は次に

一挙に時(とき)を遡行(そこう)して

遠い過去が目の前に現れます。

 

窓のした(それが海であることは容易に想像できます)に落ちていった女の半身像は

忘れられてしまった愛、

死んでしまった愛そのものであることが

このように歌われるのです。

 

 

見知らぬ愛の物語の中身について

詩はなんら歌いませんが

その物語への入り口の役を

窓が負います。

 

 

「死の岬の水明り」では

窓をこえて寄せてくるものは

人間のかなしみでしたが

「女の半身像」では

窓が

死んでしまった愛の物語のはじまりを告げるのです。

 

窓はともに

詩人の辿ってきた足跡(過去)から

センチメントやらイデオロギーやら観念やらの不要なものを削(そ)ぎ落とし

経験と呼べるものへと濾過し純化するための

篩(ふるい)のような装置として現れます。

 

ここで経験というのは

詩の源泉(もと)のことです。

 

あるいは

詩そのものと呼んでいいものかもしれません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

« 滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓 | トップページ | 滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「窓」の役割 »

戦後詩の海へ/茨木のり子の案内で/滝口雅子」カテゴリの記事

コメント

滝口 雅子さんの 悲しみの数 という詩が気になります。
女声合唱曲として信長貴富さんが曲をつけられているのですが、それも相まって透き通った、乾いた、空気感が漂っています。
熱い悲しみではなく、それよりももっと深い所に落ちる、心が渇ききったような悲しみを私は感じるのです。
作者は何を思われたのでしょうか。気になります。この詩についても解説頂ければ嬉しいです。

読んでいただいてありがとうございます。滝口雅子の詩は、読めば読むほど深みにはまっていくような、根っこの奥深さを感じています。すでに半年以上、読み続けていますが、1作1作、街を歩いていたり、喫茶店でぼんやりしていたり、新聞記事をよんでいたり……するときに、解釈がやってきて、ようやく前に進めるといった調子で読んでいます。独自の読みになるように気を使うと、自然そうなります。「悲しみの数」が、女声合唱のために作曲されているというのは、大変重要な意味を持っていることですね。現代作曲の世界の先進性みたいなものを感じます。そのうち触れることがあるかもしれませんが、いまは「蒼い馬」をたゆたっている状態ですので、どうなることかわかりません。今後も引き続き、感想などお寄せください。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓 | トップページ | 滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「窓」の役割 »