新川和江・抒情の源流/詩人の来歴・その3/幼年・少年少女詩篇の理由
「幼年・少年少女詩篇」には
あとがきがあるものとないものがあります。
幼年や少年少女向け詩集として初の
「明日(あした)のりんご」(1973年)をはじめ
「野のまつり」(1978 年)
「ヤァ! ヤナギの木」(1985年)
「いっしょけんめい」(1985年)までの4作にあとがきがあるのは
いろいろな理由があることでしょう。
あとがきには
その理由を詩人自ら記しているくだりがありますから
それらに目を通してみます。
「明日(あした)のりんご」には――。
◇
ここ数年のあいだ私は、まだ成人にはちょっと間のある、若い世代のひとびとの詩を、書きつづけてきました。なぜか。お答えはきわめて単純です。
いろいろなものの<いのち>を生き、<こころ>をことばで言いあらわすことが、好きだからです。
植物や、動物や、あらゆるひとびと、ときには星や、コップや、折れ釘にも変身して、それぞれが持っている固有の<こころ>をうたうことが、私の夢なのです。
――とあります。
(※わかりやすくするために、改行を加えてあります。以下同。ブログ編者。)
◇
これは、あとがきの書き出しの部分ですが
これだけで人を鷲掴(づか)みにしてしまう
ズバリ真芯(ましん)への直球みたいな
的確な言葉使いが胸の底に落ちていきます。
あらゆるモノのいのちとこころを
言葉で言い表すのが詩(の夢)であるはずだから
植物、動物、いろんな人、星やコップや、折れ釘……に
変身する。
それらのこころを歌うこと。
1973年刊行の
少年少女詩集の
これが大きな理由でした。
◇
2冊目の少年少女詩集「野のまつり」のあとがきは
「明日のりんご」のあとがきをていねいに補足します。
◇
何年か前、ある文章のなかでわたくしは、つぎのように書きました。
「年齢を超(こ)え、性別を超えるには、ある日13歳の少年を生きる。またある日、馬を生きる。薔薇(ばら)を生きる。歩道橋を、張られた帆布(ほぬの)を、寺院を、ポプラを、水道の蛇口(じゃぐち)を生きる。あらゆるものになりきってみたい。七たび生れかわって、などという気の長い執念ではなくて、すべてのものと、無邪気に、同時に、クロスしてみたいのだ」
◇
これも書き出しですが
モノになりきってしまうこと、
つまりは、そのものを生きることを
さらに具体的に、詳しく述べます。
そして、幼年・少年少女詩篇というものが
子どもの「ために」とか
少年少女の「ために」とかという立派な考えで、
いはば、上から目線で教訓を垂れるというものではないことが
念押しされます。
ある日わたくしは少年だった
ある日わたくしは少女だった
ある日わたくしはそよ風だった
――というようになりきる、と。
◇
「ヤァ! ヤナギの木」のあとがきも
「ほかのものになり代って詩を書くこと」について記されます。
「いっしょけんめい」のあとがきにも
世俗的な欲望や、手垢にまみれた概念に、まだ侵されていない子供たちには、木も小鳥も水も、この世のすべてが心をひらいて、じつにいきいきと、本来のすがたを見せてくれるように、思えるからです。
――と幼いひと自身になって詩を書くことが好きな理由が述べられます。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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