中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「正午」/三好達治の否定と肯定・その3
3番目に三好達治が読むのは
「在りし日の歌」最終詩の二つ手前に配置された「正午」です。
◇
正 午
丸ビル風景
ああ12時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取(げっきゅうとり)の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空はひろびろ薄曇(うすぐも)り、薄曇り、埃(ほこ)りも少々立っている
ひょんな眼付(めつき)で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
ああ12時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かな、洋数字に変えました。編者。)
◇
いったい、三好達治は
ほめているのか、けなしているのか
よくわからないところがあるのですが
何度も何度もじっくり読んでいると
言わんとしていることが見えてくるのは
文体のせいでもあるようです。
そういう文体なのです。
一つの文(センテンス)が長いのは
「源氏物語」以来(?)の伝統の一方の峰(みね)ですから
そういう文体に慣れれば
それほど苦になりません。
根気よく読んでいきましょう。
「正午」については
三つのセンテンスで作品を読んでいます。
最後の一つは
次の「老いたる者をして」の読みの中にわずかに触れられるものですから
二つのセンテンスを読めば済みますし
この二つのうち、一つ目は単文構造ですから
意味明瞭です。
一つ目は次のような文です。
◇
中原君の作品に一貫して繰かへされる絶望的な虚無感、居ても立ってもゐられない虚無的な哀傷感は、この作品などに最も露骨に現れてゐる。
(筑摩書房「三好達治全集」第5巻より。)
◇
中也作品に一貫している虚無感、虚無的な哀傷感(=主語)が
この作品「正午」には露骨に現われている(=述語)
――という読みは
「正午」の核心をズバリ突いていて
寸分の狂いもないと言えるでしょうが
ここに「露骨に」という副詞が
次のセンテンスへの導きになっています。
三好は
露骨であることの過剰さみたいなことを
一つ目の文の中に匂わせているのです。
そして、次の文が続きます。
◇
それは、一種諧謔的な手法で歌われてゐるかのやうに見うけられるが、常に彼の場合には、実はそれが大真面目の真骨頂以外のものでないのは、たとへば、最後の1行「空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな」の結語の余韻によって明であらう。
(同上書。)
◇
それは=虚無的な哀傷感が露骨に現れていること
――を主語と取れば
述語は、「明であらう」です。
最後の1行「空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな」
それを明らかにしている
――と説明します。
◇
この余韻が露骨であると
三好達治は感じたのでしょう。
それを、次に取り上げる「老いたる者をして」に触れる三つ目の文で
「かくも主題の露骨なるもの」と明記していますし
二つ目の文でも
諧謔的な手法のようで(そうではなく)
実は大真面目の真骨頂、と述べているのです。
その感じ方に
鋭さがあり正確さがありますが。
◇
「正午」という詩の魅力は
こういう感じ方、こういう読みで
損なわれるものではありません、よね。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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