中原中也が「四季」に寄せた詩/堀辰雄の注文
1937年(昭和12年)2月11日付けで
堀辰雄が神保光太郎に宛てた書簡があります。
この中の記述は
「四季」編集への堀辰雄の注文が言及されていて
非常に貴重な証言ですから
一部を読んでおきます。
◇
(前略)
「四季」2月号、いま読んだ こんどの号はなかなか読みでがあつて愉しかつた 君の骨折りを感謝したい
(中略)猶、こんどの号を読んでいろいろ考へてみたが、大体僕がやつてみてこれと同じになるだらうと思へるところまで出来てゐると思ふ、
〇巻頭の萩原さんのやうな対外的な論文(詩的精神を高揚した)は今後も是非欲しい 但、萩原さんばかりに任せておかないで、君も書いてほしいし、又、保田君あたりに書いて貰つてはどうか、河上徹太郎君なども三好君から頼めばきつと書いてくれるきつと力になつてくれる人だと思ふ、
〇中原君がこんど出したように、四、五篇堂々と発表するしかた、大いにわが意を得たものだ、毎月、誰かが代り番こにでも、こうやつて四、五篇纏めてか、或は堂々と長編を発表して欲しい、(それは今度のやうに、誰の詩でも巻頭論文の次ぐらいのところに掲載してほしい)これは同人でなくともいいだらう、先輩のでも、又、新人のでも。
(後略)
(「新編中原中也全集」別巻<下>資料・研究篇より。歴史的仮名遣いはそのままとし、改行・行あきを加えました。編者。)
◇
言及されているのは「四季」1937年2月号ですから
中原中也が「散文詩四篇」を、
翌3月号に「或る夜の幻想」を発表し
どちらも読みごたえのある
意欲作が続いていました。
立原道造は
前年1936年10月号に
「甘たるく感傷的な歌」「逝く昼の歌」の2篇
11月号に「わかれる昼に」と「のちのおもひに」の2篇
(後に第1詩集「萱草に寄す」第1部「SONATINE No1」へ収録)
休刊した12月号をはさんで
1月号には3篇連作の詩「SONATINE」を発表します。
「Ⅰ 虹とひとと」「Ⅱ 夏の弔ひ」「Ⅲ 忘れてしまつて」のこの3篇は
後に「Sonatine No2.」として第1詩集「萱草に寄す」に収録される
いわば自信作でした。
2月号は「鳥啼く夕べに詠める歌」1篇でしたが
この間、2篇3篇同時発表を続けていて
中也に並ぶような、意欲的な姿勢です。
(同人ですから、当たり前ですが。)
神保光太郎はこの頃の編集担当でしたから
堀のこの書簡の内容は
神保を通じて立原道造にも伝わった可能性は高いし
この書簡以前に
堀は同じようなことを立原に直接話していた可能性もあります。
◇
では、堀辰雄の意向(注文)は
中原中也に伝えられたかどうか。
「四季の会」への参加を拒否する気持ちを
日記に記した中也でしたが
編集の方向に関する堀辰雄の意向には
反対するものではなかった流れが
以上のように「四季」誌上に見られました。
もとより中也は
季刊時代の「四季」第2冊(昭和8年7月号)に
「少年時」、「帰郷」、「逝く夏の歌」を打ち込んでいます。
早い時期に中也は
堀辰雄の言うように
「堂々と発表」していたのでした。
◇
このことを、交流、交感あるいは交響と
呼ばない理由はないでしょう。
創作上の(魂の)キャッチボールは
ある時期、ある瞬間に
グローブの強い音がするほどに
行われていました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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