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2016年10月

2016年10月31日 (月)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「少女と雨」の風景

 

 

「雨」を歌った詩の流れに


「梅雨と弟」


「少女と雨」


――の2篇があり


この2篇、元は「梅雨二題」という一つの詩でした。
 



 

少女と雨

 

少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは


其処(そこ)は花畑があって菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです

 

菖蒲の花は雨に打たれて

音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはいませんでした

 

しとしとと雨はあとからあとから降って

花も葉も畑の土ももう諦めきっています

 

その有様をジッと見てると

なんとも不思議な気がして来ます

 

山も校舎も空の下(もと)に

やがてしずかな回転をはじめ

 

花畑を除く一切のものは


みんなとっくに終ってしまった 夢のような気がしてきます

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩のめまいのするような感覚は


どこから生じるのか?

 

じっくり読んでいると

 

少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは


――という第1行と、

 

その有様をジッと見てると


なんとも不思議な気がして来ます


――という第4連との


目の混乱、いわば錯覚から来ていることに気づきます。

 

 

校庭に佇んで菖蒲の花を見ているのは少女なのですが……。

 

その菖蒲の花は雨に打たれ


音楽室から聞こえてくるオルガンの音を聞いていない。

 

菖蒲の花は


いつしかオルガンを聞いていない詩人に成り代わり


次には


その有様をじっと見ている詩人が現れ


その詩人が不思議な感覚を抱いているのです。

 

もちろん、これは詩人が意図した混乱です。

 

 

雨に打たれ続ける菖蒲の花を


じーっと、ずーっと見ている。

 

詩人はそういう時をもったのでしょうか。

 

もたなくても


この詩は書けるのかもしれません。

 

もったとしたら


そこは鎌倉でしょうか。

 

そんなこと考えるのは無用でしょうか。

 



 

中途ですが


今回はここまで。

 

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「雨の朝」の風景

 

鎌倉で制作した詩篇のうち


風景や自然の描写が混ざらないものがあり


それらは大抵が回想する詩です。

 

 

ほかに、思索し内省する詩があり


これらに風景描写は希薄(きはく)になります。

 

 

回想するのは幼少期の家族や


学校での思い出になります。

 


(成人して後の経験を歌った詩もあります。)

 

 

回想するのは過去のことですから


ここに現れる風景が


鎌倉であるはずはありません。

 

 



 

 

雨の朝

 



⦅麦湯(むぎゆ)は麦を、よく焦(こ)がした方がいいよ。⦆


⦅毎日々々、よく降りますですねえ。⦆


⦅インキはインキを、使ったらあと、栓(せん)をしとかなきゃいけない。⦆


⦅ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一……⦆


         上草履(うわぞうり)は冷え、


         バケツは雀の声を追想し、


         雨は沛然(はいぜん)と降っている。


⦅ハイ、皆さん御一緒に、一二(いんに)が二……⦆


         校庭は煙雨(けぶ)っている。


         ――どうして学校というものはこんなに静かなんだろう?


         ――家(うち)ではお饅(まん)じゅうが蒸(ふ)かせただろうか?


         ああ、今頃もう、家ではお饅じゅうが蒸かせただろうか?

 

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

 

 

この詩は


1937年(昭和12年)「四季」6月号に発表されました。

 

 

小学校時代の思い出を歌った名作の一つです。

 

 



 

 

ここにある「現在」は何でしょうか。

 

 

過去は⦅  ⦆で括られた会話体の中にあり


地の文に詩人の現在はあります。

 

 

 

――どうして学校というものはこんなに静かなんだろう?

――家(うち)ではお饅(まん)じゅうが蒸(ふ)かせただろうか?


ああ、今頃もう、家ではお饅じゅうが蒸かせただろうか?

 

 

3か所出てくる「?」で終る詩行を


詩人は何によって喚起(かんき)されたのでしょう。

 

 

この疑問は空しいでしょうか。

 

 



 

 

途中ですが


今回はここまで。

2016年10月30日 (日)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「初夏の夜に」の風景

 

「初夏の夜に」は

「四季」1937年(昭和12年)10月号(9月20日付け発行)に発表されました。

 

第1次形態の草稿末尾に「一九三七、五、一四」とあり

これは「蛙声」の制作日と同じ日でした。

 

 

初夏の夜に

 

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――

死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かわら)から、此(こ)の世の僕等を看守(みまも)ってるんだ。

彼の世の磧は何時(いつ)でも初夏の夜、どうしても僕はそう想(おも)えるんだ。

行こうとしたって、行かれはしないが、あんまり遠くでもなさそうじゃないか。

窓の彼方の、笹藪(ささやぶ)の此方(こちら)の、月のない初夏の宵(よい)の、空間……其処(そこ)に、

死児等(しじら)は茫然(ぼうぜん)、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。

罪のない奴等(やつら)が、咎めもせぬから、こっちは尚更(なおさら)、辛(つら)いこった。

いっそほんとは、奴等に棒を与え、なぐって貰(もら)いたいくらいのもんだ。

それにしてもだ、奴等の中にも、10歳もいれば、3歳もいる。

奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、

あるとしたらだ、何(いず)れにしてもが、やさしい奴等のことではあっても、

3歳の奴等は、10歳の奴等より、たしかに可哀想(かわいそう)と僕は思う。

なにさま暗い、あの世の磧の、ことであるから小さい奴等は、

大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想うけれど、

それにしてもが、3歳の奴等は、10歳の奴等より、可哀想だ……

――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……

                        (1937・5・14)

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かな・洋数字に変えました。編者。)

 

 

第1次形態のタイトルは

「初夏の夜に おもへらく」となっていましたが

「四季」に発表した時に

「おもへらく」は削除されました。
 
「おもへらく」は漢文系文語。

 

現代表記にすると「おもえらく(思えらく)」で

「思うことには」「僕は思う」の意味。

 

 

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か

 

――という、この冒頭行と最終行によって

この詩が誘(いざな)うのは

死んだ子の回想であり

「おもえらく」は回想であることの強調でした。

 

蚊が飛んできたという現在は

鎌倉であったことが想像できます。

 

ここでも

鎌倉でなければならないというものではありませんが。

 

 

回想の対象は

1931年(昭和6年)9月26日に亡くなった弟・恰三。

昨1936年11月10日に亡くなった長男・文也。

一人は10歳、一人は3歳で現れますが

どちらも実年齢ではありません。

 

恰三は10歳に満たず

文也は数え年で3歳ですが。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「夏(僕は卓子の上に)」の風景



「夏日静閑」と同じころに作られ

夏という季節をモチーフにした詩が

「夏(僕は卓子の上に)」

「初夏の夜に」

――の2篇あり

どちらも生前発表されています。

 

「夏(僕は卓子の上に)」は

1937年(昭和12年)の「詩報」第1年第2号(9月15日付け)に初出、

1937年(昭和12年)10月号「文学界」(12月1日付け)に再発表されました。

 

「夏日静閑」は

10月1日付け発行の「文芸汎論」が初出でした。
 


 


 

僕は卓子(テーブル)の上に、


ペンとインキと原稿紙のほかなんにも載(の)せないで、


毎日々々、いつまでもジッとしていた。

 

いや、そのほかにマッチと煙草(たばこ)と、

吸取紙(すいとりがみ)くらいは載っかっていた。


いや、時とするとビールを持って来て、


飲んでいることもあった。

 

戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた。

風は岩にあたって、ひんやりしたのがよく吹込(ふきこ)んだ。

思いなく、日なく月なく時は過ぎ、

 

とある朝、僕は死んでいた。


卓子(テーブル)に載っかっていたわずかの品は、


やがて女中によって瞬(またた)く間(ま)に片附(かだづ)けられた。


――さっぱりとした。さっぱりとした。

 

(「中原中也全集」第1巻「詩」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

どこか見覚えのあるイメージの元をたどれば

「在りし日の歌」中「永訣の秋」の「或る男の肖像」に行き着きます。

 

 

彼女は


壁の中へは這入ってしまった。

 

それで彼は独り、


部屋で卓子(テーブル)を拭いていた。

 

――という最終連の流れが


この詩に至るのか分かりませんが


或る男がいた「庭に向って、開け放たれた戸口」は


鎌倉のものではなくとも


似ている状況を思わせます。

 

「卓子(テーブル)」も


同じ部屋ではなくとも


詩人の使用していた文机(ふづくえ)であるような匂いを放ちます。

 

 

どころか、第3連――。

 
戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた。

風は岩にあたって、ひんやりしたのがよく吹込(ふきこ)んだ。

 

――に至って

 これは鎌倉そのものである詩行に巡りあい

身を乗り出します。

 

風が岩にあたるのは

海辺の光景ではなく

鎌倉の切り通しや切岸の岩に違いありません。

 

 
途中ですが

今回はここまで。

2016年10月28日 (金)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「夏日静閑」の風景

 

「正午 丸ビル風景」が「文学界」に発表されたのは


1937年(昭和12年)10月号。

 

 

店頭には8月末には出回るでしょうか。

 

 

同じころに書かれた詩に「夏日静閑」があり


「文芸汎論」10月特大号に発表されました。

 

 

詩篇末尾に「1937、8、5」の日付があります。

 

 

 

 

夏日静閑

 

 


暑い日が毎日つづいた。


隣りのお嫁入前のお嬢さんの、


ピアノは毎日聞こえていた。


友達はみんな避暑地(ひしょち)に出掛け、


僕だけが町に残っていた。


撒水車(さんすいしゃ)が陽に輝いて通るほか、


日中は人通りさえ殆(ほと)んど絶えた。


たまに通る自動車の中には


用務ありげな白服の紳士が乗っていた。


みんな僕とは関係がない。


偶々(たまたま)買物に這入(はい)った店でも


怪訝(けげん)な顔をされるのだった。


こんな暑さに、おまえはまた


何条(なんじょう)買いに来たものだ?


店々の暖簾(のれん)やビラが、


あるとしもない風に揺れ、


写真屋のショウインドーには


いつもながらの女の写真。


              1937、8、5

 


(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かな・洋数字に変えました。編者。)

 

 

 

 

この詩の夏も


鎌倉の夏と読んで間違いないことでしょう。

 

 

鎌倉の夏であると


読まねばならないということではありませんが。

 

 

 

 

隣りのお嫁入前のお嬢さん


彼女が弾くピアノ


僕だけが町に残っていた


撒水車(さんすいしゃ)が陽に輝いて通る


人通りさえ殆(ほと)んど絶えた日中


たまに通る自動車


用務ありげな白服の紳士が乗っている

 

買物にはいった店


怪訝(けげん)な顔にあう


店の暖簾(のれん)やビラ


あるとしもない風


写真屋のショウインドー


いつもながらの女の写真


……

 

 

みんな鎌倉の町の匂いがしませんか?

 

 

 

 

目に見えるもの


触れるもの


聞こえるもの


出会うもの。

 

 

みんな僕とは関係がない。


――のです。

 

 

 

 

「夏日静閑」は


生前発表された詩の


最も最後のものです。

 

 

 

 

途中ですが


今回はここまで。

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「正午」の風景

「正午 丸ビル風景」は


「文学界」1937年(昭和12年)10月号(発行10月1日付け)に発表されました。

 

 

印刷日の9月10日から逆算すると


同年8月中旬が制作日と推定されています。

 

東京駅丸の内の風景は


故郷・山口に帰省する時の始発駅ですから


詩人には見慣れたものであったでしょうが


「正午」に歌われた風景は


鎌倉駅で乗車して


横須賀線に揺られて上京した時に見たものと考えるのが自然です。

 

 



 

 

正午     


    
丸ビル風景  



 

ああ12時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ


ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ


月給取(げっきゅうとり)の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って


あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ


大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口


空はひろびろ薄曇(うすぐも)り、薄曇り、埃(ほこ)りも少々立っている


ひょんな眼付(めつき)で見上げても、眼を落としても……


なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな


ああ12時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ


ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ


大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口


空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かな・洋数字に変えました。編者。)

 

 



 

 

鎌倉・寿福寺敷地内の住まいから上京し


これから都心部への用事を果たそうとする矢先に見た時の


東京駅・丸の内の風景でしたが


この風景の向うに


故郷・山口はあり


現住地・鎌倉はありました。

 

この風景を見る詩人に

さらば東京! 
さらば青春!

―― の声が聞こえ始めていました。

 



 

 

途中ですが


今回はここまで。

 

 

 

2016年10月24日 (月)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「春日狂想」の風景


鎌倉で初稿が制作された詩を鎌倉詩篇と呼んだときに

「在りし日の歌」には

正午

春日狂想

蛙声

――の3篇がそれに該当します。

このうち「正午」は

「丸ビル風景」というサブタイトルがあるように

東京・丸の内のビル街を借景とした詩であるものの

鎌倉・寿福寺敷地内の住まいで書かれたことは間違いありません。
 

詩人は鎌倉から横須賀線に乗って

上京することはしばしばあったのですし

帰省を決意した前か後かに

丸ビル風景を眺めて

この詩を作ったのでした。


「蛙声」の

天や地や池や蛙……が

寿福寺境内に当時あって

現在もある小さな池の畔(ほとり)からの眺望であったと想像するのも

見当外れではありません。





「春日狂想」に現われる風景が

鎌倉の街、とりわけ中心部の鶴岡八幡宮へ至る若宮大路周辺であると想像するのも

至極当然なことです。




春日狂想


   1


愛するものが死んだ時には、

自殺しなきゃあなりません。


愛するものが死んだ時には、

それより他に、方法がない。


けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、

なおもながらうことともなったら、


奉仕(ほうし)の気持に、なることなんです。

奉仕の気持に、なることなんです。


愛するものは、死んだのですから、

たしかにそれは、死んだのですから、


もはやどうにも、ならぬのですから、

そのもののために、そのもののために、


奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。


   2


奉仕の気持になりはなったが、

さて格別の、ことも出来ない。


そこで以前(せん)より、本なら熟読。

そこで以前(せん)より、人には丁寧。


テンポ正しき散歩をなして

麦稈真田(ばっかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編(あ)み――


まるでこれでは、玩具(おもちゃ)の兵隊、

まるでこれでは、毎日、日曜。


神社の日向(ひなた)を、ゆるゆる歩み、

知人に遇(あ)えば、にっこり致(いた)し、


飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、

鳩に豆なぞ、パラパラ撒(ま)いて、


まぶしくなったら、日蔭(ひかげ)に這入(はい)り、

そこで地面や草木を見直す。


苔(こけ)はまことに、ひんやりいたし、

いわうようなき、今日の麗日(れいじつ)。


参詣人等(さんけいにんら)もぞろぞろ歩き、

わたしは、なんにも腹が立たない。


    《まことに人生、一瞬の夢、

    ゴム風船の、美しさかな。》


空に昇って、光って、消えて――

やあ、今日は、御機嫌(ごきげん)いかが。



久しぶりだね、その後どうです。

そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。


勇(いさ)んで茶店に這入(はい)りはすれど、

ところで話は、とかくないもの。



煙草(たばこ)なんぞを、くさくさ吹かし、

名状(めいじょう)しがたい覚悟をなして、――


戸外(そと)はまことに賑(にぎ)やかなこと!

――ではまたそのうち、奥さんによろしく、


外国(あっち)に行ったら、たよりを下さい。

あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。

まことに人生、花嫁御寮(はなよめごりょう)。


まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、

話をさせたら、でもうんざりか?


それでも心をポーッとさせる、

まことに、人生、花嫁御寮。


   3


ではみなさん、

喜び過ぎず悲しみ過ぎず、

テンポ正しく、握手(あくしゅ)をしましょう。


つまり、我等(われら)に欠けてるものは、

実直(じっちょく)なんぞと、心得(こころえ)まして。
 

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――

テンポ正しく、握手をしましょう。

 
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)





これら3篇の鎌倉詩篇は

長男・文也の死後の制作ということが明確ですが

特にこの「春日狂想」は

まっすぐな文也追悼詩ということになります。

 

その追悼詩の中に、

空に昇って、光って、消えて――

――とある空は鎌倉の空であり

ゴム風船がポカリとその空に浮かんで遠のいていきます。






途中ですが

今回はここまで。

2016年10月22日 (土)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/鎌倉詩篇

 

丸善、白水社、三才社は、ともに洋書を取り扱っていた。

――と「新編中原中也全集」の解題篇は記述しています。

 

これは、
この年(1937年)の「四季」11月号に

ルモール詩抄<第1回>」として発表する

女性詩人マルスリーヌ・デボルド=ルモールへの研究をはじめ

フランス詩への取り組みや

フランス語文化(文学)への関心がますます旺盛だったことの現れでしょう。

 

中原中也訳「ランボオ詩集」が発行されたのは

9月15日でしたし

これへの評判は上々で

11月18日再版発行、12月25日3版発行となりましたが

詩人はこのことを知ることはありませんでした。

 

79年前の今日(1937年10月22日)に永眠しました。

 

 

文房堂にて原稿紙、Gペン。

――とある文房堂(ぶんぽどう)は

神田神保町の画材店で

当時、文房堂製の原稿用紙を販売していて

中也が常用していた原稿用紙の一つでした。

 

Gペンは、付けぺんのこと。

詩人は、インク壺を使い、Gペンで原稿用紙に書いていました。

 

 

さらば青春!

さらば東京!

――といっても

文学をやめたわけでもなく

詩人をやめるつもりでもなかったのです。

 

 

では、なぜ鎌倉を去らねばならなかったのでしょうか?

 

茫洋としているというのは

どういうことだったのでしょうか。

 

 

ここで、

詩人が鎌倉という土地への思いを述べた発言を

概観しておきましょう。

 

知人・友人宛ての

詩人自身の記述です。

 

 

阿部六郎宛の書簡より。(1937年7月7日付け。)
 

もうくにを出てから15年ですからね。ほとほともう肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからというものは、もうどんな詩情も湧きません。

 

河上徹太郎宛の書簡より。(1937年8月推定。)

 

……それに関東の自然はやっぱり僕にはつまらない。枯れた葭に押寄せた寒い宵なんかみたいで、どうも肉感が足りなくて仕方がない。

 

安原喜弘宛の書簡。(1937年9月2日付け。)
 

帰ってもまあ、あんまりいいこともないのですが、ほんのつまらぬ道の曲り角にも、少年時代がこびりついていますし、まあ、なんとなく粘着力は感じられます。

 

(以上、いずれも「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」中「蛙声」解題より。)
 
上記9月2日付けの安原喜弘宛ての書簡には

終生の友であった安原ゆえへの忌憚(きたん)ない感慨(お喋り)が述べられ

将来を語る詩人の口ぶりが軽やかです。

 

 

〇肉感に乏しい関東の空の下

〇子供に死なれてからどんな詩情も湧かない

〇関東の自然はやっぱり僕にはつまらない

〇枯れた葭に押寄せた寒い宵なんかみたい

〇どうも肉感が足りなくて仕方がない

〇(山口には)つまらぬ道の曲り角にも、少年時代がこびりついている

〇(山口には)なんとなく粘着力は感じられます

 

――と、相手によって微妙に差異があり

長男・文也の死以後、療養所生活以外は鎌倉に住んでいた詩人は

子供に死なれてから詩情がわかないというのも

鎌倉という土地への感情ばかりとは言えず

(「関東」への思いの披瀝ですし)

安原宛ては、生地・山口の美点を述べたもので

鎌倉そのものへの感想ではありませんから

厳密に判断する場合には注意が必要ですが

これらが鎌倉を引き上げる理由になったことは間違いありません。

 

けれども

鎌倉が嫌になったから

鎌倉を去るということではなさそうです。

 

 

鎌倉と思われる風景が

鎌倉で制作された詩群の中に散乱しているのは

詩人が鎌倉で詩をそれほど多量に見つけたということですから。

 

鎌倉で制作された詩篇を

ざっと見ておきましょう。

 

 

「生前発表詩篇」のうち、

 

ひからびた心

雨の朝

子守唄よ

渓流

梅雨と弟

夏(僕は卓子の上に)

初夏の夜に

夏日静閑
 

 

未発表詩篇のうち、
 
「早大ノート」にある

こぞの雪今いずこ
 

「草稿詩篇(1937年)」と分類される詩群は

全てが鎌倉で制作されました。

 

このうち「春と恋人」は
「横浜もの」といわれる横浜を題材にした作品ですが。

 

春と恋人

少女と雨

夏と悲運

(嘗てはランプを、とぼしていたものなんです)

秋の夜に、湯に浸り

4行詩

 


 

これらを「鎌倉詩篇」と呼んでもいいくらいです。

 

このほかに「在りし日の歌」中の名作の幾つかが

「鎌倉詩篇」です。

 

調べてみたら、

 

正午

春日狂想

蛙声

 

――の3篇であることがわかりました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年10月18日 (火)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/月光・続

 

さば雲、鰯雲、うろこ雲、ひつじ雲……。

 

今日は秋晴れの1日、

午後3時過ぎの空は雲の競演。

 

さば雲もろとも! と中也が幸福感(観)を表現した

さば雲はどれか?

――などと天を仰ぎながら

ドトールからの帰路をゆっくりと歩きました。

 

これは、元をたどればランボーですが

今、その詩を紹介するゆとりがありません。

 

 

1937年9月26日に

鎌倉の月はどう見えていたのだろう。

 

この疑問を解くのが先決。

ネットで調べてみました。

 

 

その日は、日曜日でした。

月齢21.3、宵月。

満月から新月へと欠けていく途中の下弦の月だったようです。

 

街灯や民家の明かりや

天候とか温度とか風向きとか

空気の透明度とかによって

月の見え方は異なるはずですから

その日その夜に

鎌倉で見えた月がはっきりとするわけはないでしょうが

雨天ではなかったようですし

街灯や住家の明かりの途絶えたところでは

月光があたりを照らすほどの明るさがあったことを想像できます。

 

 

君ら想(おも)わないか、夜毎(よごと)何処(どこ)かの海の沖に、


火を吹く龍(りゅう)がいるかもしれぬと。


君ら想わないか、曠野(こうや)の果(はて)に、


夜毎姉妹の灯ともしていると。

 

君等想わないか、永遠の夜(よる)の浪、

其処(そこ)に泣く無形(むぎょう)の生物(いきもの)、

其処に見開く無形の瞳、

かの、かにかくに底の底……

 

 

「道化の臨終Etude Dadaistique」のイントロ(序曲)は

一種、壮大な宇宙への想念を

「君ら」に向けて仕掛ける詩行で

中也の詩に多くある夜の詩の一つですから

これが「蛙声」の夜に通じていても特別なことではないでしょう。

 

月光下の道をたどる詩人の脳裏に

この詩行が駆けめぐっていたかもしれません。

 

 

毎日毎夜、地球の宇宙のどこかで蠢(うごめ)いている。
 

 

火を吹く龍(りゅう)


姉妹の灯


泣く無形(むぎょう)の生物(いきもの)、


見開く無形の瞳

 

――という、


これらの孤独な魂の活動を


誘(いざな)う終行。

 
 

かの、かにかくに底の底……

 

自分(詩人)もまた

その孤独の底にいるのです。

 

この状態を

君、わかってくれるだろうか?

――と静粛な感じではじまる詩です。

 

歌おうとしているのは

道化の臨終ですから。

 

そのためのミサとかレクイエムのはずですから。
 


 

小林秀雄の住まいへの道すがら

蛙になり

道化になり。

 

 

それで

孤独の中身が

あれやこれや、延々と語られるのですが

だんだん道化調になってきて

仕舞いには

倦怠するのか

種が尽きたのか

収拾が取れなくなるような感じになりますが

なんとか神を頼む場面にたどり着いて

ついにこの詩は終わります。

 

 

序曲の荘厳さは

どこへ行ってしまったのでしょうか。

――と振り返る心に残るのは

丹下左膳

ドッコイショノショ。

 

この詩の面白さ(読みどころ)は

丹下左膳が出てくるあたりにあるように思われてきます。

 

 

このメタファーの

得体の知れなさ。

 



 

途中ですが

今回はここまで。

2016年10月17日 (月)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/月光

空の下(もと)には 池があった。

その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、

空はかおりと はるけくて、

今年も春は 土肥(つちこ)やし、

雲雀(ひばり)は空に 舞いのぼり、

小児(しょうに)が池に 落っこった。

 

小児は池に仰向(あおむ)けに、

池の縁(ふち)をば 枕にて、

あわあわあわと 吃驚(びっくり)し、

空もみないで 泣きだした。

 

――という詩行を含む「道化の臨終」が

前川佐美男主宰の「日本歌人」に発表されたのは

1937年(昭和12年)の9月号(9月1日付け発行)でした。

 

末尾に制作日が (一九三四・六・二)と記されてあることから

3年前に作った詩を

「日本歌人」へ送ったものということになります。

 



 

……と、ここまでは何の変哲もない書誌ということなのですが

「新編中原中也全集」の解題篇は

驚くべき考証を展開してみせます。

 

 

詩人が「日本歌人」へ「道化の臨終」原稿を送った日の考証。

 

1冊の書物の印刷・発行が順調であるなら

普通、印刷日(8月25日)から逆算して

2か月前の6、7月に入稿しているはずです。

 

ところが、主宰者が書いた9月号後記に

同人の一人が9月1日に奈良の連隊へ入隊したことが記されていました。

 

これは、実際の印刷・発行日が

奥付に記載された印刷日、発行日よりも遅れたことを示すのではないか。

 

そうとなれば

「道化の臨終」が送られたのは

8月と考えられる。

 

この8月こそ

「在りし日の歌」の最終編集のはじまる時期だ。

 



 

考証(推測、推定)がなんとスリリングなものか!

 

緊迫した様子が伝わってきます。

 

「在りし日の歌」の最終編集過程で

「蛙声」と「道化の臨終」の原稿(用紙)が

詩人の手の届くところに置かれていたことが想像できます。

 



 

中也は旧作を発表する時、

なんらかの推敲を加え、手を入れて

その時点でも現在の作品と呼び得る質を維持するのが習いでした。

 

「蛙声」の天と地と池と

「道化の臨終」の空と池とが重なっているのは

そのことを明かしている――。

 

「詳細は不明」としながら

「新編中原中也全集」の解題は

ここまで踏み込んでいるということです。

 

 

あっぱれ!

拍手!

 

 

やや専門的な話になりましたが

「池」の連想(空想)で

「蛙声」から「黄昏」へ飛び

今度は「道化の臨終」へ飛んだのですが

空想の旅も

たまにはリアルな実証の旅に合流するのですから

面白いというほかにありません。

 

だから空想はやめられませんし

旅はやめられません。

 

池(空間)をきっかけにした「黄昏」や「道化の臨終」へのワープは

ひょいと時間をも超えてしまいました。

 



 

「蛙声」が起点でした。

 

鎌倉が起点でした。

 

寿福寺が起点でした。

 

寿福寺の中也の住まいから

小林秀雄の住まいまでの道を歩いてみようというアイデアが出発でした。

 

 

暗い道のりを

詩人が歩いていきます。

 

携帯ランプの灯をとぼしながらなのか

それはわかりませんが

ランプを詩人がこの時持っていたなら

原稿の紙包みは小脇に抱えていたのかもしれませんし

ランプを持たなかったのなら

胸に抱えていたのかもしれません。

 

繃帯を巻いた足首(小林秀雄)で。

下駄履き(中村光夫)で。

 

ひょっとすると

月明りが道を照らし出していたのかもしれません。

 

断崖(きりぎし)を覆(おお)う森の闇の向うに

月光を反照した天は

突き抜けるような蒼穹(あおぞら)を見せていたのかもしれません。

 

煥発する燈火ではなく

月光が詩人の味方だったのかもしれません。

 

……と想像すると

詩人は、案外、すがすがしい心持ちで歩いていたのかもしれません。

 

 

小林秀雄に「在りし日の歌」の清書原稿を届けた3日後に

詩人は上京します。

 

丸善、白水社、三才社等を見、3冊求む。

文房堂にて原稿紙、Gペン。

――などと、その9月29日の日記に認(したた)めます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年10月16日 (日)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/蛙声3「道化の臨終」の池


「蛙声」の池と


「黄昏」の池と。

 

 

中也の詩に現れる池のことで思いを巡らしていると


池に赤ん坊が落ちたことを歌った詩があったなあなんて思い出し


その詩を探してみれば


「道化の臨終(Etude Dadaistique)」であることがわかりました。

 

 

旅のついでだから


寄り道――。

 

 



 

 

道化の臨終(Etude Dadaistique

 



序曲

 


君ら想(おも)わないか、夜毎(よごと)何処(どこ)かの海の沖に、


火を吹く龍(りゅう)がいるかもしれぬと。


君ら想わないか、曠野(こうや)の果(はて)に、


夜毎姉妹の灯ともしていると。

 


君等想わないか、永遠の夜(よる)の浪、


其処(そこ)に泣く無形(むぎょう)の生物(いきもの)、


其処に見開く無形の瞳、


かの、かにかくに底の底……

 
 

心をゆすり、ときめかし、


嗚咽(おえつ)・哄笑一時(こうしょういっとき)に、肝(きも)に銘(めい)じて到(いた)るもの、


清浄(しょうじょう)こよなき漆黒(しっこく)のもの、


暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

 

 

     *       *

          *


 

空の下(もと)には 池があった。


その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、


空はかおりと はるけくて、


今年も春は 土肥(つちこ)やし、


雲雀(ひばり)は空に 舞いのぼり、


小児(しょうに)が池に 落っこった。

 

 

小児は池に仰向(あおむ)けに、


池の縁(ふち)をば 枕にて、


あわあわあわと 吃驚(びっくり)し、


空もみないで 泣きだした。

 

 

僕の心は 残酷(ざんこく)な、


僕の心は 優婉(ゆうえん)な、


僕の心は 優婉な、


僕の心は 残酷な、


涙も流さず 僕は泣き、


空に旋毛(つむじ)を 見せながら、


紫色に 泣きまする。

 

 

僕には何も 云(い)われない。


発言不能の 境界に、


僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、


僕は砂粒(すなつぶ)に 照る日影だの、


風に揺られる 雑草を、


ジッと瞶(みつ)めて おりました。

 

どうぞ皆さん僕という、


はてなくやさしい 痴呆症(ちほうしょう)、


抑揚(よくよう)の神の 母無(おやな)し子、


岬の浜の 不死身貝(ふじみがい)、


そのほか色々 名はあれど、


命題・反対命題の、


能(あた)うかぎりの 止揚場(しようじょう)、


天(あめ)が下(した)なる 「衛生無害」、


昔ながらの薔薇(ばら)の花、


ばかげたものでも ござりましょうが、


大目(おおめ)にあずかる 為体(ていたらく)。

 



かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、


泣くも笑うも 朝露(あさつゆ)の命、


星のうちなる 星の星……


砂のうちなる 砂の砂……


どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、


浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、


格別何も いりませぬ故(ゆえ)、


笛のうちなる 笛の笛、


――次第(しだい)に舌は 縺れてまいる――


至上至福(しじょうしふく)の 臨終(いまわ)の時を、


いやいや なんといおうかい、


一番お世話になりながら、


一番忘れていられるもの……


あの あれを……といって、


それでは誰方(どなた)も お分りがない……


では 忘恩(ぼうおん)悔(く)ゆる涙とか?


ええまあ それでもござりまするが……


では――


えイ、じれったや


これやこの、ゆくもかえるも


別れては、消ゆる移(うつ)り香(か)、


追いまわし、くたびれて、


秋の夜更(よふけ)に 目が覚めて、


天井板の 木理(もくめ)みて、


あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……

さて われに返りはするものの、

野辺(のべ)の草葉に 盗賊の、

疲れて眠る その腰に、

隠元豆(いんげんまめ)の 刀あり、

これやこの 切れるぞえ、

と 戸の面(おもて)、丹下左膳(たんげさぜん)がこっち向き、

――狂った心としたことが、

何を云い出すことじゃやら……

さわさりながら さらばとて、

正気の構えを とりもどし、

人よ汝(いまし)が「永遠」を、

恋することのなかりせば、

シネマみたとてドッコイショのショ、

ダンスしたとてドッコイショのショ。

なぞと云ったら 笑われて、

ささも聴いては 貰(もら)えない、

さればわれ、明日は死ぬ身の、

今茲(ここ)に 不得要領……

かにかくに 書付(かきつ)けましたる、

ほんのこれ、心の片端(はしくれ)、

不備の点 恕(ゆる)され給(たま)いて、

希(ねが)わくは お道化(どけ)お道化て、

ながらえし 小者(こもの)にはあれ、

冥福(めいふく)の 多かれかしと、

神にはも 祈らせ給え。

               (一九三四・六・二)

 

 

 

 


中也の詩の中でも


1、2を争う長詩ですね。

 

 

赤ん坊が池に落ちたのではなく


小児が落ちたのだと今、気づきました。

 

 

それどころか


空の下(もと)には 池があった。


――と第2節冒頭にあるのは


「蛙声」の
天と地と池……に符合していることにも気づき


仰天します。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年10月15日 (土)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/蛙声2「黄昏」の池

 

「蛙声」は1937年5月14日に制作され


それは「四季」の同年7月号(発行は6月20日付け)に発表されました。

 

 

これが第1次形態とされたのは


「在りし日の歌」に収録される過程で若干の推敲が加えられたためで


こちらが第2次形態(最終形態)とされています。

 

 

推敲といっても


「鳴いてゐる」を「鳴いてる」に変え


「扨」を「さて」に変えたりした程度でしたが


このわずかな修正にさえ


詩人の「口語詩」への志向の跡をみることができて


心は揺れます。

 



「在りし日の歌」の最終編集期間は


8月から9月24日の間でした。

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ・解題篇」より。)

 

小林秀雄に「在りし日の歌」の清書原稿を手渡したのは

9月26日でした。

 

中原中也が鎌倉に住んで


半年以上の時間が流れていました。

 


 

「蛙声」は鎌倉で制作されたのですから


その内容、特に風景が


鎌倉を映し出していると読むことは


極めて自然なことになります。

 


そうであるなら


それを手がかりにして


詩作品と親しむという楽しみをわざわざ回避する必要もないことになります。

 

 

「蛙声」はだからといって


常に鎌倉の「蛙声」である必要があるわけではありません。

 

鎌倉を詠んだ歌枕ということではありません。

 

 

ここで思い出すのは


かつて大岡昇平が


中也の初期作品「黄昏」について漏らした感慨です。

 

 

その前に


「黄昏」を呼び覚ましてみましょう。

 

 

 

 

黄 昏

 

 

渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、


寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。


蓮の葉は、図太いので


こそこそとしか音をたてない。

 

 

音をたてると私の心が揺れる、


目が薄明るい地平線を逐(お)う……


黒々と山がのぞきかかるばっかりだ


――失われたものはかえって来ない。

 

 

なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない


草の根の匂いが静かに鼻にくる、


畑の土が石といっしょに私を見ている。

 

――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!


 

じいっと茫然(ぼんやり)黄昏(たそがれ)の中に立って、


なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩(あゆ)みだすばかりです

 

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

 

 

東京・中野の桃園にあった下宿「炭屋の2階」の近くに


この詩「黄昏」に出てくるような蓮池があったそうです。

 

 

大岡昇平は
この蓮池について


いまや伝説となった証言を残しました。

 

 

 

 

当時の桃園は中央線の東中野と中野駅の中程の南側、線路から7、8町隔った恐らく田圃

を埋めたてて出来た住宅地である。

 


下宿の横に蓮池があって、私には、

 


蓮の葉は、図太いので


こそこそとしか音を立てない。  (「黄昏」)

 

 

の句は、この下宿と切り離しては考えられず、

 

 


町々はさやぎてありぬ


子等の声ももつれてありぬ    (「臨終」)

 

 

は、附近にあった小学校から、私が昭和3年によく泊った朝、一団となってあがって来る声

を思い出さずには読めない。

 

 

(角川文庫「中原中也」所収「朝の歌」より。改行・字下げなどは原文通りではありません。編者。)

 

 

 

 

大岡昇平は「朝の歌」の章を


この回想で結びました。

 

この下宿こそは、

天井に 朱きいろいで

戸の隙を 洩れ入る光

――と歌いはじまる「朝の歌」が作られた場所でした。

 

詩人の住まい近辺の、ある特定の場所(それも池でした!)の思い出を語り、

詩の中に入り込むことは


詩人と親しく交遊したものでなければできないことですが


そんなことを知らない読者の手がかりになることがよくあります。

 

伝説になったその蓮池のイメージが

「黄昏」を読む時まとわりつくことになり、

 

渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、

寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。

――という冒頭行にぶつかっただけで


東中野の池だ! と反射的に連想する習いになったりします。

 

 

 

いつかその池の場所を訪ねてみたい


――と思わせる詩が中也にはたくさんあります。

 

 

ここはどこの景色だろう。

 

 

どこかで見たおぼえがある。


 

人さまざまの郷愁を誘うような


それぞれの思い出をくすぐるような


懐かしいものが詩の中にあり


それがまったく実証され得ない場所であっても


親しみを抱かせる場所があります。

 

 

詩の中の風景の場所へ行ってみたい


――というのは


自分の思い出に重なる場所を確かめてみたかったり


行かなくても


居ながらにして


その詩世界に入り込むことによって


自分の経験(感情)を呼び覚ましてみたり……。

 

 

旅人になるようなことなのでしょう。

 

 

 

 

途中ですが


今回はここまで。

2016年10月13日 (木)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/蛙声

鎌倉で作られた詩に

鎌倉が反映されていないわけはないと読むのが自然ですから

(嘗てはランプを、とぼしていたものなんです)や

(秋の夜に、独りで湯に浸かれば)

――などに鎌倉の風景を感じるのは無理ないことです。

 

そうだからといって

詩が

歌った土地を前面で出すものでない場合に

その土地の影響を読むのはいかがなものか。

 

 

鎌倉で書かれた「在りし日の歌」後記は

さらば東京!

――と歌っているのですし

鎌倉は東京(圏)の一部でした。

 

「在りし日の歌」の絶唱「蛙声」も

鎌倉で作られました。

 

 

蛙 声

 

天は地を蓋(おお)い、

そして、地には偶々(たまたま)池がある。

その池で今夜一(ひ)と夜(よ)さ蛙は鳴く……

――あれは、何を鳴いてるのであろう?

 

その声は、空より来(きた)り、

空へと去るのであろう?

天は地を蓋い、

そして蛙声(あせい)は水面に走る。

 

よし此(こ)の地方(くに)が湿潤(しつじゅん)に過ぎるとしても、

疲れたる我等(われら)が心のためには、

柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感(おも)われ、

頭は重く、肩は凝(こ)るのだ。

さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、

その声は水面に走って暗雲(あんうん)に迫る。

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩に鎌倉の反映を見ることに

どれほどの意味がありましょう。

 

 

そう言うそばから、

 

天は地を蓋(おお)い、

そして、地には偶々(たまたま)池がある。

――の「天」も「地」も、「池」も

鎌倉は寿福寺の中也の住まいから見えた景色と

あまりにも一致していることに驚かされます。

 

よし此(こ)の地方(くに)が湿潤(しつじゅん)に過ぎるとしても、

疲れたる我等(われら)が心のためには、

柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感(おも)われ、



――の「此の地方(くに)」も「柱」もまた

寿福寺を包む風景と

あまりにも似ています。

 

 

にもかかわらず

そんなことどもを何も知らないで

この詩を読むことができます。

 

知っていた方がベターということでもなければ

知らない方がベターということでもありません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年10月12日 (水)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/箱庭

嘗(かつ)てはランプを、とぼしていたものなんです。


今もう電燈(でんき)の、ない所は殆(ほとん)どない。


――といい、

 

電燈もないような、しずかな村に、


旅をしたいと、僕は思うけれど、


却々(なかなか)それも、六ヶ敷(むつかし)いことなんです。

 


――という詩行をどう読めばいいものか。

 


 


煥発する都会の燈火への不満の表現と読んでいいのでしょうか。

 



そうすると鎌倉は、


電燈もないような、しずかな村ではなかったのでしょうか。

 


鎌倉もやはり


煥発する燈火の都会だったのでしょうか。

 


なので、

しずかな村への旅を願ったのですが


事情はたやすく旅をできるものではなかった。


――と読めますが。

 


 


詩(行)と現実の距離を測るのが


危ないような困難さを覚えます。

 


しかし、


さらば青春! さらば東京!(後記)


――と記した流れは押しとどめがたく


詩人は鎌倉を去る決意を固めていました。

 


友人らに語り


したためた手紙などに


その決意は刻まれています。

 



「新編中原中也全集」は


幾つかの証言を案内していますが


その一つに呼び出すのは


盟友・安原喜弘に宛てた手紙です。

 


 


鎌倉は、暮らしてみればみる程駄目です。あんまり箱庭なので、散歩する気もしません。

散歩しても体操してるみたいな気持しかしません。スケジュールが常におのづと立ちすぎ

ているのです。いっそもっとうんと田舎なら、遠景があります。

 


(中略)

 


行脚がアガッタリだと元気も何もアガッタリになることは、この2年間まるで汽車に乗らない


でいてハッキリと分りました。気がついてみれば僕は旅情の餓鬼です。

 

(「新編中原中也全集」第5巻「日記・書簡」解題篇より。新かな・洋数字に変換しました。編者。)

 


 


さらに続けて、

 

うまい酒と、呑気な旅行と、僕の理想の全てです。問題は陶然と暮せるか暮せないかの一

事です。「さば雲もろとも溶けること!」なんて、ランボオもういやつではありませんか。

 

――と加えています。

 


 


この案内は


(嘗てはラムプを、とぼしていたものなんです)の解題に引用されたものですから


一部になりますが


書簡は封書に書かれた長文です。

 



詩人と安原喜弘は


長い交流の最終局面を迎えようとしている中で


この書簡は9月2日に書かれました。

 


 


鎌倉は「あんまり箱庭」というあたりに


詩人の詩人らしい鋭敏さはあり


生地山口の自然への矜持(きょうじ)が隠されているような下りです。

 


 


途中ですが


今回はここまで。

 

2016年10月10日 (月)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/茫洋(ボーヨー)

その夜のことを回想した

小林秀雄の証言もあります。

 

 

彼は黙って、庭から書斎の縁先きに這入って来た。黄ばんだ顔色と、子供っぽい身体に着

たセルの鼠色、それから手足と足首に巻いた薄汚れた繃帯、それを私は忘れる事が出来

ない。

 


(「中原中也の思い出」昭和53年「新訂小林秀雄全集」第2巻所収。「新編中原中也全集」

第5巻「日記・書簡」解題篇より。)

 


 

中村光夫と小林秀雄の二つの記述で


1937年9月26日夜の、中原中也の様子(外見)が


ほぼ把握できます。

 

黄ばんだ顔色


子供っぽい身体に着たセルの鼠色


手足と足首に巻いた薄汚れた繃帯


(小林)


 
紙包みをかかええていた


やつれた顔


下駄履きだった


かすれた声


(中村)

 

――ということになると


軽快な足どりを想像することはできません。

 

大事な原稿を包んだ紙は


百貨店の包装紙のようなものがあったのでしょうか。

 

暗い夜道を


懐中電灯を持たずに辿ったのでしょうか。

 

そもそも懐中電灯は普及していたのでしょうか


ランプだったのでしょうか。

 

繃帯を巻いた手足は


耐えられるほどの痛みだったのでしょうか。

 



 


いろいろと想像するうちに、


(嘗てはランプを、とぼしていたものなんです)


――という未発表詩篇にぶつかりました。

 


 

(嘗てはランプを、とぼしていたものなんです)

 

嘗(かつ)てはランプを、とぼしていたものなんです。


今もう電燈(でんき)の、ない所は殆(ほとん)どない。


電燈もないような、しずかな村に、


旅をしたいと、僕は思うけれど、


却々(なかなか)それも、六ヶ敷(むつかし)いことなんです。

 

吁(ああ)、科学……


こいつが俺には、どうも気に食わぬ。


ひどく愚鈍な奴等までもが、


科学ときけばにっこりするが、


奴等にや精神(こころ)の、何事も分らぬから、


科学とさえ聞きゃ、にっこりするのだ。

 


汽車が速いのはよろしい、許す!


汽船が速いのはよろしい、許す!


飛行機が速いのはよろしい、許す!


電信、電話、許す!


其(そ)の他はもう、我慢がならぬ。


知識はすべて、悪魔であるぞ。


やんがて貴様等にも、そのことが分る。

 


エエイッ、うるさいではないか電車自働車と、


ガタガタガタガタ、朝から晩まで。


いっそ音のせぬのを発明せい、


音はどうも、やりきれぬぞ。

 

エエイッ、音のないのを発明せい、


音のするのは、みな叩き潰(つぶ)せい!

 

 (「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えてあります。編者。)

 

 


続いて、

 

さて、この後どうなることか……それを思えば茫洋とする。


――と「在りし日の歌」後記のつぶやきに思い至ります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年10月 9日 (日)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/小林秀雄の家までの道・10

154

153


実は


中原中也が小林秀雄の家に「在りし日の歌」の原稿を届けたのは


夜のことでした。


ですから

昼下がりの風景は


この日の中也を知るには意味のないことなのかもしれません。

 

寿福寺境内を抜け


横須賀線の踏切を渡り


扇川沿いを歩いて


岩船地蔵を曲がって


亀が谷切り通し方面を目指す途中に小林秀雄の住まいはありましたが


夜の風景といえば


暗闇の中に時々現れる街灯か


民家の明かりくらいのものではなかったか。

 

暗闇を詩人は歩いたのです。

 



 


普段の中也が


どのような景色の中を歩いたのか

 

少しはそれを偲ぶことができたか


面影くらいはつかむことができたか

 


夜のことともなれば


あとは想像力で補うほかありません。

 



 


その夜、小林秀雄の書斎に


友人の評論家、中村光夫が居合わせました。

 


その中村光夫が後年(昭和45年、1970年)、


その夜の情景を記述しています。

 

中也を描写した部分の一部をピックアップしてみます。

 



 


9月のある晩、僕が小林氏の書斎にいると、中原氏がひょっこり紙包みをかかえて姿を現

わしました。


 

暗闇のなかから浮かびでた、目の大きな中原氏のやつれた顔にはなにか心をどきりとさせ

るものがありました。


 

下駄をぬいであがると氏はすぐにかすれた声で、詩集の草稿を清書したから持ってきたと

いって、紙包みをといて、分厚い原稿をだしました。


 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ 解題篇」より。部分の抜粋です。編者。)

 



 


これは、ほんの一部なのですが


たまたまその場に居合わせた人の観察は


30年以上の時を経ても風化しないどころか


輪郭のはっきりした記憶になっているような記述です

 


 


途中ですが


今回はここまで。

 


 


夕闇迫る小町通りの賑わいが


想像をサポートすることになるでしょうか。

 

 

 

 

 

2016年10月 7日 (金)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/小林秀雄の家までの道・9

煥発(かんぱつ)する都会の夜々の燈火(ともしび)を後(あと)に、

おまえはもう、郊外の道を辿(たど)るがよい。

 

 

煥発は、火が燃え盛るときの輝きのこと。

 

ここでは燈火にかかる形容詞ですから

ネオンサインの消えない明るい都会の夜を意味しています。

 

才気煥発や「元気を煥発する」は

精神的な側面の状態を表し

それらはたまに読むことがありますが

都会の表情を歌った中也の詩に

精神的なニュアンスがないことも考えられません。

 

都会に住み、都会を歌った詩人にも

街の灯が疎(うと)ましく思える時が訪れたのでしょうか。


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寿福寺に戻ってきました。

煥発する燈火がここにあるはずがありません。





では、煥発する燈火は

どこに輝いていたものでしょうか?

銀座、新宿、浅草か。

横浜か。

それとも、鎌倉駅前の賑わいか。



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鎌倉駅ホームは

上り下りともに旧路線が残されていて

ホームの距離だけがどういうわけか複線になっています。


向こう側の枕木は旧式の木製で

手前のものはコンクリート製ですから

中也は向こうの線路を見ていたのかもしれません。



新旧が共存する街を

詩人は、
結構、楽しんでいた形跡がいくらでもありますから

街の燈火をどこそこのものと特定することもないでしょう。


駅はいつも

終わりでありはじまりである場所で


自然にもっとも遠いところにあるものです。




詩人の旅が終ろうとし

新たにはじまろうとしていました。



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2016年10月 6日 (木)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/小林秀雄の家までの道・8

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風はそよ風。
白萩の葉を幽かに揺らす。

夏の夜には蛍が飛ぶという扇川を想っては
それは武士(もののふ)たちの魂か
――と余計な空想が走りますが
自然は自然。

自然は荒れ狂うばかりが自然でなく
国破れて山河ばかりが自然でもなく
おだやかな日差しの降る時間も自然です。

亀が谷切り通しを一人また二人と
下りてくるもの上っていくものあり
それは途切れ途切れでありますが
絶えることはありません。

自然の要塞とはいえ
やはりここは都会の一角です。

人が、懐かしく、懐かしく思われます。

小林秀雄の住んでいた家は
切り通しのとば口にあった「米新」という旅館の
少し手前の住宅地の
道路から小路(こうじ)を一軒ほど奥に入ったところに位置し
訪ねてくる友人らは
あらたまった場合以外は玄関に立つよりも
庭に抜け
離れになっていた書斎の縁先(えんさき)へと回るのを常としていたそうです。

――という知識をあらかじめ持ちながら
その家を見ることはできなかったのですが。

この場所の先に
「米新」の湯場(ゆば)があったのが
ここに住むきっかけの一つであったことも想像できて
ほっとするような気持ちが起こります。

大岡昇平がこの湯に入り浸っていたという伝説もあるようですが
小林秀雄も執筆の合間に
身心を休めたことでしょう。

ひょっとして
中也もこの湯に入ったことがあるかもしれません。
記録には見つからないようですが。

秋の夜に、独りで湯に這入(はい)ることは、
淋しいじゃないか。

秋の夜に、人と湯に這入ることも亦(また)、
淋しいじゃないか。

話の駒が合ったりすれば、
その時は楽しくもあろう

あたかも辞世のような詩行がよみがえり
ドキリとします。

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「米新」の入り口。宗教家・田中智学師が別荘としていたが、現在はどこかの企業のビル
が何棟も建っている。

2016年10月 4日 (火)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/小林秀雄の家までの道・7

自然は、本来手つかずの、人跡未踏の場所――。

街中に、人の手の入らない自然があるはずがありません。

 

亀が谷切り通しの上り口にやってきました。

 

まっすぐ行けば県道21号に至り

右方面が鶴岡八幡宮

左方面が北鎌倉になります。

 

午後3時ころで、人気はないけれど

ここが生活道路として使われていることをすぐに知ります。

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珍しい鳥の声が上空の木立から聞こえてきます。
 

自分の吐息(といき)だけが聞こえる時がしばらくあって
前方から年配のペアが下りてきてすれ違いました。
 

懐かしいものをみたようで
その後姿が見えなくなるまで息をひそめていました。

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2016年10月 3日 (月)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/小林秀雄の家までの道・6

変わらぬものは自然の風景です。

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しかし、ススキの茂みが自然のものであるか、そうでないか
考えれば、境界はあいまいです。

このススキの茂みに
長年にわたる人の手が入っていないと断言することはできません。

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咲きはじめ匂いはじめの金木犀(きんもくせい)が
民家の庭から道路へこぼれ出ていました。

植栽には、人の匂いが混じります。

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咲き初めの白萩(しらはぎ)も同じです。

金木犀も萩も
何かしら、似たような感情を誘い出します。

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曼珠沙華(マンジュシャゲ)は
鉄道の古びたコンクリートと似合い
人間の気配を感じさせます。

自然(の風景)の来歴がどのようなものであれ
歩きながら、詩人は変わらない自然を見ていたことでしょう。

2016年10月 2日 (日)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/小林秀雄の家までの道・5

 
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岩船地蔵堂を曲がってすぐに、切り岸を穿(うが)って作られた洞穴(やぐら)があり、

祠(ほこら)として使われています。

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露天駐車の自家用車(?)も、すっかり切り岸と融合し、秋の日射しを浴びていました。

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切り通しがはじまる上り坂に至るまで、閑静な住宅地が続きます。この道を詩人は歩いていきました。

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小林秀雄の家は、この道の右手のどこかにあったはずですが、この日探し出すことはできませんでした。

2016年10月 1日 (土)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/小林秀雄の家までの道・4

扇川伝いに舗装された道を少し行くと、岩船地蔵堂があり、右折すると亀が谷切り通しへ
通じる道となり、左折すれば、横須賀線の踏切を渡ってまもなく化粧坂(仮粧坂=けわいざ
か)切り通しへの道に出ます。

岩船地蔵堂は近年改装されたに違いなく、道路もコンクリート舗装されているとあっては、
中也の時代を偲ぶよすがになりませんが、そうはいっても面影(おもかげ)というものが残
るのは不思議です。

この道のコンクリートをはがして、想像力は、土の道に変えることができるのですし、コンク
リートの道にその幻の土はいつしかかぶさってきます。

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