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2017年1月30日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評・その2

 

 

間然とするところなし

 

――というのが

 

三好達治の最高の賛辞なのだとすれば

 

中原中也の詩の幾つかに見られる

 

破調、破格あるいは乱調までを含めた詩篇が

 

よい評価を受けることはあり得ないことでしょう。

 

 

 

中也詩のなかでも傑作の一つに違いのない「正午」は、

 

 

 

哀傷の詩魂が内に高まり顫動して、

 

外には温雅な詩語の美衣をまとった作風

 

――であるという理由で

 

「老いたる者をして」が非の打ちどころがないのに比べれば

 

劣っていると三好は考えました。

 

 

 

 

 

 

二つ(四つ)の詩を比較したのかどうか。

 

 

 

その点は断じることができませんが

 

この批評文の構成(流れ)から見て

 

やはり、比較して後の評価であると言うことはできるようです。

 

 

 

 

 

 

四つの詩の個々の鑑賞に入る前の

 

この批評文の書き出しには

 

すでに総論(詩人論)が置かれてあり

 

各論(四つの詩の鑑賞)は

 

それ自体が独立した形になっているとはいえ

 

この書き出しの流れの中にあります。

 

 

 

このフレーム(枠)の中で

 

各論は書かれています。

 

 

 

前後しましたが

 

総論の部分を読みましょう。

 

 

 

 

 

 

詩集「在りし日の歌」の紹介と

 

中原中也の詩風に就いて私見を述べるという前置きに続いて

 

本論に入ります。

 

 

 

本論は大きく前半と後半に分けることができます。

 

 

 

前半の冒頭では

 

ダダイストとして出発した中原中也の作品は

 

最後までダダイストの魂魄(こんぱく)に支配されたことが

 

結論的に指摘され

 

その理由が説明されます。

 

 

 

 

 

 

それ(=ダダイストの魂)は意識的であり

 

半ば無意識的であった。

 

 

 

中原式とも言えるもので

 

音数上の特異な調子ひとつを見ても

 

調子は意識と無意識が半分半分で

 

不意に中断されたり攪乱されたり

 

ついには壊されてしまう。

 

 

 

詩語の調子でしか詩想を繰り広げられなかった詩人が

 

どのような目的があって

 

こうした自己矛盾する破壊作業を作品の所々に仕掛けたのか。

 

 

 

作詞上の巧拙の問題ではなさそうだ。

 

 

 

そこに詩人の意図があったのだろうが

 

その意図は(私に)見えない。

 

 

 

言ってみれば

 

それは、中原中也という詩人が

 

全く孤独の世界に住んでいたからだろう。

 

 

 

 

 

 

詩の調子についてのこのような疑問は

 

詩語、そのうちの形容詞(の使い方)にも感じられるから

 

それは各論の中で言及しよう。

 

 

 

 

 

 

――というのが、総論の前半で述べられていることのあらましです。

 

 

 

詩語の調子を重んじた詩人が

 

破調を度々使うのを認めることはできない、

 

いまだにダダイズムを抜け切れていない

 

――と言いつづめることができるでしょう。

 

 

 

 

 

 

ここまでが

 

総論の前半部です。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

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