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2016年11月 2日 (水)

中原中也の鎌倉/「在りし日の歌」清書の前後/「夏と悲運」の風景

 

 

回想は


懐かしくほがらかなものばかりではなく


苦々しく不運に満ちた経験を


呼び覚ますことさえあります。

 

 

それも


現在の心境にクロスオーバーして。

 

 

 

 

夏と悲運



 

とど、俺としたことが、笑い出さずにゃいられない。

 

 

思えば小学校の頃からだ。


例えば夏休みも近づこうという暑い日に、


唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、


すると俺としたことが、笑い出さずにゃいられなかった。


格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑(おか)しいというのではない、


起立して、先生の後から歌う生徒等が、可笑しいというのでもない、


それどころか俺は大体、此の世に笑うべきものが存在(ある)とは思ってもいなかった。


それなのに、とど、笑い出さずにゃいられない、


すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。


俺は風のよく通る廊下で、淋しい思いをしたもんだ。


俺としてからが、どう解釈のしようもなかった。


別に邪魔になる程に、大声で笑ったわけでもなかったし、


然(しか)し先生がカンカンになっていることも事実だったし、


先生自身何をそんなに怒るのか知っていぬことも事実だったし、


俺としたって意地やふざけで笑ったわけではなかったのだ。


俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思うのだった。

 

 

大人となった今日でさえ、そうした悲運はやみはせぬ。


夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。


やがて俺は人生が、すっかり自然と游離(ゆうり)しているように感じだす。


すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。


格別俺は人生が、どうのこうのと云うのではない。


理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。


孤高を以て任じているなぞというのでは尚更(なおさら)ない。


しかし俺としたことが、とど、笑い出さずにゃいられない。

 

 

どうしてそれがそうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。


しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやというほど味わっている。


   
                              (1937・7)

 

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かな・洋数字に変えました。編者。)

 

 

 

 

運命といい


悲運という。

 

 

詩人自身にも分らない


笑えてくるような断絶。

 

 

この断絶は長い人生の一瞬に起きたことですが


双方が互いに理解したことのない


永遠の断絶――。

 

 

その一瞬の一コマが


今になって蘇るのです。

 

 

 

 

似たような経験のある人は


世の中に案外多く存在しそうな事件です。

 

 

どのようにしても


それを解決することはできない。

 

 

永遠の悲しみ――。

 

 

 

 

それは、今でも途絶えることはないのです。

 

 

第3連冒頭、


大人となった今日でさえ、そうした悲運はやみはせぬ。


夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。


やがて俺は人生が、すっかり自然と游離(ゆうり)しているように感じだす。


――とある風景の中ではじまります。

 

 

鎌倉の。

 

 

夏の暑い日


庭先の樹の葉


蝉の声。

 

 

 

 

中途ですが


今回はここまで。

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