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2016年12月14日 (水)

新川和江・抒情の源流/「五月ひとり」から「アルネ」のあこがれ

 

 

この詩「五月ひとり」は

思い出を歌っているのではありません。

 

いま、あなたを思って

苺を食べていること、

それだけを歌っているものです。

 

苺を食べながら

あなたとは一緒に食べなかったことを

思っているだけです。

 

一緒に食べなかったという思い出を

歌っているのではありません。

 

苺をひとり食べている、

そのことが歌われているだけです。

 

 

いま、色んな思いが

混ざりあっているかもしれません。

 

悔いとか寂しさとかだけでなく

心温まる思いなのかもしれません。

 

寂しくもあり

苦しくもあり

甘酸っぱくもあり

甘やかでもあり

悲しくもあり

地の底から這いあがってくるむなしさもあり。

 

でも、それらの思いは

いっこうに歌われません。

 

でも、

あなたのことが脳裏にあります。

 

そして、色んな思いが伝わってきます。

 

 

自選詩集「千度呼べば」のあとがきには

詩人が詩を書きはじめたいきさつが披瀝されています。

 

少女の頃というから

それは師、西條八十の知遇を得る以前の話に違いありません。

 

ビヨルンソンの山岳小説「アルネ」を愛読していた詩人は、

主人公アルネ少年のように

都会にあこがれ

街にあこがれ

やがてそのあこがれの対象は

いつか出会うであろう恋人へと変わっていったことを記しています。

 

 

詩は

この頃に書きはじめられました。

 

アルネ少年のあこがれが

詩を書く少女に乗り移り

そのあこがれは

いつしか初めて出会うであろう恋びとへの思いに重なります。

 

少女は成人して後

詩を書くことを生業(なりわい)としますが

自らのひそかな恋は

それら詩篇のなかに隠された。

――と明かしているのです。

 

 

「五月ひとり」には

なんら具体的に恋らしきものは歌われていませんが

無性(むしょう)に

一目散に

この詩人の少女時代の詩へ

飛んでいきたく思わせるものが潜んでいます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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