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2017年1月25日 (水)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「夏の夜に覚めて見た夢」/三好達治の否定・その2

 

「夏の夜に覚めて見た夢」は「四季」1935年(昭和10年)10月号に発表されましたが

三好達治が、帝国大学新聞1938年(昭和13年)5月23日号に載せた批評は

ボロクソの酷評でした。

 

「ぶつくさ」の題で掲載された

その一部を読みましょう。

 

 

こんな風のレアリズムを、主観のとぼけた対象への捕はれ方を、私はやはり非詩として、根こそぎの否定を以て否定しないではゐられない。

 

「在りし日の歌」の著者は、その異常な体質と、その異常に執拗な探究力とで、まことに奇異な詩的世界まで踏みこんだ詩人だつたが、彼にはつひに最後まで、極めて初歩的な認識不足――外部からは窺知しがたい宿命的な、それが彼の長所でもあつた不思議に執拗な独断に根ざした、その認識不足からつひに救はれずに終つたやうである。

 

(筑摩書房「三好達三全集」第4巻より。読みやすくするために、改行を加えてあります。編者。)

 

 

「夏の夜に目覚めて見た夢」が

このようなレアリズムで書かれ

(そのレアリズムは)

主観的であるだけの(一辺倒の)とぼけた(眼差し)の

対象への捕われ方は(およそレアリズムとは言えないし)

(そうならば)詩ではない、非詩であり

(私はこのような詩を)根こそぎ否定する

否定しないではいられない

――というような意味でしょうか。

 

三好達治の文章は

時に長文に及ぶことがあり

主述が見極めがたくなったり

主副の優劣関係が不明だったり

副詞句の中に本意が述べられていたりするので

パラフレーズすることは難しく

危険でもありますが

わかりやすくするためにこのように読んでみました。

 

次に続く文章はやや長文ですけれど

副詞句は主述を説明していて意味は明瞭です。

 

「在りし日の歌」の著者は=主

つひに救はれずに終つたやうである。=述

――という構文の中に

長い副詞句が挟められても

その副詞句は述部を詳しく説明しているに過ぎません。

 

 

その異常な体質

その異常に執拗な探究力

まことに奇異な詩的世界まで踏みこんだ詩人

最後まで、極めて初歩的な認識不足

それは外部からは窺知しがたい宿命的な、

それは彼の長所でもあつた

不思議に執拗な独断に根ざした

その認識不足

――が説明しているのは

認識不足という一事です。

 

一点だけ

長所とされているところがあり

ここは読み過ごせないところですが。

その異常な体質

その異常に執拗な探究力

まことに奇異な詩的世界

――というところも高評価と言えなくはなさそうですが

全体が否定の中に閉ざされます。

 

 

三好達治は「夏の夜に覚めて見た夢」の詩(人)を

認識不足の詩(人)

――と読んでいるのです。

 

だから、これは詩ではない、非詩である

根こそぎ否定せざるを得ない

――というのです。

 

 

これでは中也は救いようがありません。

夏の夜に目覚めて

その日の昼に見た(ラジオで聞いたか?)野球試合のシーンがよみがえるのですが

ゲームの終わった球場の怖いほどの静寂。

 

周辺のポプラの並木は青々として風にひるがえり

蝉しぐれはいっこうに止まない。

 

生命の饗宴(狂騒)はいつもながらで

やれやれという心は

リアルに生じるならいでしたが

その映像を夜の夜中に見たのでした。

 

 

……。

 

 

だが待てよ。

 

三好達治は

何か理解できないものの出現に驚き

ある種の怖れを抱いたのではあるまいか。

 

それを否定するために

根こそぎ否定しなければならなくなったのではないか。

――などと、善意に解釈することもできるかな、なんて思ってみますが。

 

やっぱり、「測量船」の詩人ですから

測らなければ済まない詩人だったのですから

少しでも計算できないものがあると

もはや計算不能として退けるしかなかったのか、なんて思い直します。

 

 

帝国大学新聞での発言は

中原中也没後のことですから

中也自身はこれを読んでいません。

 

同じく中也が生前手にすることのなかった

第2詩集「在りし日の歌」は丁度この頃発行されました。
(4月発行、6月再刊。)

 

三好達治は

「ぶつくさ」よりもずっとずっと丁寧な「在りし日の歌」の批評を

1938年(昭和13年)9月号「文学界」に寄せます。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

 

 

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