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2016年11月23日 (水)

新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅡ」という答え・その2

 

 

レトリック論が恋愛論に変わる

――というのは大雑把(おおざっぱ)な言い方ですが

言葉の技術が恋愛の方法に及んだ

――というほどのことです。

 

レトリックということを考えるとき

男女の愛(の表現)に見立てれば

鮮やかに明瞭になってくるものがあることを

いちはやくこの詩はうたいました。

 

比喩というレトリックが

ここに潜(ひそ)んでいます。

 

その比喩を

否定する詩の流れのようですが――。

 

 

愛の言葉は

その場になってなかなか思いつける殺し文句が出てこないもので

相手に伝わっているものか

自分ながら歯がゆくじれったく

<詩的に>言おうといしても言えないのが常で

詩のような言葉を探しては失敗し

それならいっそ虚飾を取り除いて

真っすぐにズバリと

思うままを言えばいいものをと反省し

次にそのチャンスが巡ってきて

さあ、いざ、となった時にまた

まだるっこしい、遠回りな言葉を繰り返す

 

――という(日本の)男女の日常。

 

 

詩(人)はそのことに釘を刺そうとうたったのですが

タイトルに「ノン・レトリック」を使って

「レトリックに非ず」「反・修辞」を意味した途端に

それがレトリックになっているというレトリックが出現します。

 

このタイトル自体が

レトリックとなり

同時に

ノン・レトリックになりました。

 

 

「ノン・レトリック Ⅱ」には副題として

マルセル・カミュの「熱風」をみる

――が付されてありますから

まずはここに読み手の関心は導かれます。

 

この詩のモチーフとなった映画「熱風」

ブラジルを舞台にしたフランス人監督マルセル・カミュの作品ですが

カミュが異なる文化に目を瞠(みは)ったのと同じように

詩人は映画のさりげないシーンに心を奪われたのでしょうか。

 

飾りのない野生の言葉というものに。

 

 

「私が行く」

――という「熱風」に出てくる黒人青年のセリフは

愛の言葉として

主語と述語だけの

修飾語の一つもない

素朴なものでした。

 

映画のモチーフになったのは

エキソチズムというよりは

文明と野生の二項対立だったのか。

 

詩人の「ノン・レトリック」への渇望みたいなものが

この野生(の言葉)に動かされました。

 

映画のセリフが

この詩の殺し文句となりました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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