新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅡ」という答え・その2
レトリック論が恋愛論に変わる
――というのは大雑把(おおざっぱ)な言い方ですが
言葉の技術が恋愛の方法に及んだ
――というほどのことです。
レトリックということを考えるとき
男女の愛(の表現)に見立てれば
鮮やかに明瞭になってくるものがあることを
いちはやくこの詩はうたいました。
比喩というレトリックが
ここに潜(ひそ)んでいます。
その比喩を
否定する詩の流れのようですが――。
◇
愛の言葉は
その場になってなかなか思いつける殺し文句が出てこないもので
相手に伝わっているものか
自分ながら歯がゆくじれったく
<詩的に>言おうといしても言えないのが常で
詩のような言葉を探しては失敗し
それならいっそ虚飾を取り除いて
真っすぐにズバリと
思うままを言えばいいものをと反省し
次にそのチャンスが巡ってきて
さあ、いざ、となった時にまた
まだるっこしい、遠回りな言葉を繰り返す
――という(日本の)男女の日常。
◇
詩(人)はそのことに釘を刺そうとうたったのですが
タイトルに「ノン・レトリック」を使って
「レトリックに非ず」「反・修辞」を意味した途端に
それがレトリックになっているというレトリックが出現します。
このタイトル自体が
レトリックとなり
同時に
ノン・レトリックになりました。
◇
「ノン・レトリック Ⅱ」には副題として
マルセル・カミュの「熱風」をみる
――が付されてありますから
まずはここに読み手の関心は導かれます。
この詩のモチーフとなった映画「熱風」は
ブラジルを舞台にしたフランス人監督マルセル・カミュの作品ですが
カミュが異なる文化に目を瞠(みは)ったのと同じように
詩人は映画のさりげないシーンに心を奪われたのでしょうか。
飾りのない野生の言葉というものに。
◇
「私が行く」
――という「熱風」に出てくる黒人青年のセリフは
愛の言葉として
主語と述語だけの
修飾語の一つもない
素朴なものでした。
映画のモチーフになったのは
エキソチズムというよりは
文明と野生の二項対立だったのか。
詩人の「ノン・レトリック」への渇望みたいなものが
この野生(の言葉)に動かされました。
映画のセリフが
この詩の殺し文句となりました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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