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« 新川和江・抒情の源流/「比喩でなく」の行為・続 | トップページ | 新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅡ」という答え »

2016年11月11日 (金)

新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅠ」という問い

 

「ノン・レトリック」というタイトルの

「比喩でなく」の兄弟のような詩が

1963年に出された詩集「ひとつの夏たくさんの夏」の中にあります。

 

「Ⅰ」と「Ⅱ」と2篇ありますが

この2作も互いに兄弟のようですから

こちらは双子の兄弟でしょうか。

 

 

ノン・レトリック Ⅰ

 

たとえばわたしは 水をのむ

ゴクンゴクンと のどを鳴らす

たとえばわたしは 指を切る

切ったところが 一文字にいたむ

たとえばわたしは 布を縫う

ふくろが出来て ものがはいる

たとえばわたしは へんじを書く

やっぱりわたしもあなたが好き と

それから そうして こどもを生む

ほかほか湯気のたつ赤んぼを!

 

ひときれのレモン

丸のままの林檎

野っ原のなかの槻(つき)の大樹

橋をながす奔流

1本のマッチ

光るメス

土間のすみにころがっている泥いも

はだか馬

 

わたしもほしい

それだけで詩となるような

1行の

あざやかな行為もしくは存在が

 

現代詩文庫64「新川和江詩集」より。洋数字に変えました。編者。)

 

 

それだけで詩となる

行為もしくは存在。

 

この詩に例示された

水をのむ ゴクンゴクンと のどを鳴らす やら、

ほかの行為やら

橋をながす奔流、やら、1本のマッチやら

ほかの存在やらが

それだけで詩となることなんて

そう簡単にできるものではありません。
 
あくまでも

それは目標ということでしょう。

 

この詩の最終連第1行、

わたしもほしい

――を読み過ごせません。

 

この詩(人)がほしいと願望しているのは

詩行としての

行為もしくは存在です。

 

レトリックのない詩行です。

 

 

そんなことできるだろうか。

 

詩が成り立つためには

比喩が必要なのではないかと考える詩人(読者)たちへ

投げかける問いになります。

 

なぜならば

多くの詩人たちは

レトリックの成否で一喜一憂する日々を送っているのですし

この詩(人)と同じ思いにとらわれるからです、きっと。

 

 

詩に対する疑問を詩にすることは

よくあることです。

 

優れた詩が

詩とは何かという問いを孕(はら)むことが多いのは

詩作の現場の一刻一刻が

この問いを自問しながら過ぎているといって過言でないほど

詩そのものを問う時間で埋まっているからでしょう。

 

 

小説家は小説を書きながら

小説とは何かといつも自問しています。

 

映画監督は映画を作りながら

映画とは何かをいつも自問しています。

 

漫画家は漫画を描きながら

漫画とは何かをいつも自問しています。

 

画家は絵を描きながら

絵とは何かをいつも自問しています。

 

 

「比喩でなく」が

詩とは何かという問いを問い

一つの答えを出そうとしている詩であることは

この詩が

普遍的で切実なテーマを追っていることを示しています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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