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« 新川和江・抒情の源流/「比喩でなく」の行為 | トップページ | 新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅠ」という問い »

2016年11月 9日 (水)

新川和江・抒情の源流/「比喩でなく」の行為・続

 

 

比喩と一言でいいますが

それとは到底わからないように企まれる暗喩(あんゆ)もあり

それは高度な技術を要しますから

修練のようにして

言葉の技術を磨こうとする傾向があって

時には意味不明もしくは伝達不明の詩になることにもなります。

 

にもかかわらず

韻やルフランなどとともに

比喩(直喩・暗喩)は

詩の修辞の有効な方法であり続けています。

 

詩、ことさら現代詩から

比喩を差し引いたならば

言葉のあばら骨ばかりの詩が残るような

荒涼とした風景が現れるかもしれません。

 

新川和江は

そのことを痛いほどに感じていて

それでも「比喩でなく」を

歌いたい衝動を詩にしたに違いありません。

 

新川和江が

比喩の名手であることに変わりはないのです。

 

 

この詩に例示されている比喩の数々。

これを味わってみよう――。

 

水蜜桃が熟して落ちる 愛のように


河岸の倉庫の火事が消える 愛のように


七月の朝が萎(な)える 愛のように


貧しい小作人の家の豚が痩せる 愛のように

 

愛は、ここにないでしょうか?

 

 

愛の行為を読んでみましょう―

 

わたしの口を唇でふさぎ


あのひとはわたしを抱いた

 

 

愛の行為は


この2行だけに鮮やかです。

 


しかし。

 


公園の闇 匂う木の葉 迸る噴水


なにもかも愛のようだった なにもかも

 

と続く詩行が


この詩の殺し文句なのではありませんか。

 

 

否(いいえ)!

 

という声がして


なおも続く詩行の中に分け入っていく時

この詩はありのままの姿を見せはじめるような。
 

 

途中ですが
今回はここまで。


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