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2016年12月11日 (日)

新川和江・抒情の源流/「井の頭公園」の時の時・その3

 

 

キスする筈だった

ままごとする筈だった

みの虫がブランコするように二人で揺れていたかった

――という願望は達成できませんでした。

 

となると……。

 

その人はいまいずこ?

――という疑問が生じますが

その人はあいかわらず公園の道を

すこし距離をおいて歩いています。

 

幻でもなく奇跡でもなかった。

 

 

二人の男女が井の頭公園を歩いている。

 

井の頭公園という固有名が

ここで利いています。

 

そこに愛は存在します。

 

 

こうして愛の謎(なぞ)は

解けたかに見えますが――。

 

 

ほんとうは悲しみが

隠れているのかもしれません。

 

むなしさ

悔い

諦(あきら)め

……が潜んでいるのかもしれません。

 

願い通りにはならなかった恋だったのかもしれません。

 

けれども

成就しなかった恋を悔いる響きは

いっこうに聞こえてきません

 

満足しているというほどでもなさそうですが

充分に自ら了解している感じがあります。

 

 

わたしたちは 又逢ってしまった

月並みな<さようなら>では

わたしたち 別れられない

わたしたちは愛しすぎてしまいました

(略)

かといって ありふれた愛のかたちをとることもできず

こうして二人で向かい合っているのは 尚苦しい

わたしたちは愛しすぎてしまいました

こんな愛は熱すぎてはいれぬお風呂みたいなものだ

――と歌ったのは

つい最近のようなことでしたのに。

(「わたしたちは又逢って……」より。)
 

 

この詩「井の頭公園」は

では

恋の終りを歌ったのでしょうか?

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

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