中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評・その2
間然とするところなし
――というのが
三好達治の最高の賛辞なのだとすれば
中原中也の詩の幾つかに見られる
破調、破格あるいは乱調までを含めた詩篇が
よい評価を受けることはあり得ないことでしょう。
中也詩のなかでも傑作の一つに違いのない「正午」は、
哀傷の詩魂が内に高まり顫動して、
外には温雅な詩語の美衣をまとった作風
――であるという理由で
「老いたる者をして」が非の打ちどころがないのに比べれば
劣っていると三好は考えました。
◇
二つ(四つ)の詩を比較したのかどうか。
その点は断じることができませんが
この批評文の構成(流れ)から見て
やはり、比較して後の評価であると言うことはできるようです。
◇
四つの詩の個々の鑑賞に入る前の
この批評文の書き出しには
すでに総論(詩人論)が置かれてあり
各論(四つの詩の鑑賞)は
それ自体が独立した形になっているとはいえ
この書き出しの流れの中にあります。
このフレーム(枠)の中で
各論は書かれています。
前後しましたが
総論の部分を読みましょう。
◇
詩集「在りし日の歌」の紹介と
中原中也の詩風に就いて私見を述べるという前置きに続いて
本論に入ります。
本論は大きく前半と後半に分けることができます。
前半の冒頭では
ダダイストとして出発した中原中也の作品は
最後までダダイストの魂魄(こんぱく)に支配されたことが
結論的に指摘され
その理由が説明されます。
◇
それ(=ダダイストの魂)は意識的であり
半ば無意識的であった。
中原式とも言えるもので
音数上の特異な調子ひとつを見ても
調子は意識と無意識が半分半分で
不意に中断されたり攪乱されたり
ついには壊されてしまう。
詩語の調子でしか詩想を繰り広げられなかった詩人が
どのような目的があって
こうした自己矛盾する破壊作業を作品の所々に仕掛けたのか。
作詞上の巧拙の問題ではなさそうだ。
そこに詩人の意図があったのだろうが
その意図は(私に)見えない。
言ってみれば
それは、中原中也という詩人が
全く孤独の世界に住んでいたからだろう。
◇
詩の調子についてのこのような疑問は
詩語、そのうちの形容詞(の使い方)にも感じられるから
それは各論の中で言及しよう。
◇
――というのが、総論の前半で述べられていることのあらましです。
詩語の調子を重んじた詩人が
破調を度々使うのを認めることはできない、
いまだにダダイズムを抜け切れていない
――と言いつづめることができるでしょう。
◇
ここまでが
総論の前半部です。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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