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2016年11月

2016年11月30日 (水)

新川和江・抒情の源流/「Chanson」の愛(アムール)・その2

 
 
Chanson」は

あまやかに歌うことが出来なくなった

詩人の不幸についての詩ですが。

 

どうして出来なくなったのか、とその理由を問い

えらい先生が

詩は批評でなければいけない

――と言った発言が引き金になったことをうたったのですが

それだけで終わっていません。

 

わたしの唇はつめたく凍られ

優しい声はのどもとでせきとめられる、のです。

 

 

あなたの裏側へ回り

背中をピンでつき刺してしまう、のです。

 

あのひとを解剖台へのせてしまう、のです。

 

眼はまるでメス。

 

ピンセット、心をつまんで、すかしてみたり。

 

バラを見ても燃えないこころ

猫が死んでも涙は出ない

……

 

 

よく読めば

第1連、第2連、第4連と

全5連の詩の半分以上が

歌えない現状、歌わない現実を列挙しています。

 

詩人もまたあまやかに歌うことは出来ないのです。

 

どころか

ぎいぎい軋る地球のひびき

海に沈んでいった船が残した波の音、などが

あなたの素敵なささやき=アムールよりも

まっさきにわたし(詩人)に聞こえてきてしまう。

 

 

詩は批評でなければいけないという詩論を

さらり聞き流すつもりの詩人も

世界の現実、文明の現実を運んでくる風を

否が応でも感じ取らざるを得ません。

 

詩人の感受性は

現実を吹く病んだ風にいっそう敏感なのです。

 

 

というように

この詩、実は

世界とか文明とかを

ちくりと批評しているもののようでもあります。

 

ちくり、どころか、ざくり、と。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年11月29日 (火)

新川和江・抒情の源流/「Chanson」の愛(アムール)

 

 

うたう(=歌う)ことをうたった詩は

自然に愛の詩へ流れつき

主流になり支流になり

新川和江の詩に絶え間なく現われます。

 

Chanson」は

第2詩集『絵本「永遠」』(1959年発行)に収録されましたから

30歳前に作られた詩ということになります。

 

 

Chanson

 

あまやかに歌いましょうか 愛(アムール)を

でも でも それが出来なくなった

わたしの唇(くち)はつめたく凍(しば)られ

優しい声はのどもとでせきとめられる

いつも いつも

わたしはあなたの裏側へまわり

ひろい背なかに

するどいピンをつき刺してしまう

 

世界がなんでしょう

文明がなんでしょう

わたしにとってとでもだいじな愛(アムール) 愛(アムール)

率直っていちばんいいことよ

皮肉はだいきらい

それなのになぜ なぜ

あのひとを解剖台へのせてしまうの?

わたしの眼は メス

うたがいぶかいピンセット

心を撮(つま)みあげて

すかしてみたりしたがるのよ

 

詩人の不幸はいつからはじまった

えらい先生が

詩は批評でなけりゃいけないなんて

おっしゃった日からよ

そんな意見はさらりときき流して

あまやかに歌いましょうか 愛(アムール)を

でも でも それが

どうして出来なくなったのでしょうね



薔薇を見たって 心は燃えない

猫(ミミイ)が死んでも 涙はわかない

いつからでしょうね 固く捲かれたゼンマイが

心の奥で癌のようにしこりはじめたのは

いまではそれが

上からおさえただけでもはっきりわかるようになった

ぎいぎい軋る地球のひびきや

どこかの海に沈んでいった

船がのこした水泡(みなわ)のはじける音などが

あなたの素敵なささやきよりも

もっとすばやく わたしの耳にとどいてしまうの

 

でも それは

わたしが悪いのじゃないわ

そんなひびきをはこんでくる

今日の風が病気のためよ

ただ わたしは

全身が耳 ゆれやすい草 危険信号みたいな

小さい小さい旗なんですものね

 

(現代詩文庫64「新川和江詩集」より。原作のルビは( )で示しました。編者。)

 

 

第3連に、

 

詩人の不幸はいつからはじまった

えらい先生が

詩は批評でなけりゃいけないなんて

おっしゃった日からよ

――とある「えらい先生」は

アメリカで生まれ育ちイギリスに帰化した詩人T・S・エリオットのことです。

 

1948年にノーベル賞をとっていますが

長詩「荒地」の作者であり

日本の戦後詩を牽引(けんいん)した「荒地」グループの拠り所、といえば

アウトラインになるでしょうか。

 

えらい先生(エリオット)は

新川和江によれば

詩は文明批評でなければいけない、などと言い出した詩人でした。

 

Chanson」が発表されたのは


日本では「荒地」「列島」グループがはばを利かせていた時代のことであり


エリオットのいうような批判精神をもたない詩は排撃されましたから

正面、それに立ち向かったことになります。

 

 

今思えば

ずいぶん勇気にあふれた詩です。

 

文明批評に対して

愛=アムールを対置したのですから。

 

今でもそうかもしれませんが。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年11月27日 (日)

新川和江・抒情の源流/「あこがれ」のヒバリ

 

 

ヒバリをうたった詩が

もう一つあります。

 

他にもあるかもしれませんが。

 

 

あこがれ

 

どんな一途(いちず)なあこがれが

あのように

ヒバリを飛翔(ひしょう)させるのでしょうか

深い井戸に落ちこむように

空のふかみにはまってゆく

 

どんなせつない願いごとが

あのように

ヒバリののどをふるわせるのでしょうか

胸も裂(さ)けよとばかり

空いっぱいに歌をひろがらせて

 

天までゆかなくとも

餌(え)は むぎばたけの中にあると

歌わなくとも

巣づくりはできると

知っていながら 知っていながら

 

(ハルキ文庫「新川和江詩集」より。原作のルビは( )で示しました。編者。)
 

 

この詩は

ハルキ文庫では

幼年・少年少女詩篇の中に配置されています。

 

詩人は

かなり早い時から

児童や少年少女向けの詩を書きはじめ

童詩、童謡、幼年詩、少年少女詩を発表してきました。

 

膨大な作品の中の

この「あこがれ」は一つです。

 

 

この詩も

ヒバリをはじめ遠景でとらえ

大空の奥がへ舞い上がるヒバリの様子を、

 

深い井戸に落ちこむように

空のふかみにはまってゆく

――とうたいはじめて

 

最終連、

歌わなくとも

巣づくりはできると

知っていながら 知っていながら

――とヒバリそのものになります。

 

同一化、一体化が起こります。

 

 

ヒバリは

あこがれであるけれど

詩人はここでも

ヒバリになっています。

 

面白いですね。

 

このあこがれですが

和泉式部の

物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる

――を当然、意識しているのでしょうね。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年11月26日 (土)

新川和江・抒情の源流/「ひばりの様に」の素朴・その2

 

 

雲雀(ひばり)という鳥が春先の青天にさえずる姿を 

初めて見たときの感動は

誰にも一生忘れがたく残るものでしょう。

 

どこで鳴いているのか

見上げた空には

ぴーぴーぴーぴーと声は聞こえているのですが

金の粉をまぶした青が広がっているばかりで

いっこうに姿をとらえることができない。

 

けれど、

目を凝らして青空を探していると

まぶしいばかりの青空に目が馴染んできて

小さくはばたく黒い点々を

なんなく見つけることができるものです。

 

 

渋谷から調布に越した転校生が

田舎の少年たちに

雲雀を見つけるコツを教わった日々が思い出されます。

 

ひばりは

地上の巣に戻るとき

巣から相当離れた場所に降り立ち

敵の存在を確かめてから

巣を目指すんだ

――と教えてくれた遠藤君や元木君。

 

今ごろどうしているかな。

 

 

……と、こうして自分の身に引きつけて

この詩を読むのは勝手というものでしょうか。

 

ならばこの詩は

雲雀の生態に感心して

雲雀を称揚したうたということになります。

 

そうならば

この詩はリアリズムのうたということになりますが。

 

 

この詩の

面白いところ(読みどころ)は

ひばりを見ている詩人が

ひばりを擬人化し

ひばりのようにうたうことが

詩人の仕事であることをうたいつつ

ついにひばりそのものになっているところでしょう。

 

後半の2連、

いのちの限りうたいつつ

ゆうべあかねの雲のなか

 

胸はりさけて死んだとて

それでよいではないですか

 

――は、

もはや

詩の作者とひばりとの間に

距離はありません。

 

死んだとて、の主語は

ひばりであると同時に詩人自身です。

 

そのように

詩人はうたいました。

 

 

素朴と見えるこの詩は

素朴であることの中に

擬人法だとか比喩だとか

レトリックを超えようとする企みを潜(ひそ)ませています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年11月24日 (木)

新川和江・抒情の源流/「ひばりの様に」の素朴

 

 

詩の言葉をめぐる詩というのは

詩論であり詩人論であり

ときにはレトリック論であり、

言葉の技術論である場合が多くあるのですが

新川和江のそれは

愛の言葉をめぐる思索になるケースが多い、といえるでしょうか。

 

「比喩でなく」から

「ノン・レトリック」へと続いたこの系譜の詩は

探してみれば

たくさんあるかもしれません。

 

たとえば

詩人、数え年15歳の時のノートに認(したた)めてあったという作品。

 

 

ひばりの様に

 

ひばりの様にただうたふ

それでよいではないですか

 

からすが何とないたとて

すずめが何とないたとて

 

ひばりはひばりのうたうたふ

それでよいではないですか

 

いのちの限りうたひつつ

ゆうべあかねの雲のなか

 

胸はりさけて死んだとて

それでよいではないですか

 

(ハルキ文庫「新川和江詩集」より。)

 

 

ハルキ文庫の「新川和江詩集」(2004年3月発行)は

詩人自身の手で

それまでの膨大な作品を再編集したものです。

 

散文を除く詩作品を

初期詩篇

それから(1953~1999)

幼年・少年少女詩篇

――の3項に分類しています。

 

発表詩集は数が多くて

詩集ごとの分類は文庫本で無理があると考えたのか

「それから」の項を立てたものと推察されます。

 

 

この再編集によって

「比喩でなく」の後に

「ノン・レトリック Ⅰ」「ノン・レトリック Ⅱ」が配置され

それが初稿制作の順なのか

内容上の再配置なのかはわかりませんが

三つの詩が

相互に反響しあう位置に並びました。

 

こうして

「比喩でなく」から「ノン・レトリック」へと読んでいく流れが

作品へのアクセスをわかりやすくさせた感じがします。

 

 

この詩に

高度なレトリックを見出すことはできない、と言えば

だれも異議を申し立てることはないでしょうか?

 

きっと

ないでしょうね。

 

ここにあるのは

あまりにも素朴な

ひばりの野生(の声)へのエールですから。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年11月23日 (水)

新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅡ」という答え・その2

 

 

レトリック論が恋愛論に変わる

――というのは大雑把(おおざっぱ)な言い方ですが

言葉の技術が恋愛の方法に及んだ

――というほどのことです。

 

レトリックということを考えるとき

男女の愛(の表現)に見立てれば

鮮やかに明瞭になってくるものがあることを

いちはやくこの詩はうたいました。

 

比喩というレトリックが

ここに潜(ひそ)んでいます。

 

その比喩を

否定する詩の流れのようですが――。

 

 

愛の言葉は

その場になってなかなか思いつける殺し文句が出てこないもので

相手に伝わっているものか

自分ながら歯がゆくじれったく

<詩的に>言おうといしても言えないのが常で

詩のような言葉を探しては失敗し

それならいっそ虚飾を取り除いて

真っすぐにズバリと

思うままを言えばいいものをと反省し

次にそのチャンスが巡ってきて

さあ、いざ、となった時にまた

まだるっこしい、遠回りな言葉を繰り返す

 

――という(日本の)男女の日常。

 

 

詩(人)はそのことに釘を刺そうとうたったのですが

タイトルに「ノン・レトリック」を使って

「レトリックに非ず」「反・修辞」を意味した途端に

それがレトリックになっているというレトリックが出現します。

 

このタイトル自体が

レトリックとなり

同時に

ノン・レトリックになりました。

 

 

「ノン・レトリック Ⅱ」には副題として

マルセル・カミュの「熱風」をみる

――が付されてありますから

まずはここに読み手の関心は導かれます。

 

この詩のモチーフとなった映画「熱風」

ブラジルを舞台にしたフランス人監督マルセル・カミュの作品ですが

カミュが異なる文化に目を瞠(みは)ったのと同じように

詩人は映画のさりげないシーンに心を奪われたのでしょうか。

 

飾りのない野生の言葉というものに。

 

 

「私が行く」

――という「熱風」に出てくる黒人青年のセリフは

愛の言葉として

主語と述語だけの

修飾語の一つもない

素朴なものでした。

 

映画のモチーフになったのは

エキソチズムというよりは

文明と野生の二項対立だったのか。

 

詩人の「ノン・レトリック」への渇望みたいなものが

この野生(の言葉)に動かされました。

 

映画のセリフが

この詩の殺し文句となりました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年11月21日 (月)

新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅡ」という答え

 

 

詩が追い求める

普遍的で切実なテーマ。

 

テーマというと

仰々しくはあるのですが。

 

正面から

そのようなものに向かっているのが「ノン・レトリック Ⅰ」に続く

「ノン・レトリック Ⅱ」です。

 

 

ノン・レトリック Ⅱ

        マルセル・カミュの「熱風」をみる

 

黒人ベイジャフロールが

電報を打つ

フォルタレザからバイアへ

恋人の待つバイアへ

<私が行く>と

 

――愛している とか

早く顔がみたい とか

つけ足さなくてもいいのかね

――必要ないね

   愛しているのは あたりまえ

   早く顔がみたいの あたりまえ

   <私が行く>それが現在のすべて

 

ファルタレザからバイアへ

ぐい!

と一本彼はロードをひいたのだ

熱いかまどで焼きあげた石で

ハートで

靄(もや)などかかるいとまがあろうか

その上をまっしぐらに飛んで<私が行く>

 

木よ 何故言わないの?

東京 メーン・ストリート

並木の青葉は矢鱈(やたら)にかげりが多すぎる

不要な枝葉をすっぽりとはらい落とし

何故言わない? たくましい幹もあらわに<ここに私が立つ>と

靴よ 定期入れよ カフスボタンよ

何故言わない? <私が>と

都会の甘い夕暮のなかに

何故語尾をにごらせ融和させてしまうのだ?

 

男よ 何故言わない?

一杯のコーヒーが熱いあいだに

何故言わない? <きみが欲しい>と

遠まわしのプロポーズで美辞麗句で

何故ちっぽけな茶碗のふちを万里の長城にしてしまうのだ?

千枚のラブレターを書くことで

何故千枚のコスチュームを身にまといつけてしまうのだ?

林檎にサクリと歯をあてるように

女よ 何故言わない? <私もやっぱりあなたが欲しい>と

 

現代詩文庫64「新川和江詩集」より。

 

 

こちら「ノン・レトリック Ⅱ」によって

明らかになるのは

男と女の間に

無用であるかのようなもの=レトリックです。

 

 

こちらでは一挙に

愛の行為と言葉(レトリック)の距離が問われ

レトリック論が

いつしか恋愛論に変っています!

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年11月11日 (金)

新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅠ」という問い

 

「ノン・レトリック」というタイトルの

「比喩でなく」の兄弟のような詩が

1963年に出された詩集「ひとつの夏たくさんの夏」の中にあります。

 

「Ⅰ」と「Ⅱ」と2篇ありますが

この2作も互いに兄弟のようですから

こちらは双子の兄弟でしょうか。

 

 

ノン・レトリック Ⅰ

 

たとえばわたしは 水をのむ

ゴクンゴクンと のどを鳴らす

たとえばわたしは 指を切る

切ったところが 一文字にいたむ

たとえばわたしは 布を縫う

ふくろが出来て ものがはいる

たとえばわたしは へんじを書く

やっぱりわたしもあなたが好き と

それから そうして こどもを生む

ほかほか湯気のたつ赤んぼを!

 

ひときれのレモン

丸のままの林檎

野っ原のなかの槻(つき)の大樹

橋をながす奔流

1本のマッチ

光るメス

土間のすみにころがっている泥いも

はだか馬

 

わたしもほしい

それだけで詩となるような

1行の

あざやかな行為もしくは存在が

 

現代詩文庫64「新川和江詩集」より。洋数字に変えました。編者。)

 

 

それだけで詩となる

行為もしくは存在。

 

この詩に例示された

水をのむ ゴクンゴクンと のどを鳴らす やら、

ほかの行為やら

橋をながす奔流、やら、1本のマッチやら

ほかの存在やらが

それだけで詩となることなんて

そう簡単にできるものではありません。
 
あくまでも

それは目標ということでしょう。

 

この詩の最終連第1行、

わたしもほしい

――を読み過ごせません。

 

この詩(人)がほしいと願望しているのは

詩行としての

行為もしくは存在です。

 

レトリックのない詩行です。

 

 

そんなことできるだろうか。

 

詩が成り立つためには

比喩が必要なのではないかと考える詩人(読者)たちへ

投げかける問いになります。

 

なぜならば

多くの詩人たちは

レトリックの成否で一喜一憂する日々を送っているのですし

この詩(人)と同じ思いにとらわれるからです、きっと。

 

 

詩に対する疑問を詩にすることは

よくあることです。

 

優れた詩が

詩とは何かという問いを孕(はら)むことが多いのは

詩作の現場の一刻一刻が

この問いを自問しながら過ぎているといって過言でないほど

詩そのものを問う時間で埋まっているからでしょう。

 

 

小説家は小説を書きながら

小説とは何かといつも自問しています。

 

映画監督は映画を作りながら

映画とは何かをいつも自問しています。

 

漫画家は漫画を描きながら

漫画とは何かをいつも自問しています。

 

画家は絵を描きながら

絵とは何かをいつも自問しています。

 

 

「比喩でなく」が

詩とは何かという問いを問い

一つの答えを出そうとしている詩であることは

この詩が

普遍的で切実なテーマを追っていることを示しています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年11月 9日 (水)

新川和江・抒情の源流/「比喩でなく」の行為・続

 

 

比喩と一言でいいますが

それとは到底わからないように企まれる暗喩(あんゆ)もあり

それは高度な技術を要しますから

修練のようにして

言葉の技術を磨こうとする傾向があって

時には意味不明もしくは伝達不明の詩になることにもなります。

 

にもかかわらず

韻やルフランなどとともに

比喩(直喩・暗喩)は

詩の修辞の有効な方法であり続けています。

 

詩、ことさら現代詩から

比喩を差し引いたならば

言葉のあばら骨ばかりの詩が残るような

荒涼とした風景が現れるかもしれません。

 

新川和江は

そのことを痛いほどに感じていて

それでも「比喩でなく」を

歌いたい衝動を詩にしたに違いありません。

 

新川和江が

比喩の名手であることに変わりはないのです。

 

 

この詩に例示されている比喩の数々。

これを味わってみよう――。

 

水蜜桃が熟して落ちる 愛のように


河岸の倉庫の火事が消える 愛のように


七月の朝が萎(な)える 愛のように


貧しい小作人の家の豚が痩せる 愛のように

 

愛は、ここにないでしょうか?

 

 

愛の行為を読んでみましょう―

 

わたしの口を唇でふさぎ


あのひとはわたしを抱いた

 

 

愛の行為は


この2行だけに鮮やかです。

 


しかし。

 


公園の闇 匂う木の葉 迸る噴水


なにもかも愛のようだった なにもかも

 

と続く詩行が


この詩の殺し文句なのではありませんか。

 

 

否(いいえ)!

 

という声がして


なおも続く詩行の中に分け入っていく時

この詩はありのままの姿を見せはじめるような。
 

 

途中ですが
今回はここまで。


2016年11月 8日 (火)

新川和江・抒情の源流/「比喩でなく」の行為

 

 

「ふゆのさくら」が収録されている詩集「比喩でなく」に

タイトル詩「比喩でなく」があり

代表作の一つとして

多くの人に知られています。

 

 

比喩でなく

 

水蜜桃が熟して落ちる 愛のように

河岸の倉庫の火事が消える 愛のように

七月の朝が萎(な)える 愛のように

貧しい小作人の家の豚が痩せる 愛のように

 

おお

比喩でなく 

わたしは 愛を

愛そのものを探していたのだが

 

愛のような

ものにはいくつか出会ったが

わたしには摑めなかった

海に漂う藁しべほどにも このてのひらに

 

わたしはこう 言いかえてみた

けれどもやはり ここでも愛は比喩であった

 

愛は 水蜜桃からしたたり落ちる甘い雫

愛は 河岸の倉庫の火事 爆発する火薬 直立する炎

愛は かがやく七月の朝

愛は まるまる肥える豚……

 

わたしの口を唇でふさぎ

あのひとはわたしを抱いた

公園の闇 匂う木の葉 迸る噴水

なにもかも愛のようだった なにもかも

その上を時間が流れた 時間だけが

たしかな鋭い刃を持っていて わたしの頬に血を流させた   

 

現代詩文庫64「新川和江詩集」より。)

 

 

 

詩にとって比喩は

心臓のようなものです。

 

――と、こう言う矢先から

比喩は生じてしまうほどに遍在する

言葉のありふれた技術の一つですが。

 

 

 

この詩が探している(とうたう)のは

比喩ではない愛。

 

愛そのものです。

 

といって

愛そのものは

詩にすれば

比喩でしか捉えることができないことの

じれったさ(矛盾)を歌い

しかし

ある時(というのはこの詩の中で)、

 

わたしの口を唇でふさぎ

あのひとはわたしを抱いた

 

――と、愛の行為そのものを

比喩でなくうたったのに

その次の瞬間には

それは愛のようなものでしかなかった。

 

その愛のようなものは

過去の時間の記憶にだけは確かに刻まれた

――というようなことをうたったものです。

 

 

愛を

比喩でなく

行為として見せた名作です。
 
愛の行為そのものは

永遠に続くものでないけれど

頬に流れた血の記憶としてわたしの中にいま在る

――。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2016年11月 6日 (日)

新川和江・抒情の源流/「ふゆのさくら」の理知2

 

 

新川和江は1929年(昭和4年)生まれ。

1945年の敗戦日には16歳でした。

 

茨木のり子は敗戦時、20歳でしたから

その妹の世代になります。

 

新川和江は茨木のり子を「(日本)現代詩の長女」と呼称しましたが

新川和江はその呼称に順じて「現代詩の次女」を自認したことになります。

 

少女期を戦争下の茨城県結城で過ごしました。

 

 

新川和江自筆年譜の1944年(昭和19年)、15歳の項に、

 

1月、西條八十が戦火を逃れて近くの下館町(現在の下館市)に疎開。週に一度詩のノートを抱えて書斎に通うようになる。膨大(ぼうだい)なランボオ研究論文の浄書をいいつかる。

 

――とある経験は

詩人・新川和江の誕生に大きな影響を及ぼしたことを

銘記しておきましょう。

 

この頃、堀口大学訳の「檳榔樹(びんろうじゅ)」を読み、

ヴェルレーヌ、ヴァレリー、シュペルヴィエル、ノワイユ夫人らの詩に感銘したそうです。

 

(ハルキ文庫「新川和江詩集」より。)

 

 

「ふゆのさくら」は

第1詩集「睡り椅子」を1953年(昭和28年)に出して以後

1959年の第2詩集「絵本『永遠』」

1963年の「ひとつの夏 たくさんの夏」

1965年の「ローマの秋・その他」などと

かなり早いペースで詩集を発表してきて

39歳の年の、1968年の詩集「比喩でなく」に収録したものですが

数ある作品の中から茨木のり子がこれを選んだ理由ははっきりしています。

 

それは、この詩に

恋愛詩の新しさを見出したからにほかなりません。

 

 

ふゆのさくら

 

おとことおんなが


われなべにとじぶたしきにむすばれて


つぎのひからはやぬかみそくさく


なっていくのはいやなのです


あなたがしゅろうのかねであるなら


わたくしはそのひびきでありたい


あなたがうたのひとふしであるなら


わたくしはそのついくでありたい


あなたがいっこのれもんであるなら


わたくしはかがみのなかのれもん


そのようにあなたとしずかにむかいあいたい


たましいのせかいでは


わたくしもあなたもえいえんのわらべで


そうしたおままごともゆるされてあるでしょう


しめったふとんのにおいのする


まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる


ひとつやねのしたにすめないからといって


なにをかなしむひつようがありましょう


ごらんなさいだいりびなのように


わたくしたちがならんですわったござのうえ


そこだけあかるくくれなずんで


たえまなくさくらのはなびらがちりかかる

 

(現代詩文庫64「新川和江詩集」より。)

 

 

終りの方に、

 

だいりびなのように


わたくしたちがならんですわったござのうえ

 
――とある光景は

ひらがなで書かれているから余計に

柔らかくむつまじい男女の語らいを思わせますが

中年の恋の現実は

本当のところ

世間の目との苦闘があったのかもしれず

そのことを思えば

絶え間なく散りかかるのは桜花ではなく

雪かもしれないと読む茨木のり子に目が開かれます。

 

 

鐘楼(しゅろう)の鐘(かね)=あなた

その響き=わたし

 

歌の一節(ひとふし)=あなた

その対句=わたし

 

1個のレモン=あなた

鏡の中のレモン=わたし

 

――というような対等な男と女の関係は

最後には内裏雛(だいりびな)の喩(ゆ)で結ばれて

いっそう抒情でくるまれるようになるのですが

この抒情こそ理知の味のする抒情のようです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

新川和江・抒情の源流/「ふゆのさくら」の理知

それでは新川和江の詩を読んでいくことにします。

 

それではというのは

ほかでもない

茨木のり子の「詩のこころを読む」の「恋唄」の章で紹介されている女性詩人で

高良留美子

滝口雅子

――と続く順序に沿ってということです。

 

多くの人が新川和江の名を

色んなきっかけで知っているようですが

「詩のこころを読む」を通じてきた人も少なくはないことでしょう。

 

そこで案内されているのは

「ふゆのさくら」1篇でした。

 

 

ふゆのさくら

 

おとことおんなが

われなべにとじぶたしきにむすばれて

つぎのひからはやぬかみそくさく

なっていくのはいやなのです

あなたがしゅろうのかねであるなら

わたくしはそのひびきでありたい

あなたがうたのひとふしであるなら

わたくしはそのついくでありたい

あなたがいっこのれもんであるなら

わたくしはかがみのなかのれもん

そのようにあなたとしずかにむかいあいたい

たましいのせかいでは

わたくしもあなたもえいえんのわらべで

そうしたおままごともゆるされてあるでしょう

しめったふとんのにおいのする

まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる

ひとつやねのしたにすめないからといって

なにをかなしむひつようがありましょう

ごらんなさいだいりびなのように

わたくしたちがならんですわったござのうえ

そこだけあかるくくれなずんで

たえまなくさくらのはなびらがちりかかる

 

(現代詩文庫64「新川和江詩集」より。)

 

 

この詩「ふゆのさくら」は

1968年に発行された詩集「比喩でなく」に載っていますから

今(2016年)からおよそ50年ほど前に作られた詩です。

 

 

茨木のり子は「ふゆのさくら」を

季節外れの恋、中年の恋と読んで

 

ひとつやねのしたにすめないからといって

なにをかなしむひつようがありましょう

――を取り出してコメントします。

 

このコメントがまたスカッとして鮮やか!

 

 

故あって一緒に住めないのか、ともに住むことを拒否したのでしょうか。

 

公認された間柄ではないらしく、三角関係か四角関係かもしれないのですが、この世の掟(おきて)や民法なんかなんのその、もっとも深く理解しあえる相手として、その存在を意識しあい、相手にふさわしいものに成りたいという願いを日々抱いている、いわば、現世の枠からは浮上した形の恋です。
 
(「詩のこころを読む」より。改行を加えてあります。編者。)

 

 

これが当たっているのかいないのか。

 

詩世界の事実と現実を混同するのは

馬鹿々々しいことですが

茨木のり子はこれを、

 

昔ながらの日本の女の訴えかける、めんめん調のようにとらえかねませんが、

内容はむしろ理知的で、スキッとしています。

 

――と感想を述べます。

 

 

日本の現代抒情詩の本流を行く詩に

理知を感じ取る詩人に案内されて

新川和江の「ふゆのさくら」以外の詩を

幾つか読んでいきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年11月 5日 (土)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「ひからびた心」の風景

 

 

「ひからびた心」は

「文芸懇話会」1937年(昭和12年)4月号に発表されました。

 

中村古峡療養所を同年2月15日に退院して後

初めての新作詩と推定される作品です。

 

制作日は3月16日と推定されていますから

鎌倉に転居後の初作品ということになります。

 

 

ひからびた心

 

ひからびたおれの心は

そこに小鳥がきて啼(な)き

其処(そこ)に小鳥が巣を作り

卵を生むに適していた

 

ひからびたおれの心は

小さなものの心の動きと

握(にぎ)ればつぶれてしまいそうなものの動きを

掌(てのひら)に感じている必要があった

 

ひからびたおれの心は

贅沢(ぜいたく)にもそのようなものを要求し

贅沢にもそのようなものを所持したために

小さきものにはまことすまないと思うのであった

 

ひからびたおれの心は

それゆえに何はさて謙譲(けんじょう)であり

小さきものをいとおしみいとおしみ

むしろその暴戻(ぼうれい)を快(こころよ)いこととするのであった

 

そして私はえたいの知れない悲しみの日を味(あじわ)ったのだが

小さきものはやがて大きくなり

自分の幼時を忘れてしまい

大きなものは次第(しだい)に老いて

 

やがて死にゆくものであるから

季節は移りかわりゆくから

ひからびたおれの心は

ひからびた上にもひからびていって

 

ひからびてひからびてひからびてひからびて

――いっそ干割(ひわ)れてしまえたら

無の中へ飛び行って

そこで案外安楽(あんらく)に暮せらるのかも知れぬと思った

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

同じ「文芸懇話会」誌には「米子」が同時に発表されましたが

「米子」は1936年12月1日付け発行の「ペン」に初出したものの再発表でした。

 

 

心の状態を詩にするものですから

自然の景色の描写が希薄(きはく)になるのは必然と言えるでしょうか。

 

ひからびた心に訪れるのは小鳥でしたが

小鳥は小さなものの象徴であり

動作や表情は必要以上に描写されていません。

 

 

小鳥の外形や周辺の風景よりも

この詩、

 

小さきものはやがて大きくなり

自分の幼時を忘れてしまい

大きなものは次第(しだい)に老いて

 

――というところに展開があり

大きなもの(おれ=詩人)の老いに意識は向い

ついには無になる

そして安楽に暮せるかもしれないという希望が語られ閉じるのです。

 

 

早春の、鎌倉の

扇川あたりの野原に

雲雀(ひばり)は鳴いていたでしょうか?

 

詩を生むきっかけが

風景になかったとは言えません。

 

 

中途ですが

今回はここまで。

 

 

 

2016年11月 3日 (木)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「子守唄よ」の風景

 

「子守唄よ」は

「新女苑」の1937年(昭和12年)7月増大号(7月1日発行)に発表されました。

 

発行日から逆算して2か月前の

5月中旬に制作されたものと推定されています。

 

同月号の「四季」に「蛙声」が発表されていることから

二つの詩は同時期に作られ

相互に「照応」していることが案内されています。
「新編中原中也全集」)

 

 

子守唄よ

 

母親はひと晩じゅう、子守唄(こもりうた)をうたう

母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう

然(しか)しその声は、どうなるのだろう?

たしかにその声は、海越えてゆくだろう?

暗い海を、船もいる夜の海を

そして、その声を聴届(ききとど)けるのは誰だろう?

それは誰か、いるにはいると思うけれど

しかしその声は、途中で消えはしないだろうか?

たとえ浪は荒くはなくともたとえ風はひどくはなくとも

その声は、途中で消えはしないだろうか?

 

母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう

母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう

淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だろう?

淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だろう?

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

いっぽうが蛙声

いっぽうが母親の声。

 

その声に

それを聴くのは誰だろう?(子守唄よ)

あれは、何を鳴いているのであろう?(蛙声)

――と疑問を呈している詩です。

 

 

なぜこの時期に

子守唄、なのか

子守唄よ、なのか。

 

「蛙声」との照応ということがヒントになり

わかったような気になりますが

溜飲が下がるほどではありません。

 

 

「子守唄よ」は14行の詩ですが

半分の7行に行末「?」があり

詩(人)はその疑問を投げかけたまま

答えを明らかにしないままに(できないまま)終わります。

 

「蛙声」の方が疑問への答えが明確で

「子守唄よ」は

疑問ではじまり疑問で終わっています。

 

「子守唄よ」は

母親の唄が消えてしまわないか

心配する心持ちが歌われているだけです。

 

 

これほど外景というものがない詩は

中也の詩には珍しい。

 

季節も風景も色彩を失って

暗い海を渡る子守唄だけが

母親によって歌われ

その声の行く先が心配されます。

 

 

風景があるとすれば

内面の風景というほかになく

そこに鎌倉は現れません。

 

 

中途ですが

今回はここまで。

2016年11月 2日 (水)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「渓流」の風景

 

「渓流」が作られたのは


「夏と悲運」が作られた3日後のことでした。

 

1937年7月18日付けの「都新聞」に発表されました。

 

 

「渓流」は

本文中に「たにがわ」のルビが詩人によって振られていますが


タイトルを「けいりゅう」とは読まないという掟(おきて)があるものでもなく


どちらかであるかは


読む人に任せられるものでしょう。

 

「新全集」解題篇も


そのようなヒントを案内しています。

 



渓流



 

渓流(たにがわ)で冷やされたビールは、


青春のように悲しかった。


峰(みね)を仰(あお)いで僕は、


泣き入るように飲んだ。

 

ビショビショに濡(ぬ)れて、とれそうになっているレッテルも、

青春のように悲しかった。


しかしみんなは、「実にいい」とばかり云(い)った。


僕も実は、そう云ったのだが。

 

湿った苔(こけ)も泡立つ水も、

日蔭も岩も悲しかった。

やがてみんなは飲む手をやめた。


ビールはまだ、渓流の中で冷やされていた。

 

水を透かして瓶(びん)の肌(はだ)えをみていると、

僕はもう、此(こ)の上歩きたいなぞとは思わなかった。


独り失敬(しっけい)して、宿(やど)に行って、


女中(ねえさん)と話をした。


                (1937・7・15)

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かな・洋数字に変えました。編者。)

 

 

回想の流れの詩というよりは


直近の経験を歌ったような詩行の印象があります。

 

青春(という言葉)が

これほど鮮烈に抽象化されつつ


たった今過ぎ去った過去のものとして具体的に歌われてあり


あっと息を飲む衝撃が起こります。

 

さらば青春!

――の現場を見るような。

 

 


宿(やど)


女中(ねえさん)


――は、いかにも旅先のムードですが


深山幽谷の旅情ではなく


都市近郊へのピクニックが想像されます。

 

その土地を

鎌倉近辺と特定するまでもありませんが。

 

 

中途ですが

今回はここまで。

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「夏と悲運」の風景

 

 

回想は


懐かしくほがらかなものばかりではなく


苦々しく不運に満ちた経験を


呼び覚ますことさえあります。

 

 

それも


現在の心境にクロスオーバーして。

 

 

 

 

夏と悲運



 

とど、俺としたことが、笑い出さずにゃいられない。

 

 

思えば小学校の頃からだ。


例えば夏休みも近づこうという暑い日に、


唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、


すると俺としたことが、笑い出さずにゃいられなかった。


格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑(おか)しいというのではない、


起立して、先生の後から歌う生徒等が、可笑しいというのでもない、


それどころか俺は大体、此の世に笑うべきものが存在(ある)とは思ってもいなかった。


それなのに、とど、笑い出さずにゃいられない、


すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。


俺は風のよく通る廊下で、淋しい思いをしたもんだ。


俺としてからが、どう解釈のしようもなかった。


別に邪魔になる程に、大声で笑ったわけでもなかったし、


然(しか)し先生がカンカンになっていることも事実だったし、


先生自身何をそんなに怒るのか知っていぬことも事実だったし、


俺としたって意地やふざけで笑ったわけではなかったのだ。


俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思うのだった。

 

 

大人となった今日でさえ、そうした悲運はやみはせぬ。


夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。


やがて俺は人生が、すっかり自然と游離(ゆうり)しているように感じだす。


すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。


格別俺は人生が、どうのこうのと云うのではない。


理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。


孤高を以て任じているなぞというのでは尚更(なおさら)ない。


しかし俺としたことが、とど、笑い出さずにゃいられない。

 

 

どうしてそれがそうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。


しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやというほど味わっている。


   
                              (1937・7)

 

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かな・洋数字に変えました。編者。)

 

 

 

 

運命といい


悲運という。

 

 

詩人自身にも分らない


笑えてくるような断絶。

 

 

この断絶は長い人生の一瞬に起きたことですが


双方が互いに理解したことのない


永遠の断絶――。

 

 

その一瞬の一コマが


今になって蘇るのです。

 

 

 

 

似たような経験のある人は


世の中に案外多く存在しそうな事件です。

 

 

どのようにしても


それを解決することはできない。

 

 

永遠の悲しみ――。

 

 

 

 

それは、今でも途絶えることはないのです。

 

 

第3連冒頭、


大人となった今日でさえ、そうした悲運はやみはせぬ。


夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。


やがて俺は人生が、すっかり自然と游離(ゆうり)しているように感じだす。


――とある風景の中ではじまります。

 

 

鎌倉の。

 

 

夏の暑い日


庭先の樹の葉


蝉の声。

 

 

 

 

中途ですが


今回はここまで。

2016年11月 1日 (火)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「梅雨と弟」の風景

 

 

「梅雨と弟」が作られたのは


1937年(昭和12年)5~6月と推定されています。



「少女の友」の同年8月号(発行8月1日付け)に発表された時


「梅雨二題」というタイトルでした。

 

 

その第1節です。

 

降り続く雨に


詩人はあたかも身を任せ


遠い日の中に舞い立ちますが


茫然自失しているのではありません。

 

 



 

梅雨と弟



 

毎日々々雨が降ります


去年の今頃梅の実を持って遊んだ弟は


去年の秋に亡くなって


今年の梅雨(つゆ)にはいませんのです

 

 

お母さまが おっしゃいました


また今年も梅酒をこさおうね


そしたらまた来年の夏も飲物(のみもの)があるからね


あたしはお答えしませんでした


弟のことを思い出していましたので

 



去年梅酒をこしらう時には


あたしがお手伝いしていますと


弟が来て梅を放(ほ)ったり随分(ずいぶん)と邪魔をしました


あたしはにらんでやりましたが


あんなことをしなければよかったと


今ではそれを悔んでおります……

 



(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

 

 

弟は、長男・文也のことで


亜郎や恰三のことではありません。

 

 

昨年の秋に亡くなった文也に


もっと先に亡くなった弟たちが重なり


弟に仕立てたのです。

 

 

 

 

錯覚ではなく


創意(フィクション)がここに見られます。

 

 

文也の死を乗り越えようとする


秘めたる意志とも呼んでよいでしょう。

 

 

 

 

しとしと降る雨は


鎌倉の雨でしょうが


そのように読む必要もないほどに


雨の固有性(映像性)はありません。

 

 

 

 

中途ですが


今回はここまで。

 

 

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