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2016年12月 3日 (土)

新川和江・抒情の源流/「Chanson」の愛(アムール)・再

 

 

2度読んでみたけれど

どこか読み足りなく

胸の底に落ちていかないので

もう一度読んでみます。

 

 

Chansonには、

 

あまやかに歌いましょうか 愛(アムール)を

でも でも それが出来なくなった

 

と、

 

あまやかに歌いましょうか 愛(アムール)を

でも でも それが

どうして出来なくなったのでしょうね

 

――というルフランがあり

ここに詩の最大の眼目(ねらい)があることは

初めて読んだ時にすんなりと理解したはずでした。

 

 

あまやかに歌いたい

けれども

出来ない――。

 

この、逆接の接続関係で

重心があるのは

出来ない、という結果です。

 

歌いましょうか、という予想的な判断は

出来ない、という結果的な判断で覆(くつがえ)されている

――といえば

日本語文法の分析みたいで

詩を読み損(そこ)ねるかもしれませんが。

 

逆接の接続詞「でも」によって

予想(前の行)が結果(後の行)によって逆転してしまうのですから

ここは読み外してはならないところです。

 

 

ですから、

あまやかな愛(アムール)は

この詩では一つも歌われないのです。

 

多くのシャンソンが

過ぎ去った愛や苦しみの愛を歌うように。

 

 

詩人の不幸について

書き出される第3連。

 

えらい先生が

詩は批評でなければいけないなんて

おっしゃった日から

それははじまった、のですが

そんな発言は聞き流したいところなのに

そうはいかなかったのです。

 

 

すると、この詩、

あまやかな愛を

歌えない不幸を歌っているのでしょうか?

 

大きな問いが生まれてきて

俄然、身が引き締まります。

 

 

その問いが含まれているとなれば

どのような愛なのか。

 

「愛のよろこび」のような

「枯葉」のような、か。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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