中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「夏と悲運」の風景
回想は
懐かしくほがらかなものばかりではなく
苦々しく不運に満ちた経験を
呼び覚ますことさえあります。
それも
現在の心境にクロスオーバーして。
◇
夏と悲運
とど、俺としたことが、笑い出さずにゃいられない。
思えば小学校の頃からだ。
例えば夏休みも近づこうという暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑い出さずにゃいられなかった。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑(おか)しいというのではない、
起立して、先生の後から歌う生徒等が、可笑しいというのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑うべきものが存在(ある)とは思ってもいなかった。
それなのに、とど、笑い出さずにゃいられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思いをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしようもなかった。
別に邪魔になる程に、大声で笑ったわけでもなかったし、
然(しか)し先生がカンカンになっていることも事実だったし、
先生自身何をそんなに怒るのか知っていぬことも事実だったし、
俺としたって意地やふざけで笑ったわけではなかったのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思うのだった。
大人となった今日でさえ、そうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すっかり自然と游離(ゆうり)しているように感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのこうのと云うのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じているなぞというのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑い出さずにゃいられない。
どうしてそれがそうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやというほど味わっている。
(1937・7)
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かな・洋数字に変えました。編者。)
◇
運命といい
悲運という。
詩人自身にも分らない
笑えてくるような断絶。
この断絶は長い人生の一瞬に起きたことですが
双方が互いに理解したことのない
永遠の断絶――。
その一瞬の一コマが
今になって蘇るのです。
◇
似たような経験のある人は
世の中に案外多く存在しそうな事件です。
どのようにしても
それを解決することはできない。
永遠の悲しみ――。
◇
それは、今でも途絶えることはないのです。
第3連冒頭、
大人となった今日でさえ、そうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すっかり自然と游離(ゆうり)しているように感じだす。
――とある風景の中ではじまります。
鎌倉の。
夏の暑い日
庭先の樹の葉
蝉の声。
◇
中途ですが
今回はここまで。
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