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2016年11月26日 (土)

新川和江・抒情の源流/「ひばりの様に」の素朴・その2

 

 

雲雀(ひばり)という鳥が春先の青天にさえずる姿を 

初めて見たときの感動は

誰にも一生忘れがたく残るものでしょう。

 

どこで鳴いているのか

見上げた空には

ぴーぴーぴーぴーと声は聞こえているのですが

金の粉をまぶした青が広がっているばかりで

いっこうに姿をとらえることができない。

 

けれど、

目を凝らして青空を探していると

まぶしいばかりの青空に目が馴染んできて

小さくはばたく黒い点々を

なんなく見つけることができるものです。

 

 

渋谷から調布に越した転校生が

田舎の少年たちに

雲雀を見つけるコツを教わった日々が思い出されます。

 

ひばりは

地上の巣に戻るとき

巣から相当離れた場所に降り立ち

敵の存在を確かめてから

巣を目指すんだ

――と教えてくれた遠藤君や元木君。

 

今ごろどうしているかな。

 

 

……と、こうして自分の身に引きつけて

この詩を読むのは勝手というものでしょうか。

 

ならばこの詩は

雲雀の生態に感心して

雲雀を称揚したうたということになります。

 

そうならば

この詩はリアリズムのうたということになりますが。

 

 

この詩の

面白いところ(読みどころ)は

ひばりを見ている詩人が

ひばりを擬人化し

ひばりのようにうたうことが

詩人の仕事であることをうたいつつ

ついにひばりそのものになっているところでしょう。

 

後半の2連、

いのちの限りうたいつつ

ゆうべあかねの雲のなか

 

胸はりさけて死んだとて

それでよいではないですか

 

――は、

もはや

詩の作者とひばりとの間に

距離はありません。

 

死んだとて、の主語は

ひばりであると同時に詩人自身です。

 

そのように

詩人はうたいました。

 

 

素朴と見えるこの詩は

素朴であることの中に

擬人法だとか比喩だとか

レトリックを超えようとする企みを潜(ひそ)ませています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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