中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/蛙声2「黄昏」の池
「蛙声」は1937年5月14日に制作され
それは「四季」の同年7月号(発行は6月20日付け)に発表されました。
これが第1次形態とされたのは
「在りし日の歌」に収録される過程で若干の推敲が加えられたためで
こちらが第2次形態(最終形態)とされています。
推敲といっても
「鳴いてゐる」を「鳴いてる」に変え
「扨」を「さて」に変えたりした程度でしたが
このわずかな修正にさえ
詩人の「口語詩」への志向の跡をみることができて
心は揺れます。
「在りし日の歌」の最終編集期間は
8月から9月24日の間でした。
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ・解題篇」より。)
小林秀雄に「在りし日の歌」の清書原稿を手渡したのは
9月26日でした。
中原中也が鎌倉に住んで
半年以上の時間が流れていました。
◇
「蛙声」は鎌倉で制作されたのですから
その内容、特に風景が
鎌倉を映し出していると読むことは
極めて自然なことになります。
そうであるなら
それを手がかりにして
詩作品と親しむという楽しみをわざわざ回避する必要もないことになります。
◇
「蛙声」はだからといって
常に鎌倉の「蛙声」である必要があるわけではありません。
鎌倉を詠んだ歌枕ということではありません。
◇
ここで思い出すのは
かつて大岡昇平が
中也の初期作品「黄昏」について漏らした感慨です。
その前に
「黄昏」を呼び覚ましてみましょう。
◇
黄 昏
渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、
寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。
音をたてると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐(お)う……
黒々と山がのぞきかかるばっかりだ
――失われたものはかえって来ない。
なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない
草の根の匂いが静かに鼻にくる、
畑の土が石といっしょに私を見ている。
――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!
じいっと茫然(ぼんやり)黄昏(たそがれ)の中に立って、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩(あゆ)みだすばかりです
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)
◇
東京・中野の桃園にあった下宿「炭屋の2階」の近くに
この詩「黄昏」に出てくるような蓮池があったそうです。
大岡昇平はこの蓮池について
いまや伝説となった証言を残しました。
◇
当時の桃園は中央線の東中野と中野駅の中程の南側、線路から7、8町隔った恐らく田圃
を埋めたてて出来た住宅地である。
下宿の横に蓮池があって、私には、
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音を立てない。 (「黄昏」)
の句は、この下宿と切り離しては考えられず、
町々はさやぎてありぬ
子等の声ももつれてありぬ (「臨終」)
は、附近にあった小学校から、私が昭和3年によく泊った朝、一団となってあがって来る声
を思い出さずには読めない。
(角川文庫「中原中也」所収「朝の歌」より。改行・字下げなどは原文通りではありません。編者。)
◇
大岡昇平は「朝の歌」の章を
この回想で結びました。
この下宿こそは、
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光
――と歌いはじまる「朝の歌」が作られた場所でした。
詩人の住まい近辺の、ある特定の場所(それも池でした!)の思い出を語り、
詩の中に入り込むことは
詩人と親しく交遊したものでなければできないことですが
そんなことを知らない読者の手がかりになることがよくあります。
伝説になったその蓮池のイメージが
「黄昏」を読む時まとわりつくことになり、
渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、
寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。
――という冒頭行にぶつかっただけで
東中野の池だ! と反射的に連想する習いになったりします。
◇
いつかその池の場所を訪ねてみたい
――と思わせる詩が中也にはたくさんあります。
ここはどこの景色だろう。
どこかで見たおぼえがある。
人さまざまの郷愁を誘うような
それぞれの思い出をくすぐるような
懐かしいものが詩の中にあり
それがまったく実証され得ない場所であっても
親しみを抱かせる場所があります。
詩の中の風景の場所へ行ってみたい
――というのは
自分の思い出に重なる場所を確かめてみたかったり
行かなくても
居ながらにして
その詩世界に入り込むことによって
自分の経験(感情)を呼び覚ましてみたり……。
旅人になるようなことなのでしょう。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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