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2017年1月20日 (金)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「倦怠」/朔太郎の評価

 

少し遡(さかのぼ)りますが

1935年(昭和10年)7月号「四季」に寄せたのが

「倦怠」です。

 

この倦怠は

「朝の歌」の「倦(う)んじてし 人のこころを」や

「汚れっちまった悲しみに……」に現われる倦怠(=けだい)などと

同じ流れにある感情といってよいものでしょうが

この詩に敏感に反応したのは

萩原朔太郎でした。

 

 

倦 怠

 

倦怠の谷間に落つる

この真ッ白い光は、

私の心を悲しませ、

私の心を苦しくする。

 

真ッ白い光は、沢山の

倦怠の呟(つぶや)きを掻消(かきけ)してしまい、

倦怠は、やがて憎怨となる

かの無言なる惨(いた)ましき憎怨………

 

忽(たちま)ちにそれは心を石と化し

人はただ寝転ぶより仕方もないのだ

同時に、果(はた)されずに過ぎる義務の数々を

悔いながらにかぞえなければならないのだ。

 

はては世の中が偶然ばかりとみえてきて、

人はただ、絶えず慄(ふる)える、木(こ)の葉のように

午睡から覚めたばかりのように

呆然(ぼうぜん)たる意識の裡(うち)に、眼(まなこ)光らせ死んでゆくのだ

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

萩原朔太郎は

1935年(昭和10年)「四季」夏号(8、9月合併号)の「詩壇時感」で

「四季の詩について」と題した批評文を書きます。

 

「倦怠」発表の次号に寄せられたものですから

時評みたいなものです。

 

その一部を読みましょう。

 

 

中原中也君の詩は、前に寄贈された詩集で拝見して居た。その詩集の中では、巻尾の方に収められた感想詩体のものが、僕にとつて最も興味深く感じられた。

 

(中略)

 

しかし今度の「倦怠」はこれとちがひ、相当技巧的にも凝った作品だが、前の詩集(山羊の歌)とは大に変つて、非常に緊張した表現であり、この詩人の所有する本質性がよく現れて居る。特に第三聯の「人はただ寝転ぶより仕方がないのだ。同時に、果されずに過ぎる義務の数々を、悔いながら数へなければならないのだ。」の三行がよく抒情的な美しい効果をあげてる。

 

(「新編中原中也全集)第1巻・詩Ⅰ解題篇より。改行を加えました。編者。)

 

 

朔太郎は「倦怠」を

技巧的にも凝った作品

前の詩集「山羊の歌」とは変わった

非常に緊張した表現

この詩人の所有する本質性が現われている

――とした上で、

第3連の3行を

抒情的な美しい効果

――と評しました。

 

人はただ寝転ぶより仕方がない

――にはじまる、この3行は

お行儀のよいのばかりが目立つ「四季」の詩を

飽き足らなく感じていた先輩詩人の本音に響いたことでしょう、きっと。

 

 

中也没後の1938年6月号「四季」は

「『山羊の歌』『在りし日の歌』に就いて――現代詩集研究Ⅲ」という小特集を組みますが

中で立原道造は「別離」を書き

中也の「倦怠の完成」と「僕らの親近の終り」の

逆説的な瞬間(出会いと別離)について述べます。

 

倦怠(けだい)は

朔太郎を通じて

立原道造へ反響してゆきました。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

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