中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「少女と雨」の風景
「雨」を歌った詩の流れに
「梅雨と弟」
「少女と雨」
――の2篇があり
この2篇、元は「梅雨二題」という一つの詩でした。
◇
少女と雨
少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは
其処(そこ)は花畑があって菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです
菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはいませんでした
しとしとと雨はあとからあとから降って
花も葉も畑の土ももう諦めきっています
その有様をジッと見てると
なんとも不思議な気がして来ます
山も校舎も空の下(もと)に
やがてしずかな回転をはじめ
花畑を除く一切のものは
みんなとっくに終ってしまった 夢のような気がしてきます
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)
◇
この詩のめまいのするような感覚は
どこから生じるのか?
じっくり読んでいると
少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは
――という第1行と、
その有様をジッと見てると
なんとも不思議な気がして来ます
――という第4連との
目の混乱、いわば錯覚から来ていることに気づきます。
◇
校庭に佇んで菖蒲の花を見ているのは少女なのですが……。
その菖蒲の花は雨に打たれ
音楽室から聞こえてくるオルガンの音を聞いていない。
菖蒲の花は
いつしかオルガンを聞いていない詩人に成り代わり
次には
その有様をじっと見ている詩人が現れ
その詩人が不思議な感覚を抱いているのです。
もちろん、これは詩人が意図した混乱です。
◇
雨に打たれ続ける菖蒲の花を
じーっと、ずーっと見ている。
詩人はそういう時をもったのでしょうか。
もたなくても
この詩は書けるのかもしれません。
もったとしたら
そこは鎌倉でしょうか。
そんなこと考えるのは無用でしょうか。
◇
中途ですが
今回はここまで。
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