中原中也が「四季」に寄せた詩/「倦怠」/朔太郎の評価
少し遡(さかのぼ)りますが
1935年(昭和10年)7月号「四季」に寄せたのが
「倦怠」です。
この倦怠は
「朝の歌」の「倦(う)んじてし 人のこころを」や
「汚れっちまった悲しみに……」に現われる倦怠(=けだい)などと
同じ流れにある感情といってよいものでしょうが
この詩に敏感に反応したのは
萩原朔太郎でした。
◇
倦 怠
倦怠の谷間に落つる
この真ッ白い光は、
私の心を悲しませ、
私の心を苦しくする。
真ッ白い光は、沢山の
倦怠の呟(つぶや)きを掻消(かきけ)してしまい、
倦怠は、やがて憎怨となる
かの無言なる惨(いた)ましき憎怨………
忽(たちま)ちにそれは心を石と化し
人はただ寝転ぶより仕方もないのだ
同時に、果(はた)されずに過ぎる義務の数々を
悔いながらにかぞえなければならないのだ。
はては世の中が偶然ばかりとみえてきて、
人はただ、絶えず慄(ふる)える、木(こ)の葉のように
午睡から覚めたばかりのように
呆然(ぼうぜん)たる意識の裡(うち)に、眼(まなこ)光らせ死んでゆくのだ
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
萩原朔太郎は
1935年(昭和10年)「四季」夏号(8、9月合併号)の「詩壇時感」で
「四季の詩について」と題した批評文を書きます。
「倦怠」発表の次号に寄せられたものですから
時評みたいなものです。
その一部を読みましょう。
◇
中原中也君の詩は、前に寄贈された詩集で拝見して居た。その詩集の中では、巻尾の方に収められた感想詩体のものが、僕にとつて最も興味深く感じられた。
(中略)
しかし今度の「倦怠」はこれとちがひ、相当技巧的にも凝った作品だが、前の詩集(山羊の歌)とは大に変つて、非常に緊張した表現であり、この詩人の所有する本質性がよく現れて居る。特に第三聯の「人はただ寝転ぶより仕方がないのだ。同時に、果されずに過ぎる義務の数々を、悔いながら数へなければならないのだ。」の三行がよく抒情的な美しい効果をあげてる。
(「新編中原中也全集)第1巻・詩Ⅰ解題篇より。改行を加えました。編者。)
◇
朔太郎は「倦怠」を
技巧的にも凝った作品
前の詩集「山羊の歌」とは変わった
非常に緊張した表現
この詩人の所有する本質性が現われている
――とした上で、
第3連の3行を
抒情的な美しい効果
――と評しました。
人はただ寝転ぶより仕方がない
――にはじまる、この3行は
お行儀のよいのばかりが目立つ「四季」の詩を
飽き足らなく感じていた先輩詩人の本音に響いたことでしょう、きっと。
◇
中也没後の1938年6月号「四季」は
「『山羊の歌』『在りし日の歌』に就いて――現代詩集研究Ⅲ」という小特集を組みますが
中で立原道造は「別離」を書き
中也の「倦怠の完成」と「僕らの親近の終り」の
逆説的な瞬間(出会いと別離)について述べます。
倦怠(けだい)は
朔太郎を通じて
立原道造へ反響してゆきました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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