中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/月光・続
さば雲、鰯雲、うろこ雲、ひつじ雲……。
今日は秋晴れの1日、
午後3時過ぎの空は雲の競演。
さば雲もろとも! と中也が幸福感(観)を表現した
さば雲はどれか?
――などと天を仰ぎながら
ドトールからの帰路をゆっくりと歩きました。
これは、元をたどればランボーですが
今、その詩を紹介するゆとりがありません。
◇
1937年9月26日に
鎌倉の月はどう見えていたのだろう。
この疑問を解くのが先決。
ネットで調べてみました。→
◇
その日は、日曜日でした。
月齢21.3、宵月。
満月から新月へと欠けていく途中の下弦の月だったようです。
街灯や民家の明かりや
天候とか温度とか風向きとか
空気の透明度とかによって
月の見え方は異なるはずですから
その日その夜に
鎌倉で見えた月がはっきりとするわけはないでしょうが
雨天ではなかったようですし
街灯や住家の明かりの途絶えたところでは
月光があたりを照らすほどの明るさがあったことを想像できます。
◇
君ら想(おも)わないか、夜毎(よごと)何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍(りゅう)がいるかもしれぬと。
君ら想わないか、曠野(こうや)の果(はて)に、
夜毎姉妹の灯ともしていると。
君等想わないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎょう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形の瞳、
かの、かにかくに底の底……
◇
「道化の臨終Etude
Dadaistique」のイントロ(序曲)は
一種、壮大な宇宙への想念を
「君ら」に向けて仕掛ける詩行で
中也の詩に多くある夜の詩の一つですから
これが「蛙声」の夜に通じていても特別なことではないでしょう。
月光下の道をたどる詩人の脳裏に
この詩行が駆けめぐっていたかもしれません。
◇
毎日毎夜、地球の宇宙のどこかで蠢(うごめ)いている。
火を吹く龍(りゅう)
姉妹の灯
泣く無形(むぎょう)の生物(いきもの)、
見開く無形の瞳
――という、
これらの孤独な魂の活動を
誘(いざな)う終行。
かの、かにかくに底の底……
自分(詩人)もまた
その孤独の底にいるのです。
この状態を
君、わかってくれるだろうか?
――と静粛な感じではじまる詩です。
歌おうとしているのは
道化の臨終ですから。
そのためのミサとかレクイエムのはずですから。
◇
小林秀雄の住まいへの道すがら
蛙になり
道化になり。
◇
それで
孤独の中身が
あれやこれや、延々と語られるのですが
だんだん道化調になってきて
仕舞いには
倦怠するのか
種が尽きたのか
収拾が取れなくなるような感じになりますが
なんとか神を頼む場面にたどり着いて
ついにこの詩は終わります。
◇
序曲の荘厳さは
どこへ行ってしまったのでしょうか。
――と振り返る心に残るのは
丹下左膳
ドッコイショノショ。
この詩の面白さ(読みどころ)は
丹下左膳が出てくるあたりにあるように思われてきます。
◇
このメタファーの
得体の知れなさ。
◇
途中ですが
今回はここまで。
« 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/月光 | トップページ | 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/鎌倉詩篇 »
「091中原中也の鎌倉」カテゴリの記事
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「ひからびた心」の風景(2016.11.05)
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「子守唄よ」の風景(2016.11.03)
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「渓流」の風景(2016.11.02)
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「夏と悲運」の風景(2016.11.02)
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「梅雨と弟」の風景(2016.11.01)
« 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/月光 | トップページ | 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/鎌倉詩篇 »
コメント