中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「六月の雨」/三好達治の否定と肯定
三好達治が「詩集『在りし日の歌』」で取り上げる詩は
六月の雨
湖上
正午
老いたる者をして――「空しき秋」第十二――
――の4作品。
その詩一つ一つの鑑賞に入る前に
中也作品への総論、詩人論が
否定的な論調の中に展開され
各個の詩は
この総論(詩論・詩人論)の実例として引き出されます。
個々の詩への批評は
この総論の中に囲われていくことになりますが
他愛のない、取るに足りないことばかりなのに
三好達治は
その他愛のないことを針小棒大にあげつらいます。
詩の調子の乱調とか破調とかの破壊、
同じように、使う詩語、形容詞の破壊について
それが中原中也が意図したものであっても
受け入れられないことを表明します。
まるで測量士ででもあるかのように
微細な誤差をも許容しません。
◇
六月の雨
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
たちあらわれて 消えてゆく
たちあらわれて 消えゆけば
うれいに沈み しとしとと
畠(はたけ)の上に 落ちている
はてしもしれず 落ちている
お太鼓(たいこ)叩(たた)いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
お太鼓叩いて 笛吹いて
遊んでいれば 雨が降る
櫺子(れんじ)の外に 雨が降る
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
この詩は1936年(昭和11年)7月号の「文学界」誌上で発表になった
第6回文学界賞で選外1席となった作品として有名です。
岡本かの子の「鶴は病みき」が受賞し
中也の作品は2位でした。
◇
この詩単体について
三好達治の指摘するところは
簡単明瞭ですし
むしろ肯定的な評価です。
この詩が発表された時には
いまだにこのようにナイーブな作品を書けている詩人の心情を羨ましく感じたし
この詩にはある時期のベルレーヌの作風に通じるものがあると看取したものが
継続されればよいと期待していたものが
今では空しくなった、と述べるのです。
そう言いながら
第1連第3行、
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
――を、一種奇妙な調子外れ、と評し
第2行、
菖蒲(しょうぶ)のいろの
――を、菖蒲の色は何も特別ないろではない、という理由で
形容詞の使い方が不可解であることを述べるのですが
それだけのことです。
それだけのことが
三好達治には気に入らなかったのですが
それだけのことです。
よく読めば
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
――と中也は歌っているのを理解しないだけです。
◇
そのように詩語の使い方の不可解さを指摘しただけですが
第3連の、
畳の上で 遊びます
――を、
この作者ならではの、詩眼の特異さが仄見え
何の巧みを弄したわけでもないのに
不思議に切実な実感がある、と褒め上げています。
◇
「六月の雨」は
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
――と
菖蒲(しょうぶ)のいろの
――とによって
三好達治にNGを出されるのですが
結語としては高評価が下されているということになり
これも意外な感じであり驚きです。
◇
些細(ささい)と思われるようなところを
三好達治は執拗(しつよう)に過大に言う傾向があるようですが
それがスタイルでした。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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