中原中也が「四季」に寄せた詩/「夏の夜に覚めて見た夢」/三好達治の否定
中原中也の日記に
三好達治が現われるのは
1936年(昭和11年)7月19日と
翌々日の7月21日との2回だけのようです。
◇
7月19日
(略)
雑誌の編輯者どもが、ひどく俺を理解したような顔をする。そして、三好達治は無論俺より偉いとして、その上で俺をほめながら、俺によっぽど御利益でも与えたようなつもりになる。
(略)
◇
7月21日
(略)
山本書店に行く。堀口大学を訪ねる、留守。山内義雄に会って山本書店の言付を伝える。三好達治の所へ寄る。一寸散歩に出ている、じきに帰るとのことであったがすぐに帰る。
(略)
(以上、「新編中原中也全集」第5巻・日記・書簡本文篇より。新かなに変えました。編者。)
◇
これだけのことでは、なんのことか、なんにもわかりませんが、
記すことが詩人には必要であったことは確かなはずです。
中也は早くから「四季」を発表の場にしていたのでしたし
1935年年12月には同人入りし
毎号のように盛んに詩などを発表していましたし
三好達治は
季刊「四季」以来、編集中枢にあった先輩でした。
「俺より偉いとして」というのは
詩人としても
詩誌「四季」の創刊メンバーであることからしても
先輩である三好を
「世間(編輯者)が偉い(格上だ)と見なすのは当然だとして」というニュアンスでしょうか。
このころ付き合いのあった編集者への不満を述べた中に
三好達治が引き合いにされたのですが
引き合いになった具体的な理由はわかりません。
◇
7月21日には
三好達治本人を訪問して会えなかったのですが
訪問するというのは
やはり「四季」のよしみということになるでしょう。
◇
不発に終わったこの訪問よりおよそ2年前の
1935年(昭和10年)10月号「四季」に
中也は「夏の夜に覚めて見た夢」を発表しています。
◇
夏の夜に覚めてみた夢
眠ろうとして目をば閉じると
真ッ暗なグランドの上に
その日昼みた野球のナインの
ユニホームばかりほのかに白く――
ナインは各々(おのおの)守備位置にあり
狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず
お調子者のセカンドは
相も変らぬお調子ぶりの
扨(さて)、待っているヒットは出なく
やれやれと思っていると
ナインも打者も悉(ことごと)く消え
人ッ子一人いはしないグランドは
忽(たちま)ち暑い真昼(ひる)のグランド
グランド繞(めぐ)るポプラ竝木(なみき)は
蒼々(あおあお)として葉をひるがえし
ひときわつづく蝉しぐれ
やれやれと思っているうち……眠(ね)た
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
第2連、
狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず
お調子者のセカンドは
――のこの2行を書く詩人の眼の
世間一般の人が感じていても口には出さないであろう
大胆さが光る詩です、よね。
口語的感性というか。
ゲームは
いつしか終わり
人っこ一人いない球場の静寂を
蝉しぐれが助長します。
やれやれ、は
倦怠のさみしさやむなしさや……。
ことによれば
自分への励ましをさえ含んでいるような。
夜の夢であるところの仕掛けも
わざとらしくないし。
起伏の大きい
口語自由詩の試みであるというのに。
◇
この詩「夏の夜に覚めて見た夢」を
中也の死後に
三好達治が全面的に否定します。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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