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2017年1月23日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「夏の夜に覚めて見た夢」/三好達治の否定

 

中原中也の日記に

三好達治が現われるのは

1936年(昭和11年)7月19日と

翌々日の7月21日との2回だけのようです。

 

 

7月19日

 

(略)

雑誌の編輯者どもが、ひどく俺を理解したような顔をする。そして、三好達治は無論俺より偉いとして、その上で俺をほめながら、俺によっぽど御利益でも与えたようなつもりになる。

(略)

 

 

7月21日

 

(略)

山本書店に行く。堀口大学を訪ねる、留守。山内義雄に会って山本書店の言付を伝える。三好達治の所へ寄る。一寸散歩に出ている、じきに帰るとのことであったがすぐに帰る。

(略)

 

(以上、「新編中原中也全集」第5巻・日記・書簡本文篇より。新かなに変えました。編者。)

 

 

これだけのことでは、なんのことか、なんにもわかりませんが、

記すことが詩人には必要であったことは確かなはずです。

 

中也は早くから「四季」を発表の場にしていたのでしたし

1935年年12月には同人入りし

毎号のように盛んに詩などを発表していましたし

三好達治は

季刊「四季」以来、編集中枢にあった先輩でした。

 

「俺より偉いとして」というのは

詩人としても

詩誌「四季」の創刊メンバーであることからしても

先輩である三好を

「世間(編輯者)が偉い(格上だ)と見なすのは当然だとして」というニュアンスでしょうか。

 

このころ付き合いのあった編集者への不満を述べた中に

三好達治が引き合いにされたのですが

引き合いになった具体的な理由はわかりません。

 

 

7月21日には

三好達治本人を訪問して会えなかったのですが

訪問するというのは

やはり「四季」のよしみということになるでしょう。

 

 

不発に終わったこの訪問よりおよそ2年前の

1935年(昭和10年)10月号「四季」に

中也は「夏の夜に覚めて見た夢」を発表しています。

 

 

夏の夜に覚めてみた夢

 

眠ろうとして目をば閉じると

真ッ暗なグランドの上に

その日昼みた野球のナインの

ユニホームばかりほのかに白く――

 

ナインは各々(おのおの)守備位置にあり

狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず

お調子者のセカンドは

相も変らぬお調子ぶりの

 

扨(さて)、待っているヒットは出なく

やれやれと思っていると

ナインも打者も悉(ことごと)く消え

人ッ子一人いはしないグランドは

 

忽(たちま)ち暑い真昼(ひる)のグランド

グランド繞(めぐ)るポプラ竝木(なみき)は

蒼々(あおあお)として葉をひるがえし

ひときわつづく蝉しぐれ

やれやれと思っているうち……眠(ね)た

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

第2連、

狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず

お調子者のセカンドは

――のこの2行を書く詩人の眼の

世間一般の人が感じていても口には出さないであろう

大胆さが光る詩です、よね。

 

口語的感性というか。

 

ゲームは

いつしか終わり

人っこ一人いない球場の静寂を

蝉しぐれが助長します。

 

やれやれ、は

倦怠のさみしさやむなしさや……。

 

ことによれば

自分への励ましをさえ含んでいるような。
 
夜の夢であるところの仕掛けも

わざとらしくないし。

 

起伏の大きい

口語自由詩の試みであるというのに。

 

 

この詩「夏の夜に覚めて見た夢」を

中也の死後に

三好達治が全面的に否定します。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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