中原中也が「四季」に寄せた詩/「独身者」と立原道造「旅人の夜の歌」
やや脱線しますが
立原道造が「或る不思議なよろこびに」とともに「四季」に寄せた
「旅人の夜の歌」を読んでおきましょう。
◇
旅人の夜の歌
Fräulein A Murohu gewidmet
降りすさむでゐるのは つめたい雨
私の手にした提灯(ちゃうちん)はやうやく
昏(くら)く足もとをてらしてゐる
歩けば歩けば夜は限りなくとほい
私はなぜ歩いて行くのだらう
私はもう捨てたのに 私を包む寝床も
あつたかい話も燭火(ともしび)も――それだけれども
なぜ私は歩いてゐるのだらう
朝が来てしまつたら 眠らないうちに
私はどこまで行かう……かうして
何をしてゐるのであらう
私はすつかり濡(ぬ)れとほつたのだ 濡れながら
悦ばしい追憶を なほそれだけをさぐりつづけ……
母の あの街のほうへ いやいや闇をただふかく
(角川文庫「新編立原道造詩集」昭和44年改版13版より。「四季」発表との異同は確認できていません。編者。)
◇
A Murohuとあるのは
室生犀星の娘、朝子のことで
彼女への献呈詩です。
詩人が
冷たい雨をモチーフにすることはありふれたことですが
中原中也にもあった記憶がよみがえります。
中也の詩とまるで違うところに
あじわいどころがあるのは当然ですが。
2人の詩人は
お互いの詩について
感想をやりとりすることはなかったのでしょうか。
エピグラフに引用するほどでしたから
何らかの言葉が交わされた公算は大きいのに。
◇
立原道造の歴史的仮名遣いは
なんだか似合わない感じを抱かざるを得ませんから
現代表記で読んでみましょう。
◇
旅人の夜の歌
Fräulein A Murohu gewidmet
降りすさんでいるのは つめたい雨
私の手にした提灯(ちょうちん)はようやく
昏(くら)く足もとをてらしている
歩けば歩けば夜は限りなくとおい
私はなぜ歩いて行くのだろう
私はもう捨てたのに 私を包む寝床も
あったかい話も燭火(ともしび)も――それだけれども
なぜ私は歩いているのだろう
朝が来てしまったら 眠らないうちに
私はどこまで行こう……こうして
何をしているのであろう
私はすっかり濡(ぬ)れとほったのだ 濡れながら
悦ばしい追憶を なおそれだけをさぐりつづけ……
母の あの街のほうへ いやいや闇をただふかく
◇
ゐる
ちゃうちん
やうやく
とほい
だらう
あつたかい
ゐるのだらう
しまつたら
行かう
かうして
ゐるのであらう
すつかり
とほつた
なほ
――と、これだけの歴史的表記を現代表記にしてみるだけで
詩は一気に現代に降り立つと思いませんか?
促音(そくおん)や拗音(ようおん)はともかく
ゐ、とか
だらう、とか
やうやく、とか
行かう、とか。
「ダラウ」とか「イカウ」とか
発音していたわけでもありませんし。
◇
途中ですが
今回はここまで。
« 中原中也が「四季」に寄せた詩/「独身者」と立原道造「或る不思議なよろこびに」 | トップページ | 中原中也が「四季」に寄せた詩/「ゆきてかえらぬ」蜘蛛の巣の輝き »
「057中原中也と「四季」」カテゴリの記事
- 中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/立原道造の「別離」という追悼(2017.02.03)
- 中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評・その3(2017.02.01)
- 中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評・その2(2017.01.30)
- 中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「老いたる者をして」/三好達治の否定と肯定・その4(2017.01.29)
- 中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「正午」/三好達治の否定と肯定・その3(2017.01.28)
« 中原中也が「四季」に寄せた詩/「独身者」と立原道造「或る不思議なよろこびに」 | トップページ | 中原中也が「四季」に寄せた詩/「ゆきてかえらぬ」蜘蛛の巣の輝き »
コメント