新川和江・抒情の源流/「ノン・レトリックⅠ」という問い
「ノン・レトリック」というタイトルの
「比喩でなく」の兄弟のような詩が
1963年に出された詩集「ひとつの夏たくさんの夏」の中にあります。
「Ⅰ」と「Ⅱ」と2篇ありますが
この2作も互いに兄弟のようですから
こちらは双子の兄弟でしょうか。
◇
ノン・レトリック Ⅰ
たとえばわたしは 水をのむ
ゴクンゴクンと のどを鳴らす
たとえばわたしは 指を切る
切ったところが 一文字にいたむ
たとえばわたしは 布を縫う
ふくろが出来て ものがはいる
たとえばわたしは へんじを書く
やっぱりわたしもあなたが好き と
それから そうして こどもを生む
ほかほか湯気のたつ赤んぼを!
ひときれのレモン
丸のままの林檎
野っ原のなかの槻(つき)の大樹
橋をながす奔流
1本のマッチ
光るメス
土間のすみにころがっている泥いも
はだか馬
わたしもほしい
それだけで詩となるような
1行の
あざやかな行為もしくは存在が
(現代詩文庫64「新川和江詩集」より。洋数字に変えました。編者。)
◇
それだけで詩となる
行為もしくは存在。
この詩に例示された
水をのむ ゴクンゴクンと のどを鳴らす やら、
ほかの行為やら
橋をながす奔流、やら、1本のマッチやら
ほかの存在やらが
それだけで詩となることなんて
そう簡単にできるものではありません。
あくまでも
それは目標ということでしょう。
この詩の最終連第1行、
わたしもほしい
――を読み過ごせません。
この詩(人)がほしいと願望しているのは
詩行としての
行為もしくは存在です。
レトリックのない詩行です。
◇
そんなことできるだろうか。
詩が成り立つためには
比喩が必要なのではないかと考える詩人(読者)たちへ
投げかける問いになります。
なぜならば
多くの詩人たちは
レトリックの成否で一喜一憂する日々を送っているのですし
この詩(人)と同じ思いにとらわれるからです、きっと。
◇
詩に対する疑問を詩にすることは
よくあることです。
優れた詩が
詩とは何かという問いを孕(はら)むことが多いのは
詩作の現場の一刻一刻が
この問いを自問しながら過ぎているといって過言でないほど
詩そのものを問う時間で埋まっているからでしょう。
◇
小説家は小説を書きながら
小説とは何かといつも自問しています。
映画監督は映画を作りながら
映画とは何かをいつも自問しています。
漫画家は漫画を描きながら
漫画とは何かをいつも自問しています。
画家は絵を描きながら
絵とは何かをいつも自問しています。
◇
「比喩でなく」が
詩とは何かという問いを問い
一つの答えを出そうとしている詩であることは
この詩が
普遍的で切実なテーマを追っていることを示しています。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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