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« 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/月光 | トップページ | 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/鎌倉詩篇 »

2016年10月18日 (火)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/月光・続

 

さば雲、鰯雲、うろこ雲、ひつじ雲……。

 

今日は秋晴れの1日、

午後3時過ぎの空は雲の競演。

 

さば雲もろとも! と中也が幸福感(観)を表現した

さば雲はどれか?

――などと天を仰ぎながら

ドトールからの帰路をゆっくりと歩きました。

 

これは、元をたどればランボーですが

今、その詩を紹介するゆとりがありません。

 

 

1937年9月26日に

鎌倉の月はどう見えていたのだろう。

 

この疑問を解くのが先決。

ネットで調べてみました。

 

 

その日は、日曜日でした。

月齢21.3、宵月。

満月から新月へと欠けていく途中の下弦の月だったようです。

 

街灯や民家の明かりや

天候とか温度とか風向きとか

空気の透明度とかによって

月の見え方は異なるはずですから

その日その夜に

鎌倉で見えた月がはっきりとするわけはないでしょうが

雨天ではなかったようですし

街灯や住家の明かりの途絶えたところでは

月光があたりを照らすほどの明るさがあったことを想像できます。

 

 

君ら想(おも)わないか、夜毎(よごと)何処(どこ)かの海の沖に、


火を吹く龍(りゅう)がいるかもしれぬと。


君ら想わないか、曠野(こうや)の果(はて)に、


夜毎姉妹の灯ともしていると。

 

君等想わないか、永遠の夜(よる)の浪、

其処(そこ)に泣く無形(むぎょう)の生物(いきもの)、

其処に見開く無形の瞳、

かの、かにかくに底の底……

 

 

「道化の臨終Etude Dadaistique」のイントロ(序曲)は

一種、壮大な宇宙への想念を

「君ら」に向けて仕掛ける詩行で

中也の詩に多くある夜の詩の一つですから

これが「蛙声」の夜に通じていても特別なことではないでしょう。

 

月光下の道をたどる詩人の脳裏に

この詩行が駆けめぐっていたかもしれません。

 

 

毎日毎夜、地球の宇宙のどこかで蠢(うごめ)いている。
 

 

火を吹く龍(りゅう)


姉妹の灯


泣く無形(むぎょう)の生物(いきもの)、


見開く無形の瞳

 

――という、


これらの孤独な魂の活動を


誘(いざな)う終行。

 
 

かの、かにかくに底の底……

 

自分(詩人)もまた

その孤独の底にいるのです。

 

この状態を

君、わかってくれるだろうか?

――と静粛な感じではじまる詩です。

 

歌おうとしているのは

道化の臨終ですから。

 

そのためのミサとかレクイエムのはずですから。
 


 

小林秀雄の住まいへの道すがら

蛙になり

道化になり。

 

 

それで

孤独の中身が

あれやこれや、延々と語られるのですが

だんだん道化調になってきて

仕舞いには

倦怠するのか

種が尽きたのか

収拾が取れなくなるような感じになりますが

なんとか神を頼む場面にたどり着いて

ついにこの詩は終わります。

 

 

序曲の荘厳さは

どこへ行ってしまったのでしょうか。

――と振り返る心に残るのは

丹下左膳

ドッコイショノショ。

 

この詩の面白さ(読みどころ)は

丹下左膳が出てくるあたりにあるように思われてきます。

 

 

このメタファーの

得体の知れなさ。

 



 

途中ですが

今回はここまで。

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