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中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

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2017年1月

2017年1月30日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評・その2

 

間然とするところなし

――というのが

三好達治の最高の賛辞なのだとすれば

中原中也の詩の幾つかに見られる

破調、破格あるいは乱調までを含めた詩篇が

よい評価を受けることはあり得ないことでしょう。

 

中也詩のなかでも傑作の一つに違いのない「正午」は、

 

哀傷の詩魂が内に高まり顫動して、

外には温雅な詩語の美衣をまとった作風

――であるという理由で

「老いたる者をして」が非の打ちどころがないのに比べれば

劣っていると三好は考えました。

 

 

二つ(四つ)の詩を比較したのかどうか。

 

その点は断じることができませんが

この批評文の構成(流れ)から見て

やはり、比較して後の評価であると言うことはできるようです。

 

 

四つの詩の個々の鑑賞に入る前の

この批評文の書き出しには

すでに総論(詩人論)が置かれてあり

各論(四つの詩の鑑賞)は

それ自体が独立した形になっているとはいえ

この書き出しの流れの中にあります。

 

このフレーム(枠)の中で

各論は書かれています。

 

前後しましたが

総論の部分を読みましょう。

 

 

詩集「在りし日の歌」の紹介と

中原中也の詩風に就いて私見を述べるという前置きに続いて

本論に入ります。

 

本論は大きく前半と後半に分けることができます。

 

前半の冒頭では

ダダイストとして出発した中原中也の作品は

最後までダダイストの魂魄(こんぱく)に支配されたことが

結論的に指摘され

その理由が説明されます。

 

 

それ(=ダダイストの魂)は意識的であり

半ば無意識的であった。

 

中原式とも言えるもので

音数上の特異な調子ひとつを見ても

調子は意識と無意識が半分半分で

不意に中断されたり攪乱されたり

ついには壊されてしまう。

 

詩語の調子でしか詩想を繰り広げられなかった詩人が

どのような目的があって

こうした自己矛盾する破壊作業を作品の所々に仕掛けたのか。

 

作詞上の巧拙の問題ではなさそうだ。

 

そこに詩人の意図があったのだろうが

その意図は(私に)見えない。

 

言ってみれば

それは、中原中也という詩人が

全く孤独の世界に住んでいたからだろう。

 

 

詩の調子についてのこのような疑問は

詩語、そのうちの形容詞(の使い方)にも感じられるから

それは各論の中で言及しよう。

 

 

――というのが、総論の前半で述べられていることのあらましです。

 

詩語の調子を重んじた詩人が

破調を度々使うのを認めることはできない、

いまだにダダイズムを抜け切れていない

――と言いつづめることができるでしょう。

 

 

ここまでが

総論の前半部です。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

2017年1月29日 (日)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「老いたる者をして」/三好達治の否定と肯定・その4

 

「正午」批評の3番目のセンテンス(文)は

次の「老いたる者をして」の批評の導入部の副詞句に組み込まれます。

 

「かくも主題の露骨なるものよりも」と「正午」よりは

これから読む「老いたる者をして」のほうが好ましいことを述べるのです。

 

 

老いたる者をして

    ――「空しき秋」第十二――

 

老(お)いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ

そは彼等(かれら)こころゆくまで悔(く)いんためなり

 

吾(われ)は悔いんことを欲(ほっ)す

こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂(たま)を休むればなり

 

ああ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ

父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

 

東明(しののめ)の空の如(ごと)く丘々をわたりゆく夕べの風の如く

はたなびく小旗(こばた)の如く涕かんかな

 

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入(い)り、野末(のずえ)にひびき

海の上(へ)の風にまじりてとことわに過ぎゆく如く……

 

   反 歌

 

ああ 吾等怯懦(われらきょうだ)のために長き間(あいだ)、いとも長き間

徒(あだ)なることにかからいて、涕くことを忘れいたりしよ、げに忘れいたりしよ……

 

〔空しき秋二十数篇は散佚(さんいつ)して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕

 

 (「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。原文の「はたなびく」の傍点は で替えました。編者。)

 

 

哀傷の詩魂が内に高まり顫動して、

外には温雅な詩語の美衣をまとつた作風を最も喜ぶ

――と「老いたる者をして」に高得点をつけます。

 

「老いたる者をして」はよく知られるように

北沢時代の若き中也が

懐(ふところ)に入れて持ち歩き

友人知人に読ませたりしているうちに紛失してしまった20篇近くの連作詩の

一つだけ残った1篇です。

 

三好達治は

中也が紛失してしまった多くの詩篇のことを思い

中也にとってこの上もなく遺憾なことという感想を加えます。

 

取り上げた4篇の詩の中で

もっとも高く評価したのが

この「老いたる者をして」でした。

 

間然とするところのない出来栄えである

――と1行、断言して批評の結語とします。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

2017年1月28日 (土)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「正午」/三好達治の否定と肯定・その3

 

3番目に三好達治が読むのは

「在りし日の歌」最終詩の二つ手前に配置された「正午」です。

 

 

正 午

       丸ビル風景

  

ああ12時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取(げっきゅうとり)の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口

空はひろびろ薄曇(うすぐも)り、薄曇り、埃(ほこ)りも少々立っている

ひょんな眼付(めつき)で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

ああ12時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かな、洋数字に変えました。編者。)

 

 

いったい、三好達治は

ほめているのか、けなしているのか

よくわからないところがあるのですが

何度も何度もじっくり読んでいると

言わんとしていることが見えてくるのは

文体のせいでもあるようです。

 

そういう文体なのです。

 

一つの文(センテンス)が長いのは

「源氏物語」以来(?)の伝統の一方の峰(みね)ですから

そういう文体に慣れれば

それほど苦になりません。

 

根気よく読んでいきましょう。

 

「正午」については

三つのセンテンスで作品を読んでいます。

 

最後の一つは

次の「老いたる者をして」の読みの中にわずかに触れられるものですから

二つのセンテンスを読めば済みますし

この二つのうち、一つ目は単文構造ですから

意味明瞭です。

 

一つ目は次のような文です。

 

 

中原君の作品に一貫して繰かへされる絶望的な虚無感、居ても立ってもゐられない虚無的な哀傷感は、この作品などに最も露骨に現れてゐる。
 
(筑摩書房「三好達治全集」第5巻より。)

 

 

中也作品に一貫している虚無感、虚無的な哀傷感(=主語)が

この作品「正午」には露骨に現われている(=述語)

――という読みは

「正午」の核心をズバリ突いていて

寸分の狂いもないと言えるでしょうが

ここに「露骨に」という副詞が

次のセンテンスへの導きになっています。

 

三好は

露骨であることの過剰さみたいなことを

一つ目の文の中に匂わせているのです。

 

そして、次の文が続きます。

 

 

それは、一種諧謔的な手法で歌われてゐるかのやうに見うけられるが、常に彼の場合には、実はそれが大真面目の真骨頂以外のものでないのは、たとへば、最後の1行「空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな」の結語の余韻によって明であらう。

 

(同上書。)
 

 

それは=虚無的な哀傷感が露骨に現れていること

――を主語と取れば

述語は、「明であらう」です。

 

最後の1行「空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな」が放つ余韻が

それを明らかにしている

――と説明します。
 

 

この余韻が露骨であると

三好達治は感じたのでしょう。

 

それを、次に取り上げる「老いたる者をして」に触れる三つ目の文で
「かくも主題の露骨なるもの」と
明記していますし
二つ目の文でも

諧謔的な手法のようで(そうではなく)

実は大真面目の真骨頂、と述べているのです。

 

その感じ方に

鋭さがあり正確さがありますが。

 

 

「正午」という詩の魅力は

こういう感じ方、こういう読みで

損なわれるものではありません、よね。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月27日 (金)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「湖上」/三好達治の否定と肯定・その2

 

 

詩集「在りし日の歌」の紹介をかねて

中原中也の詩風についての私見を述べる

――という意図で書かれた「詩集『在りし日の歌』」(文学界1938年9月号)で

三好達治が2番目に読むのは「湖上」です。

 

 

湖 上

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けましょう。

波はヒタヒタ打つでしょう、

風も少しはあるでしょう。

 

沖に出たらば暗いでしょう、

櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音(ね)は

昵懇(ちか)しいものに聞こえましょう、

――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

 

月は聴き耳立てるでしょう、

すこしは降りても来るでしょう、

われら接唇(くちづけ)する時に

月は頭上にあるでしょう。

 

あなたはなおも、語るでしょう、

よしないことや拗言(すねごと)や、

洩(も)らさず私は聴くでしょう、

――けれど漕(こ)ぐ手はやめないで。

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けましょう、

波はヒタヒタ打つでしょう、

風も少しはあるでしょう。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この「湖上」については

わずかな感想をしか記しません。

 

それも、肯定の評価です。

 

評価というより

好きだ、と言っているだけのようです。

 

三好の言葉をそのまま引いておきます。

 

 

処々に稚拙なくだりは見つかるにしても、私はこのやうな作品を、彼の作品中でも特に愛誦するものである。

 

 

ここでは

稚拙な詩句(くだり)はあるにしても

口ずさんでみて楽しい、というほどの気持ちを述べて

作品論には踏み込みません。

 

安心して読んでいられる範囲である、というような

ニュアンスが感じられますが

愛誦されるというのは

詩にとって最高の賛辞であるとも言えますし
ここにイロニーは含まれていないのかもしれません。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

2017年1月26日 (木)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「六月の雨」/三好達治の否定と肯定

 

 

三好達治が「詩集『在りし日の歌』」で取り上げる詩は

六月の雨

湖上

正午

老いたる者をして――「空しき秋」第十二――

――の4作品。

 

その詩一つ一つの鑑賞に入る前に

中也作品への総論、詩人論が

否定的な論調の中に展開され

各個の詩は

この総論(詩論・詩人論)の実例として引き出されます。

 

個々の詩への批評は

この総論の中に囲われていくことになりますが

他愛のない、取るに足りないことばかりなのに

三好達治は

その他愛のないことを針小棒大にあげつらいます。

 

詩の調子の乱調とか破調とかの破壊、

同じように、使う詩語、形容詞の破壊について

それが中原中也が意図したものであっても

受け入れられないことを表明します。

 

まるで測量士ででもあるかのように

微細な誤差をも許容しません。

 

 

六月の雨

 

またひとしきり 午前の雨が

菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ

眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)

たちあらわれて 消えてゆく

 

たちあらわれて 消えゆけば

うれいに沈み しとしとと

畠(はたけ)の上に 落ちている

はてしもしれず 落ちている

 

       お太鼓(たいこ)叩(たた)いて 笛吹いて

       あどけない子が 日曜日

       畳の上で 遊びます

 

       お太鼓叩いて 笛吹いて

       遊んでいれば 雨が降る

       櫺子(れんじ)の外に 雨が降る

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩は1936年(昭和11年)7月号の「文学界」誌上で発表になった

第6回文学界賞で選外1席となった作品として有名です。

 

岡本かの子の「鶴は病みき」が受賞し

中也の作品は2位でした。

 

 

この詩単体について

三好達治の指摘するところは

簡単明瞭ですし

むしろ肯定的な評価です。

 

この詩が発表された時には

いまだにこのようにナイーブな作品を書けている詩人の心情を羨ましく感じたし

この詩にはある時期のベルレーヌの作風に通じるものがあると看取したものが

継続されればよいと期待していたものが

今では空しくなった、と述べるのです。

 

そう言いながら

第1連第3行、

眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)

――を、一種奇妙な調子外れ、と評し

第2行、

菖蒲(しょうぶ)のいろの

――を、菖蒲の色は何も特別ないろではない、という理由で

形容詞の使い方が不可解であることを述べるのですが

それだけのことです。

 

それだけのことが

三好達治には気に入らなかったのですが

それだけのことです。

 

よく読めば

菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ

――と中也は歌っているのを理解しないだけです。
 

 

そのように詩語の使い方の不可解さを指摘しただけですが

第3連の、

畳の上で 遊びます

――を、

この作者ならではの、詩眼の特異さが仄見え

何の巧みを弄したわけでもないのに

不思議に切実な実感がある、と褒め上げています。

 

 

「六月の雨」は

眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)

――と

菖蒲(しょうぶ)のいろの

――とによって

三好達治にNGを出されるのですが

結語としては高評価が下されているということになり

これも意外な感じであり驚きです。

 

 

些細(ささい)と思われるようなところを

三好達治は執拗(しつよう)に過大に言う傾向があるようですが

それがスタイルでした。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評

 

「文学界」1938年(昭和13年)9月号に載せた

三好達治の「詩集『在りし日の歌』」は

A5版9ページにおよぶやや本格的な批評文です。

 

小林秀雄が「文学界」の編集責任者のポストにありましたし

三好達治と仲のよかった河上徹太郎も編集の一員のはずでしたから

中原中也没後すぐに出された「文学界」の追悼号に書けなかった三好に

あらためて書き下しを依頼したものでしょう。

 

中也死去から「文学界」追悼号発行の間

三好達治は雑誌「改造」の仕事で

上海に滞在中でした。

 

冒頭で、そのあたりの事情とともに

中也との生前の交渉が述べられます。

 

 

昨年11月詩友中原中也君は忽然として急逝した。たまたま私は上海方面に旅行中だつたので、彼の病の革つたのも彼の逝去したのも全く知らずにゐた。12月になつて私は東京に帰つてきたが、つひに機会を失して今日まで私は彼のために一篇の追悼文も書かずにゐる。

 

さういふせいでもあらう、私には彼がこの世を去つたことが、どうにもぴつたりとした実感として認め難い。拙宅の廊下の隅には、彼に進呈する約束のステッキが1本残つてゐる。そのうちに気紛れな彼が、それを受取りにひよつくり訪ねてきさうな気持ちさへするのである。
 
(筑摩書房「三好達治全集」第5巻より。)

 

 

中也の日記にも三好を訪問したが外出中だったことなどが書かれていますから

会合の席などで言葉を交わすほかに

個人的な接触も二人の間にあったことがわかって

意外な感じがします。

 

小林秀雄や河上徹太郎らの交友圏に

中也は少しづつ進出していたからでしょうか。

 

足が不自由な中也を知っているのですから

鎌倉時代か、

頻繁に上京してはいませんから

新宿・谷町に住んでいたころの付き合いでしょうか。

 

 

私的な関係が批評文の冒頭に明かされるというのは

これが追悼文であったせいでしょうが

詩の鑑賞になると

三好の筆先は険しく硬くなります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月25日 (水)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「夏の夜に覚めて見た夢」/三好達治の否定・その2

 

「夏の夜に覚めて見た夢」は「四季」1935年(昭和10年)10月号に発表されましたが

三好達治が、帝国大学新聞1938年(昭和13年)5月23日号に載せた批評は

ボロクソの酷評でした。

 

「ぶつくさ」の題で掲載された

その一部を読みましょう。

 

 

こんな風のレアリズムを、主観のとぼけた対象への捕はれ方を、私はやはり非詩として、根こそぎの否定を以て否定しないではゐられない。

 

「在りし日の歌」の著者は、その異常な体質と、その異常に執拗な探究力とで、まことに奇異な詩的世界まで踏みこんだ詩人だつたが、彼にはつひに最後まで、極めて初歩的な認識不足――外部からは窺知しがたい宿命的な、それが彼の長所でもあつた不思議に執拗な独断に根ざした、その認識不足からつひに救はれずに終つたやうである。

 

(筑摩書房「三好達三全集」第4巻より。読みやすくするために、改行を加えてあります。編者。)

 

 

「夏の夜に目覚めて見た夢」が

このようなレアリズムで書かれ

(そのレアリズムは)

主観的であるだけの(一辺倒の)とぼけた(眼差し)の

対象への捕われ方は(およそレアリズムとは言えないし)

(そうならば)詩ではない、非詩であり

(私はこのような詩を)根こそぎ否定する

否定しないではいられない

――というような意味でしょうか。

 

三好達治の文章は

時に長文に及ぶことがあり

主述が見極めがたくなったり

主副の優劣関係が不明だったり

副詞句の中に本意が述べられていたりするので

パラフレーズすることは難しく

危険でもありますが

わかりやすくするためにこのように読んでみました。

 

次に続く文章はやや長文ですけれど

副詞句は主述を説明していて意味は明瞭です。

 

「在りし日の歌」の著者は=主

つひに救はれずに終つたやうである。=述

――という構文の中に

長い副詞句が挟められても

その副詞句は述部を詳しく説明しているに過ぎません。

 

 

その異常な体質

その異常に執拗な探究力

まことに奇異な詩的世界まで踏みこんだ詩人

最後まで、極めて初歩的な認識不足

それは外部からは窺知しがたい宿命的な、

それは彼の長所でもあつた

不思議に執拗な独断に根ざした

その認識不足

――が説明しているのは

認識不足という一事です。

 

一点だけ

長所とされているところがあり

ここは読み過ごせないところですが。

その異常な体質

その異常に執拗な探究力

まことに奇異な詩的世界

――というところも高評価と言えなくはなさそうですが

全体が否定の中に閉ざされます。

 

 

三好達治は「夏の夜に覚めて見た夢」の詩(人)を

認識不足の詩(人)

――と読んでいるのです。

 

だから、これは詩ではない、非詩である

根こそぎ否定せざるを得ない

――というのです。

 

 

これでは中也は救いようがありません。

夏の夜に目覚めて

その日の昼に見た(ラジオで聞いたか?)野球試合のシーンがよみがえるのですが

ゲームの終わった球場の怖いほどの静寂。

 

周辺のポプラの並木は青々として風にひるがえり

蝉しぐれはいっこうに止まない。

 

生命の饗宴(狂騒)はいつもながらで

やれやれという心は

リアルに生じるならいでしたが

その映像を夜の夜中に見たのでした。

 

 

……。

 

 

だが待てよ。

 

三好達治は

何か理解できないものの出現に驚き

ある種の怖れを抱いたのではあるまいか。

 

それを否定するために

根こそぎ否定しなければならなくなったのではないか。

――などと、善意に解釈することもできるかな、なんて思ってみますが。

 

やっぱり、「測量船」の詩人ですから

測らなければ済まない詩人だったのですから

少しでも計算できないものがあると

もはや計算不能として退けるしかなかったのか、なんて思い直します。

 

 

帝国大学新聞での発言は

中原中也没後のことですから

中也自身はこれを読んでいません。

 

同じく中也が生前手にすることのなかった

第2詩集「在りし日の歌」は丁度この頃発行されました。
(4月発行、6月再刊。)

 

三好達治は

「ぶつくさ」よりもずっとずっと丁寧な「在りし日の歌」の批評を

1938年(昭和13年)9月号「文学界」に寄せます。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

 

 

2017年1月23日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「夏の夜に覚めて見た夢」/三好達治の否定

 

中原中也の日記に

三好達治が現われるのは

1936年(昭和11年)7月19日と

翌々日の7月21日との2回だけのようです。

 

 

7月19日

 

(略)

雑誌の編輯者どもが、ひどく俺を理解したような顔をする。そして、三好達治は無論俺より偉いとして、その上で俺をほめながら、俺によっぽど御利益でも与えたようなつもりになる。

(略)

 

 

7月21日

 

(略)

山本書店に行く。堀口大学を訪ねる、留守。山内義雄に会って山本書店の言付を伝える。三好達治の所へ寄る。一寸散歩に出ている、じきに帰るとのことであったがすぐに帰る。

(略)

 

(以上、「新編中原中也全集」第5巻・日記・書簡本文篇より。新かなに変えました。編者。)

 

 

これだけのことでは、なんのことか、なんにもわかりませんが、

記すことが詩人には必要であったことは確かなはずです。

 

中也は早くから「四季」を発表の場にしていたのでしたし

1935年年12月には同人入りし

毎号のように盛んに詩などを発表していましたし

三好達治は

季刊「四季」以来、編集中枢にあった先輩でした。

 

「俺より偉いとして」というのは

詩人としても

詩誌「四季」の創刊メンバーであることからしても

先輩である三好を

「世間(編輯者)が偉い(格上だ)と見なすのは当然だとして」というニュアンスでしょうか。

 

このころ付き合いのあった編集者への不満を述べた中に

三好達治が引き合いにされたのですが

引き合いになった具体的な理由はわかりません。

 

 

7月21日には

三好達治本人を訪問して会えなかったのですが

訪問するというのは

やはり「四季」のよしみということになるでしょう。

 

 

不発に終わったこの訪問よりおよそ2年前の

1935年(昭和10年)10月号「四季」に

中也は「夏の夜に覚めて見た夢」を発表しています。

 

 

夏の夜に覚めてみた夢

 

眠ろうとして目をば閉じると

真ッ暗なグランドの上に

その日昼みた野球のナインの

ユニホームばかりほのかに白く――

 

ナインは各々(おのおの)守備位置にあり

狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず

お調子者のセカンドは

相も変らぬお調子ぶりの

 

扨(さて)、待っているヒットは出なく

やれやれと思っていると

ナインも打者も悉(ことごと)く消え

人ッ子一人いはしないグランドは

 

忽(たちま)ち暑い真昼(ひる)のグランド

グランド繞(めぐ)るポプラ竝木(なみき)は

蒼々(あおあお)として葉をひるがえし

ひときわつづく蝉しぐれ

やれやれと思っているうち……眠(ね)た

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

第2連、

狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず

お調子者のセカンドは

――のこの2行を書く詩人の眼の

世間一般の人が感じていても口には出さないであろう

大胆さが光る詩です、よね。

 

口語的感性というか。

 

ゲームは

いつしか終わり

人っこ一人いない球場の静寂を

蝉しぐれが助長します。

 

やれやれ、は

倦怠のさみしさやむなしさや……。

 

ことによれば

自分への励ましをさえ含んでいるような。
 
夜の夢であるところの仕掛けも

わざとらしくないし。

 

起伏の大きい

口語自由詩の試みであるというのに。

 

 

この詩「夏の夜に覚めて見た夢」を

中也の死後に

三好達治が全面的に否定します。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月22日 (日)

中原中也が「四季」に寄せた詩・一覧

 

 

ここで、中原中也が「四季」に寄せた作品を

一覧しておきましょう。

 

季刊「四季」は

第2号である夏号で終わり

翌年に第2次「四季」がスタートします。
 
中也は季刊第2号に初めて発表し

亡くなるまで詩や翻訳や評論などを寄せました。

 

 

【1933年】

1933年(昭和8年)7月号、季刊第2冊 

少年時、帰郷、逝く夏の歌

 

【1934年】

1934年(昭和9年)10月号、月刊創刊号

みちこ 

 

【1935年】

1935年(昭和10年)1月号、第3号

秋のー日

 

1935年(昭和10年)2月号、第4号

近時詩壇寸感

 

1935年(昭和10年)3月号、第5号

むなしさ

 

1935年(昭和10年)年4月号、第6号

我がヂレンマ

翻訳 烏、オフェリア (ランボー)

 

1935年(昭和10年)7月号、第9号

倦怠

 

1935年(昭和10年)10月号、第11号 

夏の夜に覚めて見た夢

 

1935年(昭和10年)11月号、第12号

詩人は辛い

 

1935年(昭和10年)12月号、第13号

青い瞳 

 

【1936年】

1936年(昭和11年)1月号、第14号

除夜の鐘

 

1936年(昭和11年)2月号、第15号

冷たい夜

 

1936年(昭和11年)春季号、第16号 

翻訳 神は、私の生れる時……(シャルル・リード)

 

1936年(昭和11年)5月号、第17号 

雪の賦

 

1936年(昭和11年)6月号、第18号

独身者

 

1936年(昭和11年)7月号、第19号

わが半生

 

1936年(昭和11年)初秋号、第20号

夜更の雨、幼獣の歌

 

1936年(昭和11年)11月号、第22号

ゆきてかへらぬ

 

【1937年】

1937年(昭和12年)2月号、第24号

散文詩 四篇(郵便局、幻想、かなしみ、北沢風景)

 

1937年(昭和12年)3月号、第25号

或る夜の幻想

 

1937年(昭和12年)6月号、第27号

雨の朝

 

1937年(昭和12年)7月号、第28号

蛙声

 

1937年(昭和12年)8月号、第29号

翻訳 デポルドーワ゛ルモオル 

批評 詩集「浚渫船」 

 

1937年(昭和12年)10月号、第30号

初夏の夜に

 

1937年(昭和12年)11月号、第31号(※中原中也没後の発行です)

追悼文 逝ける辻野君 

翻訳 ワ゛ルモオル詩抄(第1回)

 

(「新編中原中也全集」別巻<上>写真・図版篇所収「中原中也年譜」より抜粋。)

 

 

この間、長男文也が1936年11月10日に死去。

詩人本人が1937年10月22日に死去しました。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

2017年1月20日 (金)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「倦怠」/朔太郎の評価

 

少し遡(さかのぼ)りますが

1935年(昭和10年)7月号「四季」に寄せたのが

「倦怠」です。

 

この倦怠は

「朝の歌」の「倦(う)んじてし 人のこころを」や

「汚れっちまった悲しみに……」に現われる倦怠(=けだい)などと

同じ流れにある感情といってよいものでしょうが

この詩に敏感に反応したのは

萩原朔太郎でした。

 

 

倦 怠

 

倦怠の谷間に落つる

この真ッ白い光は、

私の心を悲しませ、

私の心を苦しくする。

 

真ッ白い光は、沢山の

倦怠の呟(つぶや)きを掻消(かきけ)してしまい、

倦怠は、やがて憎怨となる

かの無言なる惨(いた)ましき憎怨………

 

忽(たちま)ちにそれは心を石と化し

人はただ寝転ぶより仕方もないのだ

同時に、果(はた)されずに過ぎる義務の数々を

悔いながらにかぞえなければならないのだ。

 

はては世の中が偶然ばかりとみえてきて、

人はただ、絶えず慄(ふる)える、木(こ)の葉のように

午睡から覚めたばかりのように

呆然(ぼうぜん)たる意識の裡(うち)に、眼(まなこ)光らせ死んでゆくのだ

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

萩原朔太郎は

1935年(昭和10年)「四季」夏号(8、9月合併号)の「詩壇時感」で

「四季の詩について」と題した批評文を書きます。

 

「倦怠」発表の次号に寄せられたものですから

時評みたいなものです。

 

その一部を読みましょう。

 

 

中原中也君の詩は、前に寄贈された詩集で拝見して居た。その詩集の中では、巻尾の方に収められた感想詩体のものが、僕にとつて最も興味深く感じられた。

 

(中略)

 

しかし今度の「倦怠」はこれとちがひ、相当技巧的にも凝った作品だが、前の詩集(山羊の歌)とは大に変つて、非常に緊張した表現であり、この詩人の所有する本質性がよく現れて居る。特に第三聯の「人はただ寝転ぶより仕方がないのだ。同時に、果されずに過ぎる義務の数々を、悔いながら数へなければならないのだ。」の三行がよく抒情的な美しい効果をあげてる。

 

(「新編中原中也全集)第1巻・詩Ⅰ解題篇より。改行を加えました。編者。)

 

 

朔太郎は「倦怠」を

技巧的にも凝った作品

前の詩集「山羊の歌」とは変わった

非常に緊張した表現

この詩人の所有する本質性が現われている

――とした上で、

第3連の3行を

抒情的な美しい効果

――と評しました。

 

人はただ寝転ぶより仕方がない

――にはじまる、この3行は

お行儀のよいのばかりが目立つ「四季」の詩を

飽き足らなく感じていた先輩詩人の本音に響いたことでしょう、きっと。

 

 

中也没後の1938年6月号「四季」は

「『山羊の歌』『在りし日の歌』に就いて――現代詩集研究Ⅲ」という小特集を組みますが

中で立原道造は「別離」を書き

中也の「倦怠の完成」と「僕らの親近の終り」の

逆説的な瞬間(出会いと別離)について述べます。

 

倦怠(けだい)は

朔太郎を通じて

立原道造へ反響してゆきました。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

2017年1月19日 (木)

中原中也が「四季」に寄せた詩/堀辰雄の注文

 

1937年(昭和12年)2月11日付けで

堀辰雄が神保光太郎に宛てた書簡があります。

 

この中の記述は

「四季」編集への堀辰雄の注文が言及されていて

非常に貴重な証言ですから

一部を読んでおきます。

 

 

(前略)

「四季」2月号、いま読んだ こんどの号はなかなか読みでがあつて愉しかつた 君の骨折りを感謝したい

 

(中略)猶、こんどの号を読んでいろいろ考へてみたが、大体僕がやつてみてこれと同じになるだらうと思へるところまで出来てゐると思ふ、

 

〇巻頭の萩原さんのやうな対外的な論文(詩的精神を高揚した)は今後も是非欲しい 但、萩原さんばかりに任せておかないで、君も書いてほしいし、又、保田君あたりに書いて貰つてはどうか、河上徹太郎君なども三好君から頼めばきつと書いてくれるきつと力になつてくれる人だと思ふ、

 

〇中原君がこんど出したように、四、五篇堂々と発表するしかた、大いにわが意を得たものだ、毎月、誰かが代り番こにでも、こうやつて四、五篇纏めてか、或は堂々と長編を発表して欲しい、(それは今度のやうに、誰の詩でも巻頭論文の次ぐらいのところに掲載してほしい)これは同人でなくともいいだらう、先輩のでも、又、新人のでも。

(後略)

 

(「新編中原中也全集」別巻<下>資料・研究篇より。歴史的仮名遣いはそのままとし、改行・行あきを加えました。編者。)

 

 

言及されているのは「四季」1937年2月号ですから

中原中也が「散文詩四篇」を、

翌3月号に「或る夜の幻想」を発表し

どちらも読みごたえのある

意欲作が続いていました。

 

立原道造は

前年1936年10月号に

「甘たるく感傷的な歌」「逝く昼の歌」の2篇

11月号に「わかれる昼に」と「のちのおもひに」の2篇

(後に第1詩集「萱草に寄す」第1部「SONATINE No1」へ収録)

休刊した12月号をはさんで

1月号には3篇連作の詩「SONATINE」を発表します。

 

「Ⅰ 虹とひとと」「Ⅱ 夏の弔ひ」「Ⅲ 忘れてしまつて」のこの3篇は

後に「Sonatine No.」として第1詩集「萱草に寄す」に収録される

いわば自信作でした。

 

2月号は「鳥啼く夕べに詠める歌」1篇でしたが

この間、2篇3篇同時発表を続けていて

中也に並ぶような、意欲的な姿勢です。
(同人ですから、当たり前ですが。)

 

神保光太郎はこの頃の編集担当でしたから

堀のこの書簡の内容は

神保を通じて立原道造にも伝わった可能性は高いし

この書簡以前に

堀は同じようなことを立原に直接話していた可能性もあります。

 

 

では、堀辰雄の意向(注文)は

中原中也に伝えられたかどうか。

 

「四季の会」への参加を拒否する気持ちを

日記に記した中也でしたが

編集の方向に関する堀辰雄の意向には

反対するものではなかった流れが

以上のように「四季」誌上に見られました。

 

もとより中也は

季刊時代の「四季」第2冊(昭和8年7月号)に

「少年時」、「帰郷」、「逝く夏の歌」を打ち込んでいます。

 

早い時期に中也は

堀辰雄の言うように

「堂々と発表」していたのでした。

 

 

このことを、交流、交感あるいは交響と

呼ばない理由はないでしょう。

 

創作上の(魂の)キャッチボールは

ある時期、ある瞬間に

グローブの強い音がするほどに

行われていました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月18日 (水)

中原中也が「四季」に寄せた詩/連作詩を構成する「或る男の肖像」

 

「或る男の肖像」も

「村の時計」がそうだったように

「或る夜の幻想」の構成詩である第4、5、6節をまとめて

一つの詩にしたものです。

 

「四季」1937年(昭和12年)3月号に初出し

「在りし日の歌」の「永訣の秋」に収録されました。

 

 

或る男の肖像

 

    1

 

洋行(ようこう)帰(がえ)りのその洒落者(しゃれもの)は、

齢をとっても髪に緑の油をつけてた。

 

夜毎(よごと)喫茶店にあらわれて、

其処(そこ)の主人と話している様はあわれげであった。

 

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

 

   2

       ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

  

髪毛の艶(つや)と、ランプの金との夕まぐれ

庭に向って、開け放たれた戸口から、

彼は戸外(そと)に出て行った。

 

剃(そ)りたての、頚条(うなじ)も手頸(てくび)も

どこもかしこもそわそわと、

寒かった。

 

開け放たれた戸口から

悔恨(かいこん)は、風と一緒に容赦(ようしゃ)なく

吹込(ふきこ)んでいた。

 

読書も、しんみりした恋も、

あたたかいお茶も黄昏の空とともに

風とともにもう其処にはなかった。

 

   3

 

彼女は

壁の中へ這入(はい)ってしまった。

それで彼は独り、

部屋で卓子(テーブル)を拭(ふ)いていた。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

ここに掲載したのは

「在りし日の歌」の「或る男の肖像」ですが

「四季」初出のものとの異同は

ほとんどありません。

 

「四季」では

4、5、6の番号をつけて

「或る夜の幻想」の構成節としました。

 

各節とも

番号の後にタイトルがつけてありました。

 

 

原詩「或る夜の幻想」は

この3節のほかに「村の時計」が第2節

さらに第1節の「彼女の部屋」と第3節「彼女」があり

合計6節の長い詩でした。

 

「四季」初出の「或る夜の幻想」に目を通せば

ビフォー&アフターがはっきり見えます

 

 

或る夜の幻想

 

1 彼女の部屋

 

彼女には

美しい洋服箪笥があった

その箪笥は

かわたれどきの色をしていた

 

彼女には

書物や

其の他色々のものもあった

が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので

彼女の部屋には箪笥だけがあった

 

   それで洋服箪笥の中は

   本でいっぱいだった

 

   2 村の時計

 

村の大きな時計は、

ひねもす働いていた

 

その字板(じいた)のペンキは、

もう艶(つや)が消えていた

 

近寄って見ると、

小さなひびが沢山にあるのだった

 

それで夕陽が当ってさえか、

おとなしい色をしていた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴った

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか、

僕にも、誰にも分らなかった

 

   3 彼女

 

野原の一隅には杉林があった。

なかの一本がわけても聳えていた。

 

或る日彼女はそれにのぼった。

下りて来るのは大変なことだった。

 

それでも彼女は、媚態を棄てなかった。

一つ一つの挙動は、まことにみごとなうねりであった。

 

   夢の中で、彼女の臍(おへそ)は、

   背中にあった。

 

4 或る男の肖像

 

洋行帰りのその洒落者は、

齢(とし)をとっても髪に緑のポマードをつけていた。

 

夜毎喫茶店にあらわれて、

其処の主人と話している様(さま)はあわれげであった。

 

死んだと聞いては、

いっそうあわれであった。

 

   5 無題

     ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

  

髪毛(かみげ)の艶(つや)と、ランプの金(きん)との夕まぐれ、

庭に向って、開け放たれた戸口から、

彼は戸外に出て行った。

 

剃(そ)りたての、頚条(うなじ)も手頸(てくび)も、

どこもかしこもそわそわと、

寒かった。

 

開け放たれた戸口から

悔恨は、風と一緒に容赦なく

吹込んでいた。

 

読書も、しんみりした恋も、

暖かい、お茶も黄昏の空とともに

風とともにもう其処にはなかった。

 

   6 壁

 

彼女は

壁の中へ這入ってしまった

それで彼は独り、

部屋で卓子(テーブル)を拭いていた。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ解題篇より。新かなに変えました。編者。)

 


 

第1連の「緑の油」が「緑のポマード」と変えられているのが

大きな変更です。

 
これは、第5連の、
髪毛(かみげ)の艶(つや)と、ランプの金(きん)との夕まぐれ、
――の効果を高めるための修正でしょう。

 

 
「四季」に

このような大作が載ることは

よくあることだったのでしょうか?

 

多分、珍しいことでした。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

2017年1月17日 (火)

中原中也が「四季」に寄せた詩/連作詩を構成する「村の時計」

 

「ゆきてかへらぬ」を「未定稿」として発表して後に

本格的な散文詩4篇を寄せるのは

3か月後の「四季」1937年(昭和12年)2月号誌上でした。

 

「在りし日の歌」には

結局、「四季」発表の「散文詩四篇」は収録されず

「ゆきてかえらぬ」以外に散文詩は収録されなかったのですが

これは散文詩の可能性を捨てたものではなかったらしい。

 

このころ、「郵便局」などの散文詩の試みに並行して

「月の光 その一」「その二」など

短詩の連作構成の詩が試みられたりしていて

詩人は「在りし日の歌」以後を見据えた詩作を積み上げはじめた様子です。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ。)

 

「村の時計」や「或る男の肖像」は

連作構成の詩の元(原)詩であった例です。

 

 

村の時計

 

村の大きな時計は、

ひねもす動いていた

 

その字板(じいた)のペンキは

もう艶(つや)が消えていた

 

近寄ってみると、

小さなひびが沢山にあるのだった

 

それで夕陽が当ってさえが、

おとなしい色をしていた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴った

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか

僕にも誰にも分らなかった

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩は「四季」発表されたとき

6節で構成された「或る夜の幻想」の第2節でした。

 

第1節が、「彼女の部屋」

第2節が、「村の時計」

第3節が、「彼女」

第4節が、「或る男の肖像」

第5節が、「無題 ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。」

第6節が、「壁」

――といったタイトルの

独立した詩としても読める詩でした。

 

 

「村の時計」には

物語のはじまりを告げるような

まだ何もはじまらないような静寂がありますが

6節全体の一部になった途端に

夢のきれはしのような

どこかで見た覚えのある光景がよみがえるような

懐かしさが含まれます。

 

 

個別に読んでも成り立つのですが

中原中也はなぜ6節構成の詩にしたのでしょうか。

 

なぜ新しい試みに挑んだのでしょうか。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

2017年1月16日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「ゆきてかえらぬ」蜘蛛の巣の輝き

 

「ゆきてかえらぬ」は

「在りし日の歌」の「永訣の秋」の冒頭詩になりますが

初出は「四季」1936年(昭和11年)11月号でした。

 

「四季」発表の時には

タイトル下に「未定稿」と記されていました。

 

 

ゆきてかえらぬ

 

      ――京 都――

 

 僕は此(こ)の世の果てにいた。陽(ひ)は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺っていた。

 

 木橋の、埃(ほこ)りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々(あかあか)と、風車を付けた乳

母車(うばぐるま)、いつも街上(がいじょう)に停っていた。

 

 棲む人達は子供等(こどもら)は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)なく、風信機

(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であった。

 

 さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜(みつ)があり、物体ではないその蜜は、常住

(じょうじゅう)食(しょく)すに適していた。

 

 煙草(たばこ)くらいは喫(す)ってもみたが、それとて匂(にお)いを好んだばかり。おまけ

に僕としたことが、戸外(そと)でしか吹かさなかった。

 

 さてわが親しき所有品(もちもの)は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団(ふと

ん)ときたらば影(かげ)だになく、歯刷子(はぶらし)くらいは持ってもいたが、たった一冊あ

る本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方(めかた)、たのしむだけのものだっ

た。

 

 女たちは、げに慕(した)わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかっ

た。夢みるだけで沢山(たくさん)だった。

 

 名状(めいじょう)しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は

胸に高鳴っていた。

 

        *           *

              *

 

 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男

達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。

 

 さてその空には銀色に、蜘蛛(くも)の巣が光り輝いていた。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

京都での生活を振り返った散文詩ですが

「山羊の歌」「在りし日の歌」を通じて

散文詩の収録はこの詩が唯一ということです。

 

散文詩とはいえ

改行、1行空きを多く入れた形。

 

1937年2月号「四季」に寄せた

「郵便局」

「幻想」

「かなしみ」

「北沢風景」

――の「散文詩四篇」への過渡期的作品と言えるでしょうか。

 

「未定稿」とあるのは

ふっきれないものが詩人のなかにあったからかもしれません。

 

 

僕は此(こ)の世の果てにいた。

(けれども)

陽(ひ)は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺っていた。

 

名状(めいじょう)しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、

(けれども)

希望は胸に高鳴っていた。

 

――というような「逆接」のこころが歌われるのは

「少年時」の、

私は希望を唇に噛みつぶして

私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……

噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

 

――につながっています。

 

 

しかし……。

 

「ゆきてかえらぬ」は

「永訣の秋」のオープニングに置かれたのです。

 

少年時代も青春も

彼方にあります。

 

彼方にありながら、

さてその空には銀色に、蜘蛛(くも)の巣が光り輝いていた。

――のです。

 

 

中也は、いつも、生きようとしています。

 

 

この詩が制作されたのは

「四季」発行日の2か月前と推測されますが

9月23日の日記に

「詩人達と会うことはまっぴらだ。今夜四季の会に出なかっただけでもなにか相当な得のように思われる」

――と記しています。

(同上書・解題篇。)

 

何かがあったことは間違いありません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2017年1月14日 (土)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「独身者」と立原道造「旅人の夜の歌」

 

やや脱線しますが

立原道造が「或る不思議なよろこびに」とともに「四季」に寄せた

「旅人の夜の歌」を読んでおきましょう。

 

 

旅人の夜の歌

  Fräulein A Murohu gewidmet

 

降りすさむでゐるのは つめたい雨

私の手にした提灯(ちゃうちん)はやうやく

昏(くら)く足もとをてらしてゐる

歩けば歩けば夜は限りなくとほい

 

私はなぜ歩いて行くのだらう

私はもう捨てたのに 私を包む寝床も

あつたかい話も燭火(ともしび)も――それだけれども

なぜ私は歩いてゐるのだらう

 

朝が来てしまつたら 眠らないうちに

私はどこまで行かう……かうして

何をしてゐるのであらう

 

私はすつかり濡(ぬ)れとほつたのだ 濡れながら

悦ばしい追憶を なほそれだけをさぐりつづけ……

母の あの街のほうへ いやいや闇をただふかく

 

(角川文庫「新編立原道造詩集」昭和44年改版13版より。「四季」発表との異同は確認できていません。編者。)

 

 

A Murohuとあるのは

室生犀星の娘、朝子のことで

彼女への献呈詩です。

 

詩人が

冷たい雨をモチーフにすることはありふれたことですが

中原中也にもあった記憶がよみがえります。

 

中也の詩とまるで違うところに

あじわいどころがあるのは当然ですが。

 

2人の詩人は

お互いの詩について

感想をやりとりすることはなかったのでしょうか。

 

エピグラフに引用するほどでしたから

何らかの言葉が交わされた公算は大きいのに。

 

 

立原道造の歴史的仮名遣いは

なんだか似合わない感じを抱かざるを得ませんから

現代表記で読んでみましょう。

 

 

旅人の夜の歌

  Fräulein A Murohu gewidmet

 

降りすさんでいるのは つめたい雨

私の手にした提灯(ちょうちん)はようやく

昏(くら)く足もとをてらしている

歩けば歩けば夜は限りなくとおい

 

私はなぜ歩いて行くのだろう

私はもう捨てたのに 私を包む寝床も

あったかい話も燭火(ともしび)も――それだけれども

なぜ私は歩いているのだろう

 

朝が来てしまったら 眠らないうちに

私はどこまで行こう……こうして

何をしているのであろう

 

私はすっかり濡(ぬ)れとほったのだ 濡れながら

悦ばしい追憶を なおそれだけをさぐりつづけ……

母の あの街のほうへ いやいや闇をただふかく

 

 

ゐる

ちゃうちん

やうやく

とほい

だらう

あつたかい

ゐるのだらう

しまつたら

行かう

かうして

ゐるのであらう

すつかり

とほつた

なほ

 

――と、これだけの歴史的表記を現代表記にしてみるだけで

詩は一気に現代に降り立つと思いませんか?

 

促音(そくおん)や拗音(ようおん)はともかく

ゐ、とか

だらう、とか

やうやく、とか

行かう、とか。

 

「ダラウ」とか「イカウ」とか

発音していたわけでもありませんし。

 

 

途中ですが                                          

今回はここまで。

 

中原中也が「四季」に寄せた詩/「独身者」と立原道造「或る不思議なよろこびに」

 

中也が「独身者」を発表したのは

「四季」1936年(昭和11年)6月号。

 

同じ号に立原道造が

「或る不思議なよろこびに」と

「旅人の夜の歌」の2篇を載せています。

 

 

独身者

 

石鹸箱(せっけんばこ)には秋風が吹き

郊外と、市街を限る路(みち)の上には

大原女(おはらめ)が一人歩いていた

 

――彼は独身者(どくしんもの)であった

彼は極度の近眼であった

彼は“よそゆき”を普段に着ていた

判屋奉公(はんやぼうこう)したこともあった

 

今しも彼が湯屋(ゆや)から出て来る

薄日(うすび)の射してる午後の三時

石鹸箱には風が吹き

郊外と、市街を限る路の上には

大原女が一人歩いていた

  

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。原文の「よそゆき」は傍点がふられていますが、“ ”に替えました。編者。)

 

 

立原道造の「或る不思議なよろこびに」のエピグラフは

中原中也の「無題に」(もしくは「詩友に」)からの引用ですから

「四季」に発表されていない「無題」を

立原道造はどのようにして読んだのか。

 

依然として不明ですが

「独身者」が「四季」に発表されたころには

中也は「四季」の同人でしたし

「四季」の会(同人会)で初対面した後ですから

何らかの直接的な交流があったのかもしれません。

 

この間に実際の交流がなかったとしても

立原道造はこの号で、

 

戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら

            私はおまへのやさしさを思ひ……

                      ――中原中也の詩から

 

――というエピグラフを付した

「或る不思議なよろこびに」を発表したのです。

 

発表に先立って

なんらかの通信があって普通ですが

たとえなかったとしても

発表後に交信がなかったことは考えられません。

 

 

「独身者」と

「或る不思議なよろこびに」と「旅人の夜の歌」と。

 

これらの作品ばかりか

すでに2人の詩人が「四季」に発表した詩は相当数ありましたから

話題には事欠かなかったはずでした。

 

直接交信の形跡はしかし

ほとんど見つかっていません。

 

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

 

2017年1月13日 (金)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「雪の賦」の孤児

 

 

1935年(昭和10年)12月号に「青い瞳」

1936年1月号に「除夜の鐘」

2月号に「冷たい夜」

5月号に「雪の賦」

6月号に「独身者」

7月号に「わが半生」

――と中也の「四季」への寄稿が続きますが

内容(モチーフ)を特別に「四季」向けにした様子はありません。

 

色々な顔を見せているのが

「四季」に限らない

中原中也の詩の在りかたと言えるでしょう。

 

とはいうものの

このラインナップには

共通しているものが見えています。

 

 

雪の賦

 

雪が降るとこのわたくしには、人生が、

かなしくもうつくしいものに――

憂愁(ゆうしゅう)にみちたものに、思えるのであった。

 

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、

大高源吾(おおたかげんご)の頃にも降った……

 

幾多(あまた)々々の孤児の手は、

そのためにかじかんで、

都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。

 

ロシアの田舎の別荘の、

矢来(やらい)の彼方(かなた)に見る雪は、

うんざりする程永遠で、

 

雪の降る日は高貴の夫人も、

ちっとは愚痴(ぐち)でもあろうと思われ……

 

雪が降るとこのわたくしには、人生が

かなしくもうつくしいものに――

憂愁にみちたものに、思えるのであった。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

大高源吾の頃とは、赤穂浪士の討ち入りがあった頃のこと。

 

孤児は、いつの時代にも存在するものですから

大高源吾の時代を含めて今も。

 

ロシアの田舎の別荘は、

ロシア革命を思わせる時代の冬の

限りなく奥深い雪原を見て思いにふける貴婦人の、と。

 

時を超え、場所を超えて

現在、目の当たりにしている雪が

詩人に呼び起こす感情。

 

 

「除夜の鐘」を読んだ続きに

大高源吾が現われ

孤児が現われ

ロシア革命におののく貴婦人が現われます。

 

かなしくも

うつくしくも見えた上に

憂愁にみちたものに思えてくるのは

除夜の鐘の向うに囚人の思いを聞き取ろうとするのに似た

孤児への思いが詩人の胸の内にあったから、ではないか。

 

大高源吾は遠い日のこと、

ロシアの貴婦人は遠い場所のことでありながら

孤児はランボーに登場する

詩人の現在ですし。
 
何よりも

詩人は都会の夕べにいます。
 
かじかんでいるのは

詩人です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2017年1月12日 (木)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「除夜の鐘」のルフラン

 

「冷たい夜」が発表されたのが

「四季」の1936年2月号。

 

その前の号、1936年1月号に

「除夜の鐘」が発表されました。

 

制作は

前年12月2日の日記に、「四季」正月号へ原稿、とあることから

この日と推定されています。

 

「四季」発表後に

「在りし日の歌」に収められ

その時、若干、修正が施されます。

 

 

除夜の鐘

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)わし、

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

それは寺院の森の霧った空……

そのあたりで鳴って、そしてそこから響いて来る。

それは寺院の森の霧った空……

 

その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出、

その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

 

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。

その時囚人は、どんな心持だろう、どんな心持だろう、

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

千万年も、古びた夜の空気を顫わし、

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

ここに掲載したのは「在りし日の歌」のものですが

「四季」では第3連が、

 

その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食べ、

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出、

その時子供は父母の膝下で蕎麦を食べ。

――となっていました。

 

 

「食べ」を「食うべ」と変えた意図は

はっきりしていません。

 

「食うべ」は、

「とうべ」という古語か

「くうべ」という東北弁か

どちらとも取れることが

角川新全集に案内されています。

 

 

この詩には「霧った」という

中也流の造語(?)もあり

謎めいてもいるのですが、

これらは万感迫る除夜の

詩人のこころの反映と見られるはずで

ならば自ずと読めてくるであろうはずのものです。

 

 

その時子供は――。

その時銀座は――。

 

その時銀座は――。

その時囚人は――。

 

ルフランのこの絶妙!

 

 

古語を使っている場合じゃないでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2017年1月11日 (水)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「冷たい夜」の心

 

「冷たい夜」は

「四季」1936年(昭和11年)2月号に発表されました。

 

「在りし日の歌」の17番詩です。

 

同年1月15日の日記に

「四季」へ発送と記されてあり

この日に制作されたものと推定されています。

 

 

冷たい夜

 

冬の夜に

私の心が悲しんでいる

悲しんでいる、わけもなく……

心は錆(さ)びて、紫色をしている。

 

丈夫な扉の向うに、

古い日は放心している。

丘の上では

棉(わた)の実が罅裂(はじ)ける。

 

此処(ここ)では薪(たきぎ)が燻(くすぶ)っている、

その煙は、自分自らを

知ってでもいるようにのぼる。

 

誘われるでもなく

覓(もと)めるでもなく、

私の心が燻る……

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。編者。)

 

 

この詩は

前年(1935年)12月19日に

「四季」同人への加入を承諾してから

初めて発表した作品になります。

 

しばらくして

「四季」の会があり

その頃に「或る不思議なよろこびに」は書かれ

エピグラフに中也の「無題」から引用され

同じ頃、エピグラフにした詩行が「1936年手帳」に書き留められた、ということになります。

 

 

私の心が悲しんでいる

心は錆(さ)びて、紫色をしている。

古い日は放心している。

私の心が燻る……

と、
心は色々です。

 

私のこころ(心)の様子が

4-4-3-3の14行(ソネット)に

捉えられてけざやかですが

この心はいつものそれと異なるような。

 

悲しんでいて

悲しんでいるわけでもない

何か新しい感情を捉えているようで

新鮮です。
 


 

「或る不思議なよろこびに」の最終行、

僕の心に穴あけて 灼けた瞳が 燻ってゐた

――と繋がっているような、いないような。

 

「四季」を意識しているのでしょうか。

 

立原道造のことが脳裏にあったでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月10日 (火)

中原中也が「四季」に寄せた詩・追補/立原道造との交感/同人会で

 

立原道造には「1936年手帳」と呼ばれる創作ノートがあり

この手帳に

「或る不思議なよろこびに」のエピグラフとした

中原中也の詩と同じフレーズが

書き留められています。

 

それは次のようなものでした。

 


 

§
 

四月十二日、午前九時

東京駅横須賀線プラットフォームにて、待つこと。
 

§
 

或る不思議なよろこびに――

 

 戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら

 私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す

                    ――中原中也

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ「無題」解題中の参考文献より。)

 

 

こちらは「或る不思議なよろこびに」のエピグラフよりも

中也の詩を忠実に記録(メモ)していますから

エピグラフよりも先に書かれたものでしょう。

 

この記録が書かれたころに

「或る不思議なよろこびに」は書かれ

書かれた詩は「四季」に発表され(6月号)

3月26日には「四季」同人会が初めて開かれました。

 

立原道造と中也は

銀座「はせ川」で行われたこの同人会に出席します。

 

このときのことが

堀辰雄の文章の中に残され有名になりました。

 

初対面の立原道造に

少し酔った中也が突っ込みます。

 

 

やい、ガボリイ……やい、ガボリイ……」と呼んではしきりにからもうとしていた。おとなしい立原君はただもうびっくりしていたようだった。

 

それから数日後、立原君は僕のところに来て、はじめてジョルジュ・ガボリイの詩集を見ながら、「なあんだ、ガボリイって随分好い人なんですね」と安心したように言っていた。こう立原君が素直では、さすがの中原中也も顔負けである。/

 

立原君はしかし、中原君が毒づこうとしたような、ガボリイ好みの、「ご婦人向き」の詩人では断じてない。中原君のようにフランスの詩人のものばかり読んでいた人には、ちょっと似よりの詩人の見当のつかない、独逸のロマンティック直系の詩人である。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ解題篇より。「四季」第46号(昭和14年春季号)からの引用の引用です。/は省略の意。原文の歴史的仮名遣いを現代表記に改め、改行を加えました。編者。)

 

 

作家・檀一雄が書いた「小説・太宰治」の中の

中也が太宰にからむシーンを

思わず連想してしまいますが

これは、第1回中原中也賞への推薦の言葉です。

 

フィクションと現実ほどの違いがあります。

 


 
ガボリイは、「月下の一群」(堀口大学)に訳されている

ジョルジュ・ガボリーのことでフランスの詩人。

 
堀辰雄は

立原道造をドイツ・ロマン派直系の詩人と評しているのです。
 

途中ですが

今回はここまで。

2017年1月 8日 (日)

中原中也が「四季」に寄せた詩・追補/立原道造との交感「或る不思議なよろこびに」

 

中原中也の第1詩集「山羊の歌」の「みちこ」の章に収められた「無題」は

冒頭に「みちこ」、次に「汚れっちまった悲しみに……」に続く

3番目に配置されています。

 

「みちこ」も「汚れっちまった悲しみに……」も「無題」も

初出は「白痴群」でしたが

「無題」は初出時、

「詩友に」というタイトルのソネットでした。

 

「白痴群」第6号に再発表したときに

タイトルは「無題」と変更され

同時に、5節構成の長詩に作り変えられて

「詩友に」は第3節に組み込まれました。
 
この「無題」が
「山羊の歌」に収録されました。

 

 

立原道造は中原中也の詩を

「四季」誌上で読めましたから

「四季」に発表された「みちこ」や「帰郷」や「逝く夏の歌」や「少年時」などを

いつでも読むことができましたが

「無題」は「四季」に発表されていません。

 

「山羊の歌」で読んだのか

「白痴群」で読んだのか

そのいずれかを、例えば、師である堀辰雄とか

室生犀星とかの所蔵本を借りて読んだのか

色々なことが考えられますが

「無題」の一節を

自作詩「或る不思議なよろこびに」のエピグラフに引用したのです。

 

1936年(昭和11年)6月号「四季」に発表したとき

それは、次のようなかたちでした。

 

 

或る不思議なよろこびに

 

       戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら

            私はおまへのやさしさを思ひ……

                      ――中原中也の詩から

 

灼けた瞳が 灼けてゐた

青い眸でも 茶色の瞳でも

なかつた きらきらしては

僕の心を つきさした。

 

泣かさうとでもいふやうに

しかし 泣かしはしなかつた

きらきら 僕を撫でてゐた

甘つたれた僕の心を嘗めてゐた。

  

灼けた瞳は 動かなかつた

青い眸でも 茶色の瞳でも

あるかのやうに いつまでも
 

灼けた瞳が 叫んでゐた!

太陽や海藻のことなど忘れてしまひ

僕の心に穴あけて 灼けた瞳が 燻ってゐた

 

(筑摩書房「立原道造全集1」中の「失はれた夜に」解題を参照して再現しました。編者。)

 

 

初出の「四季」では

このように「或る不思議なよろこびに」というタイトルであり

中原中也の「無題」の一部をエピグラフにしていたものが

詩集「暁(あかつき)と夕(ゆうべ)の詩」(1937年12月刊)収録にあたっては

「Ⅳ 失はれた夜に」と題名を変更され

エピグラフも削除されました。

 

さらに、最終連は、

 

灼けた瞳は しづかであつた!

太陽や香のいい草のことなど忘れてしまひ

ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた

――と変えられました。

 

 

この詩が、「四季」1936年6月号に発表されたころ

二人の詩人は同人会で顔を合わせています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年1月 7日 (土)

中原中也が「四季」に寄せた詩・追補/立原道造との交感「無題」

 

 

中原中也は自ら書いた小自伝「詩的履歴書」に、

昭和七年、「四季」第二夏号に詩三篇を掲載。

――と記録しています。

 

この3篇が

これまで読んできた

「帰郷」「逝く夏の歌」「少年時」のことです。

 

 

昭和7年とは、1932年のことですが

昭和5年の「白痴群」廃刊を記して「以後雌伏」と書き留めた後に

「四季」に詩を発表したことを記しているのは

詩人にとってそれが大きな詩的なキャリア(履歴)であったからでしょう。

 

この「詩的履歴書」は

1934年(昭和9年)に書かれた「芸術論覚書」に収められています。

 

 

中原中也の作品(詩や評論を含めて)は

どのように「四季」の人々に受け止められたのでしょうか?

 

萩原朔太郎と三好達治の

相反する中原中也評は広く知られますし

堀辰雄や丸山薫らの親密な姿勢は

よく聞かれるところですが

「四季」に参じる若手詩人たちは

どうだったのでしょうか?

 

その一つのケースとしての

立原道造と中原中也の交流・交感の軌跡は

近年、とみに話題になることが多くなっています。

 

そのあたりを

少し探ってみましょう。

 

 

中原中也「山羊の歌」に「無題」というタイトルの詩があります。

 

この詩を

立原道造はどのような経緯で読んだのか。

 

まずは「無題」を読みましょう。

 

 

無 題

 

 

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、

私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、

酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝

目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら

私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして

正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、

品位もなく、かといって正直さもなく

私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。

人の気持ちをみようとするようなことはついになく、

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに

私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!

目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、

戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら

私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。

そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、

今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

 

 

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!

彼女は荒々しく育ち、

たよりもなく、心を汲(く)んでも

もらえない、乱雑な中に

生きてきたが、彼女の心は

私のより真っ直いそしてぐらつかない。

 

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に

彼女は賢くつつましく生きている。

あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、

折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、

而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない

彼女は美しい、そして賢い!

 

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!

しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。

我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、

彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、

唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。

そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

 

 

かくは悲しく生きん世に、なが心

かたくなにしてあらしめな。

われはわが、したしさにはあらんとねがえば

なが心、かたくなにしてあらしめな。

 

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)

魂に、言葉のはたらきあとを絶つ

なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの

うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

 

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて

悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む

わが世のさまのかなしさや、

 

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、

人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき

熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

 

 

私はおまえのことを思っているよ。

いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、

昼も夜も浸っているよ、

まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

 

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。

いろんなことが考えられもするが、考えられても

それはどうにもならないことだしするから、

私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

 

またそうすることのほかには、私にはもはや

希望も目的も見出せないのだから

そうすることは、私に幸福なんだ。

 

幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、

いかなることとも知らないで、私は

おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

 

Ⅴ 幸福

 

幸福は厩(うまや)の中にいる

藁(わら)の上に。

幸福は

和(なご)める心には一挙にして分る。

 

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、

   せめてめまぐるしいものや

  数々のものに心を紛(まぎ)らす。

   そして益々(ますます)不幸だ。

 

幸福は、休んでいる

そして明らかになすべきことを

少しづつ持ち、

幸福は、理解に富んでいる。

 

  頑なの心は、理解に欠けて、

   なすべきをしらず、ただ利に走り、

   意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、

   人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

 

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。

従いて、迎えられんとには非ず、

従うことのみ学びとなるべく、学びて

汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月 6日 (金)

「中原中也詩集」をNHK「100分De名著」が解読

今年2017年は

中原中也生誕110周年を迎える年です。

 

これを記念して

各所で色々なイベントが行われるようですが

NHKの「100分De名著」は

「名著61 中原中也詩集」のタイトルで

新しい角度から詩人の詩を読み解く番組。

 

太宰治の娘である作家・太田治子を講師に、

詩人・佐々木幹郎、歌人・穂村弘の読みも加わります。

 

全4回のシリーズ。

毎週月曜日、午後10時25分~10時50分に放送。

 

第1回、1月9日、「詩人」の誕生、

第2回、1月16日、「愛」と「喪失」のしらべ、

第3回、1月23日、「悲しみ」と「さみしさ」をつむぐ、

第4回、1月30日。「死」を「詩」にする

――というテーマ(内容)です。

お見逃しなく!

2017年1月 5日 (木)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「みちこ」の衝撃

1935年(昭和9年)10月15日付けで発行された第2次「四季」創刊号に
「みちこ」は発表されています。

「白痴群」第5号(1930年)にすでに発表したものの
再発表でした。



みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)



「みちこ」も
「山羊の歌」第3章にあたる章「みちこ」の
冒頭詩として配置されているのは
「少年時」と同じような位置づけです。

「四季」のイメージに
ランボー(の苛烈な青春)を打ち込み
女性の肉体を賛美したような「みちこ」を打ち込んで
反応(衝撃)はどのようなものだったのでしょうか。



季刊から月刊となった第2次「四季」は
堀辰雄、三好達治、丸山薫、津村信夫、立原道造の編集中枢5人に加え
あらたな編集同人に、井伏鱒二、萩原朔太郎、竹中郁、田中克己、辻野久憲、中原中也、
桑原武夫、神西清、神保光太郎の9人を迎えました。

第2次「四季」は敗戦の前年1944年に81号で終刊しますが
その間に、室生犀星、阪本越郎、大山定一、河盛好蔵、田中冬二、杉山平一、大木実、
高森文夫、呉茂一、山岸外史、保田與重郎、芳賀檀、伊東静雄、蔵原伸二郎らが同人と
して執筆、
同人以外からの寄稿もありました。



途中ですが
今回はここまで。

2017年1月 4日 (水)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「少年時」とランボーの影

中原中也の「少年時」には

ランボーの「Enfance少年時」の色濃い反映があります。

 

京都時代に

富永太郎を通じて知ったランボーへの希求は

上京後も止みがたく

小林秀雄や小林を指導していた帝大仏文科教官辰野隆や鈴木信太郎らとの

交流に発展していきます。

 

 

鈴木信太郎の「近代仏蘭西象徴詩抄」(大正13年、春陽堂)にある

「少年時」に巡り合うのは必然でした。

 

上田敏訳のランボー「酔ひどれ船」とともに

中也は原稿用紙に筆写し

ランボー詩の理解を深めようとしました。

 

 

戦後発行された「ランボオ全集」(人文書院)に

「少年時」の鈴木信太郎と小林秀雄の共訳がありますから

ここで目を通しておきましょう。

 

 

 少年時  

アルチュール・ランボオ 
鈴木信太郎、小林秀雄共訳

        一

この偶像、眼は黒く髪は黄に、親もなく、侍者(じしゃ)もなく、物語よりも気高く、メキシコ人でありまたフラマン人、その領土は、傲岸無頼の紺碧の空と緑の野辺、船も通わぬ波涛を越えて、猛々しくもギリシャ、スラヴ ケルトの名をもて呼ばれた浜辺から浜辺に亘る。
森のはずれに、――夢の花、静かに鳴り、鳴り響き、光り輝く、――オレンジ色の唇をもった少女、草原から湧き出る明るい流の中に組み合せた膝、裸身、虹の橋と花と海とは、その裸身を暈(くま)どり、貫き、また着物で包む。
海のほとりのテラスに渦巻く貴婦人の群。少女たちや巨大な女たち、緑青の苔の中には見事な黒人の女、木立と雪解けの小庭の肥沃な土の上に、直立する宝石の装身具、――巡礼の旅愁に溢れた眼の、うら若い母と大きな姉、トルコの王妃、傍若無人に着飾って闊歩する王女達、背の低い異国の女、また物静かに薄命な女たち。
何という倦怠だろう、「親しい肉体」と「親しい心」の時刻。

        二

薔薇の茂みのうしろにいるのは、彼女だ、死んだ娘だ。――年若くて亡(なくな)った母親が石段を降る。――従兄の乗った軽快な幌馬車は砂地を軋る。――(インドに住んでいる)弟が、――夕陽を浴びて、あそこ、石竹の花咲く草原にいる。――埋葬された老人達は、丁字香の漂う砦に、すっくと立ちあがる。
黄金の木の葉の群は、将軍の家を取り巻く。家中が南方に居るのだ。――赤い街道を辿れば、空家になった宿屋に行き着く。城は売りもの。鎧戸ははずされている。
――教会の鍵を、司祭は持って行ったのだろう。――庭園の周りの番小屋には、人が住んでいない。柵は高く、風わたる梢しか見えぬ。尤も、中には見るものもないのだが。
草原を登って行くと、鶏も鳴かぬ、鉄砧(かなしき)の音も聞えぬ小さな村落。閘門は揚げられている。ああ、立ち竝ぶ十字架の塚と砂漠の風車、島々と風車の挽臼。
魔法の花々は呟いていた。勾配が静かに彼を揺った。物語のように典雅な動物が輪を描いていた。熱い涙の永遠により創り出された沖合いに、雲がむらがり重っていた。

        三

森に一羽の鳥がいて、その歌が、人の足を止め、顔を赤くさせる。
時刻を打たない時計がある。
白い生き物の巣を一つ抱えた窪地がある。
降り行く大伽藍、昇り行く湖がある。
輪伐林の中に棄てられた小さな車、或はリボンを飾って、小径を駆け下る車がある。
森の裾を貫く街道の上には、衣裳を着けた小さな俳優たちの一団が見える。
最後に、人が餓え渇する時に、何者か追い立てるものがある。

        四

俺は、岡の上に、祈りをあげる聖者、――パレスチナの海までも牧草を喰って行く平和な動物のようだ。
俺は陰鬱な肱掛椅子に靠れた学究。小枝と雨が書斎の硝子窓に打ちつける。
俺は、矮小な森を貫く街道の歩行者。閘門の水音は、俺の踵を覆う。夕陽の金の物悲しい洗浄を、いつまでも長く俺は眺めている。
本当に、俺は、沖合に遙かに延びた突堤の上に棄てられた少年かも知れぬ。行く手は空にうち続く道を辿って行く小僧かも知れぬ。
辿る小道は起伏して、丘陵を金雀枝(えにしだ)は覆う。大気は動かない。小鳥の歌も泉の声も随分遠くだ。進んで行けば、世界の涯(はて)は必定だ。

        五

終に人は、漆喰の条目の浮き出した、石灰のように真っ白なこの墓を、俺に貸してくれるのだ、――地の下の遙か彼方に。
俺は卓子(てえぶる)に肘をつく。ランプは、俺が痴呆のように読み返す新聞や何の興味もない書籍を、あかあかと照らしている。
俺の地底のサロンの上を遙かに遠く隔って、人々の家が竝び立ち、霧が立ちこめる。泥は赤く或は黒い。怪物の都会、果てしない夜。
それより低くに、地下の下水道。四方は地球の厚みだけだ。恐らく藍色の深淵か、火の井戸もあろう。月と彗星、海と神話のめぐり会うのも、恐らくこの平面かもしれぬ。
懊悩の時の来る毎に、この身を、碧玉(サファイア)の球体、金属の球体と想いなす。俺は沈黙の主人。円天井の片隅に、換気窓のような一つの姿が、蒼ざめているのは何故だらうか。

(「ランボオ全集第2巻」飾画・雑纂・文学書簡他。人文書院、昭和28年。新かな・新漢字に変えました。編者。)

 

 

全5章の散文詩の「四」の「世界の涯(はて)」が

中原中也の「少年時」に繋がります。

 

しかし、中也少年は

私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……

噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

――と

地平の果てにありながら

生きていたのです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2017年1月 3日 (火)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「少年時」の少年

 

「少年時」は

第1詩集の出版を計画した当初

詩集タイトルの一つとされていたほどに

中原中也のなかで価値の高いネーミング(言葉)でした。

 

それは

1、ランボーの翻訳(鈴木信太郎)の筆写稿の「少年時」

2、詩篇の清書用のノート「ノート少年時」

3、未発表詩篇「少年時」(母は父を送り出すと)

4、本篇「少年時」

――と使われていることからも見て取れます。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ解題篇。)

 

 

この「少年時」が

詩集「山羊の歌」で

「初期詩篇」に次ぐ第2章の題に採用されましたから

五つ目の使用になります。

 

 

少年時

 

黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、

庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。

 

地平の果(はて)に蒸気が立って、

世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。

 

麦田(むぎた)には風が低く打ち、

おぼろで、灰色だった。

  

翔(と)びゆく雲の落とす影のように、

田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

 

夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻

誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、

私は野原を走って行った……

 

私は希望を唇に噛みつぶして

私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……

噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

自身の少年時代を

ランボーの詩の中に見つけた驚きが

興奮がちにこの詩に刻まれている、と思えるほどです。

 

詩内容はランボーの「少年時」の強い影響下にありますが

しかし、この詩の少年は

まぎれもなく中也少年です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

中原中也が「四季」に寄せた詩/「逝く夏の歌」の戦争

「四季」に初めて寄せた詩の一つが

「逝く夏の歌」です。


「帰郷」とともに「逝く夏の歌」は

「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されています。


「帰郷」「逝く夏の歌」「少年時」は

「山羊の歌」に収録されていますが

「四季」に発表したときに

「山羊の歌」は出版されていません。


「四季」への発表の方が

先になりました。



逝く夏の歌


並木の梢(こずえ)が深く息を吸って、

空は高く高く、それを見ていた。

日の照る砂地に落ちていた硝子(ガラス)を、

歩み来た旅人は周章(あわ)てて見付けた。


山の端(は)は、澄(す)んで澄んで、

金魚や娘の口の中を清くする。

飛んで来るあの飛行機には、

昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。


風はリボンを空に送り、

私は嘗(かつ)て陥落(かんらく)した海のことを 

その浪(なみ)のことを語ろうと思う。


騎兵聯隊(きへいれんたい)や上肢(じょうし)の運動や、

下級官吏(かきゅうかんり)の赤靴(あかぐつ)のことや、

山沿(やまぞ)いの道を乗手(のりて)もなく行く

自転車のことを語ろうと思う。


(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)



「山羊の歌」の「初期詩篇」には

意外に知られていないことですが

「戦争」がよく現われます。


この詩は

陥落した海とあることから

日露戦争の旅順陥落を想像できますが。


2番詩「月」に、胸に残った戦車の地音

3番詩「サーカス」に、茶色い戦争ありました

5番詩「朝の歌」に、鄙(ひな)びたる 軍楽の憶い

――などとあるのも

戦争にほかなりません。



冒頭詩「春の日の夕暮」の

馬嘶くか――嘶きもしまい

――の馬も、


4番詩「春の夜」の

夢の裡(うち)なる隊商のその足竝(あしなみ)もほのみゆれ

――の隊商も、


6番詩「臨終」の

黒馬の瞳の光

――の黒馬も

戦争の馬かもしれません。



途中ですが

今回はここまで。

2017年1月 2日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「帰郷」に吹く風

 

中原中也が「四季」に詩を初めて発表したのは

1933年(昭和8年)の夏号(7月20日発行)。



「四季」夏号というのは

春夏2号で終わった季刊「四季」の後(あと)の号で

第1次「四季」と呼ばれています。

「帰郷」「逝く夏の歌」「少年時」の3篇が

同時の発表でした。

 

 

帰 郷

 

柱も庭も乾いている

今日は好(よ)い天気だ

    椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が

    心細そうに揺れている

 

山では枯木も息を吐(つ)く

ああ今日は好い天気だ

    路傍(みちばた)の草影が

    あどけない愁(かなし)みをする

 

これが私の故里(ふるさと)だ

さやかに風も吹いている

    心置(こころおき)なく泣かれよと

    年増婦(としま)の低い声もする

 

ああ おまえはなにをして来たのだと……

吹き来る風が私に云(い)う

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

 

この時期、「山羊の歌」は

本文のみ印刷されたものの

表紙など装丁、製本は出来ていない状態でした。

 

出版社も決まっておらず

発行されていなかったのです。

 

 

終連に、

ああ おまえはなにをして来たのだと……

吹き来る風が私に云(い)う

――とある風は

第1詩集の発行もならない

この頃の心境と重なりますが

この状態は長く続いています。

 

「帰郷」は

1928年(昭和3年)に

音楽集団「スルヤ」の機関紙に掲載され

「スルヤ」第5回発表演奏会(1930年5月7日)で

バリトン独唱、長井維理(ういり)

ピアノ、内海誓一郎

チェロ、民谷宏で演奏されています。

(同上書解題篇。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月 1日 (日)

中原中也が「四季」に寄せた詩/横浜もの「秋の一日」

 

中原中也が「四季」に発表した詩は

およそ30近くあります。

 

すべてが初出ではありませんが

「山羊の歌」にも収めていますから

長い付き合いであったことは確実です。

 

「むなしさ」と同じく「秋の一日」は

横浜を舞台にしていて

横浜ものと呼ばれる詩の一つです。

 

 

秋の一日

 

こんな朝、遅く目覚める人達は

戸にあたる風と轍(わだち)との音によって、

サイレンの棲む海に溺れる。 

 

夏の夜の露店の会話と、

建築家の良心はもうない。

あらゆるものは古代歴史と

花崗岩(かこうがん)のかなたの地平の目の色。

 

今朝はすべてが領事館旗(りょうじかんき)のもとに従順で、

私は錫(しゃく)と広場と天鼓(てんこ)のほかのなんにも知らない。

軟体動物のしゃがれ声にも気をとめないで、

紫の蹲(しゃが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

 

    (水色のプラットホームと

     躁(はしゃ)ぐ少女と嘲笑(あざわら)うヤンキイは

     いやだ いやだ!)

 

ぽけっとに手を突込んで

路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて

今日の日の魂に合う

布切屑(きれくず)をでも探して来よう。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

最終連、

ぽけっとに手を突込んで

路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて

――は

ベルレーヌやランボーの姿を彷彿(ほうふつ)とさせますが

この詩にみなぎる気だるさは

中也独特のもの。

 

この頃の気だるさのなかには

若々しさが漂います。

 

 

中途ですが

今回はここまで。

 

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