滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「死と愛」の流れ・追補
(前回からつづく)
娘は
青くやせて
すこやかに<死>をみごもった
――という「死と愛」の最終行は
滝口雅子という詩人の考え方の根っこが埋まっていて
これを放置したままでは前に進めない
心臓部のような詩行です。
ここには
感覚だけではとらえられないものがあって
それは思想とか哲学と呼んでよいものでしょう。
というわけですから
「死と愛」にもう少しこだわり
突っ込んだ解釈にトライしてみます。
◇
といっても
詩をわざわざ散文に言い換える無理に
挑戦するものではありません。
ここでできるのは
ほかの詩(行)からヒントを見つけ出すほどのことです。
詩は詩の中にしかありません。
◇
「死と愛」の次の次に置かれた「扉」は
死と愛とほぼ同じ意味で「生と死」を真正面で歌っています。
やや観念的な詩ですが
「死と愛」を読む強力なヒントになりそうです。
◇
たとえば中に、
生は死の持っていない匂いのために
死は生の知らない匂いのために
お互いをひきつける
生は死を美しいと思い
死は生を美しいと思う
その二つは必ず誰にもあるもの
生きることがどういうことか
生は本当にはまだ知らない けれど
死にはわかっている
生きることも死ぬこともそれらが
どういうものだかを
――という詩行があります。
(「新編滝口雅子詩集」より。原詩に改行を加えました。編者。)
生は愛と同じもののはずですから
死と愛の関係を理解するヒントになる詩行です。
さらに、
友達であり自分自身である死の扉に
――という詩行もあり
めずらしく説明的で散文的ともいえる言葉遣いが
却って詩(人)の思想を明快にしています。
これらを
「死と愛」と関連づけて考えないという手はないはずです。
◇
「扉」は現実の果てにあり
それが開くと
生と死が向き合っているという構図が示されていますが
この構図は
先に読んだ「窓」の
現実にはあり得ないような
トポロジカルな(位相幾何学的な)空間よりも
平明な感じがあります。
◇
「扉」の次の次にある「女」には、
死の重みを生の重みに代えて
花のほころぶのにも似た 自然な
目覚めをするときの
――とあります。
これは、
すこやかに<死>をみごもる
――という思想が
別の詩語で語られていると読めそうなところです。
◇
「死と愛」の二つ前に配置された「炎」は
透明な蝶の番(つがい)が
街灯の下を静かに並んで飛び
はげしく交わった後で
一方の蝶が死へ向って旅立っていく
(生命の)摂理のような
はかなさの象徴のようなものが歌われます。
ここに登場する2匹の蝶は
別々の個体と考えるよりも
1個の生命ととらえることが可能でしょう。
とすれば
死はここで生命と連続しています。
冒頭の2行に、
誰も住んだことのない時間
誰も行ったことのない道
――とあることから
蝶が飛んでいるのは
死の世界であるかのように読めますから
蝶が最後に飛び立ってゆく先は
生の世界であるというような
逆転があるのかもしれません。
死に向って飛び立つ果てに
生があるかのような
命の完結(はじまり)として。
◇
この詩「炎」は
「死と愛」を読むヒントになるでしょうか。
とりわけ、
すこやかに<死>をみごもった
――という詩行を読むヒントになるでしょうか。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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