新川和江・抒情の源流/「ふゆのさくら」の理知2
新川和江は1929年(昭和4年)生まれ。
1945年の敗戦日には16歳でした。
茨木のり子は敗戦時、20歳でしたから
その妹の世代になります。
新川和江は茨木のり子を「(日本)現代詩の長女」と呼称しましたが
新川和江はその呼称に順じて「現代詩の次女」を自認したことになります。
少女期を戦争下の茨城県結城で過ごしました。
◇
新川和江自筆年譜の1944年(昭和19年)、15歳の項に、
1月、西條八十が戦火を逃れて近くの下館町(現在の下館市)に疎開。週に一度詩のノートを抱えて書斎に通うようになる。膨大(ぼうだい)なランボオ研究論文の浄書をいいつかる。
――とある経験は
詩人・新川和江の誕生に大きな影響を及ぼしたことを
銘記しておきましょう。
この頃、堀口大学訳の「檳榔樹(びんろうじゅ)」を読み、
ヴェルレーヌ、ヴァレリー、シュペルヴィエル、ノワイユ夫人らの詩に感銘したそうです。
(ハルキ文庫「新川和江詩集」より。)
◇
「ふゆのさくら」は
第1詩集「睡り椅子」を1953年(昭和28年)に出して以後
1959年の第2詩集「絵本『永遠』」
1963年の「ひとつの夏 たくさんの夏」
1965年の「ローマの秋・その他」などと
かなり早いペースで詩集を発表してきて
39歳の年の、1968年の詩集「比喩でなく」に収録したものですが
数ある作品の中から茨木のり子がこれを選んだ理由ははっきりしています。
それは、この詩に
恋愛詩の新しさを見出したからにほかなりません。
◇
ふゆのさくら
おとことおんなが
われなべにとじぶたしきにむすばれて
つぎのひからはやぬかみそくさく
なっていくのはいやなのです
あなたがしゅろうのかねであるなら
わたくしはそのひびきでありたい
あなたがうたのひとふしであるなら
わたくしはそのついくでありたい
あなたがいっこのれもんであるなら
わたくしはかがみのなかのれもん
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい
たましいのせかいでは
わたくしもあなたもえいえんのわらべで
そうしたおままごともゆるされてあるでしょう
しめったふとんのにおいのする
まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる
ひとつやねのしたにすめないからといって
なにをかなしむひつようがありましょう
ごらんなさいだいりびなのように
わたくしたちがならんですわったござのうえ
そこだけあかるくくれなずんで
たえまなくさくらのはなびらがちりかかる
(現代詩文庫64「新川和江詩集」より。)
◇
終りの方に、
だいりびなのように
わたくしたちがならんですわったござのうえ
――とある光景は
ひらがなで書かれているから余計に
柔らかくむつまじい男女の語らいを思わせますが
中年の恋の現実は
本当のところ
世間の目との苦闘があったのかもしれず
そのことを思えば
絶え間なく散りかかるのは桜花ではなく
雪かもしれないと読む茨木のり子に目が開かれます。
◇
鐘楼(しゅろう)の鐘(かね)=あなた
その響き=わたし
歌の一節(ひとふし)=あなた
その対句=わたし
1個のレモン=あなた
鏡の中のレモン=わたし
――というような対等な男と女の関係は
最後には内裏雛(だいりびな)の喩(ゆ)で結ばれて
いっそう抒情でくるまれるようになるのですが
この抒情こそ理知の味のする抒情のようです。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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