中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/蛙声
鎌倉で作られた詩に
鎌倉が反映されていないわけはないと読むのが自然ですから
(嘗てはランプを、とぼしていたものなんです)や
(秋の夜に、独りで湯に浸かれば)
――などに鎌倉の風景を感じるのは無理ないことです。
そうだからといって
詩が
歌った土地を前面で出すものでない場合に
その土地の影響を読むのはいかがなものか。
◇
鎌倉で書かれた「在りし日の歌」後記は
さらば東京!
――と歌っているのですし
鎌倉は東京(圏)の一部でした。
「在りし日の歌」の絶唱「蛙声」も
鎌倉で作られました。
◇
蛙 声
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一(ひ)と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?
その声は、空より来(きた)り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。
よし此(こ)の地方(くに)が湿潤(しつじゅん)に過ぎるとしても、
疲れたる我等(われら)が心のためには、
柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感(おも)われ、
頭は重く、肩は凝(こ)るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲(あんうん)に迫る。
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)
◇
この詩に鎌倉の反映を見ることに
どれほどの意味がありましょう。
◇
そう言うそばから、
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
――の「天」も「地」も、「池」も
鎌倉は寿福寺の中也の住まいから見えた景色と
あまりにも一致していることに驚かされます。
よし此(こ)の地方(くに)が湿潤(しつじゅん)に過ぎるとしても、
疲れたる我等(われら)が心のためには、
柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感(おも)われ、
――の「此の地方(くに)」も「柱」もまた
寿福寺を包む風景と
あまりにも似ています。
◇
にもかかわらず
そんなことどもを何も知らないで
この詩を読むことができます。
知っていた方がベターということでもなければ
知らない方がベターということでもありません。
◇
途中ですが
今回はここまで。
« 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/箱庭 | トップページ | 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/蛙声2「黄昏」の池 »
「091中原中也の鎌倉」カテゴリの記事
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「ひからびた心」の風景(2016.11.05)
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「子守唄よ」の風景(2016.11.03)
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「渓流」の風景(2016.11.02)
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「夏と悲運」の風景(2016.11.02)
- 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「梅雨と弟」の風景(2016.11.01)
« 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/箱庭 | トップページ | 中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/蛙声2「黄昏」の池 »
コメント