中原中也が「四季」に寄せた詩/「雪の賦」の孤児
1935年(昭和10年)12月号に「青い瞳」
1936年1月号に「除夜の鐘」
2月号に「冷たい夜」
5月号に「雪の賦」
6月号に「独身者」
7月号に「わが半生」
――と中也の「四季」への寄稿が続きますが
内容(モチーフ)を特別に「四季」向けにした様子はありません。
色々な顔を見せているのが
「四季」に限らない
中原中也の詩の在りかたと言えるでしょう。
とはいうものの
このラインナップには
共通しているものが見えています。
◇
雪の賦
雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁(ゆうしゅう)にみちたものに、思えるのであった。
その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾(おおたかげんご)の頃にも降った……
幾多(あまた)々々の孤児の手は、
そのためにかじかんで、
都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。
ロシアの田舎の別荘の、
矢来(やらい)の彼方(かなた)に見る雪は、
うんざりする程永遠で、
雪の降る日は高貴の夫人も、
ちっとは愚痴(ぐち)でもあろうと思われ……
雪が降るとこのわたくしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思えるのであった。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
大高源吾の頃とは、赤穂浪士の討ち入りがあった頃のこと。
孤児は、いつの時代にも存在するものですから
大高源吾の時代を含めて今も。
ロシアの田舎の別荘は、
ロシア革命を思わせる時代の冬の
限りなく奥深い雪原を見て思いにふける貴婦人の、と。
時を超え、場所を超えて
現在、目の当たりにしている雪が
詩人に呼び起こす感情。
◇
「除夜の鐘」を読んだ続きに
大高源吾が現われ
孤児が現われ
ロシア革命におののく貴婦人が現われます。
かなしくも
うつくしくも見えた上に
憂愁にみちたものに思えてくるのは
除夜の鐘の向うに囚人の思いを聞き取ろうとするのに似た
孤児への思いが詩人の胸の内にあったから、ではないか。
大高源吾は遠い日のこと、
ロシアの貴婦人は遠い場所のことでありながら
孤児はランボーに登場する
詩人の現在ですし。
何よりも
詩人は都会の夕べにいます。
かじかんでいるのは
詩人です。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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