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2016年11月30日 (水)

新川和江・抒情の源流/「Chanson」の愛(アムール)・その2

 
 
Chanson」は

あまやかに歌うことが出来なくなった

詩人の不幸についての詩ですが。

 

どうして出来なくなったのか、とその理由を問い

えらい先生が

詩は批評でなければいけない

――と言った発言が引き金になったことをうたったのですが

それだけで終わっていません。

 

わたしの唇はつめたく凍られ

優しい声はのどもとでせきとめられる、のです。

 

 

あなたの裏側へ回り

背中をピンでつき刺してしまう、のです。

 

あのひとを解剖台へのせてしまう、のです。

 

眼はまるでメス。

 

ピンセット、心をつまんで、すかしてみたり。

 

バラを見ても燃えないこころ

猫が死んでも涙は出ない

……

 

 

よく読めば

第1連、第2連、第4連と

全5連の詩の半分以上が

歌えない現状、歌わない現実を列挙しています。

 

詩人もまたあまやかに歌うことは出来ないのです。

 

どころか

ぎいぎい軋る地球のひびき

海に沈んでいった船が残した波の音、などが

あなたの素敵なささやき=アムールよりも

まっさきにわたし(詩人)に聞こえてきてしまう。

 

 

詩は批評でなければいけないという詩論を

さらり聞き流すつもりの詩人も

世界の現実、文明の現実を運んでくる風を

否が応でも感じ取らざるを得ません。

 

詩人の感受性は

現実を吹く病んだ風にいっそう敏感なのです。

 

 

というように

この詩、実は

世界とか文明とかを

ちくりと批評しているもののようでもあります。

 

ちくり、どころか、ざくり、と。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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