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2017年2月

2017年2月28日 (火)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/「小さな風景画」

 

 

「睡り椅子」4番目の詩が

「小さな風景画――わかれの歌――」です。

 

この詩も

歴史的かな遣いで書かれているのは

戦前の作であることを示すか

戦後の国語国字改革以後もいわば惰性で

戦前の歴史的かな遣いの使用に従っていたことを示すか

あるいは

歴史的かな遣いのほうが自作の表記に敵うと考えていたことを示すか

いずれかに相当するでしょうか。

 

ほかの理由があったかもしれません。

 

比較的古い作品であることは

間違いないことでしょう。

 

 

小さな風景画

     ――わかれの歌――

 

みつめてゐると

その額縁はまどのやうに

ふたりの前にひらいてゐるのです

わびしさのきはみの様な此の部屋の

罪の裏さへ晴れやかに明るいのは

どうやら光がそこからさしてゐるためでした

 

遠い杜の 樹木たちの

一葉(ひとは)一葉が次第にはつきり見えて来て

緑が陽にもえ

はてはよろこびに鳴る葉ずれの音までが

手にとる様に聞こえるのでした

おお涼しい風!

これは彼方の蒼空に生れ

若い樹木たちの間を縫つて

少年の様に口笛を吹きながら流れ込んで来た風

 

あなたは 靴を

穿いていらつしやるの?

 

さうでした!  さうでした!

 

あなたもやつぱり画の中の

杜の方からやつていらつしやつたのでした!

おみやげの花束は

あの杜かげに咲いたゆかしい白すみれ

やさしいにほいをそつとのこして

お帰りになつたとて何のふしぎがありませう

 

泣かないでおわかれしませう

微笑んでさよならしませう

画の中へ

お帰りになるあなた――

あのほそい小径をとほつて

いとしい姿が杜にかくれてしまふのを

見るのがとてもつらいので

わたしはかうして眼をつぶります

 

さやうなら

さやうなら

 

(花神社「新川和江全集」所収「睡り椅子」より。)

 

 

この詩の語り手は

誰に向かって呼びかけているのでしょうか?

 

 

ひらいてゐるのです

さしてゐるためでした

聞こえるのでした

――とある詩の前半部は

相手というより

自分を納得させるため

あるいは

第3者(読者)のために案内しているようにも思わせながら

後半部に入って「あなた」が現われて

あなたへ呼びかけるようになります。

 

この変化は自然なものですが

この変化は

一つの風景画の中へ

この語り手が没入していく過程でもあります。

 

読者は自然に

語り手とともに

絵の中の登場人物になり

最後にさようならを言う主人公になります。

 

 

風景画を見ている語り手(=詩人)は

いつしか風景画の中の物語に入り込んでしまう――。

 

現実と非現実の境を

新川和江が

ひょいと乗り越えてしまう瞬間(現場)の一つです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年2月25日 (土)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/「雪の蝶」その2

現代口語でしゃべっていたに違いのない詩人にも

歴史的仮名遣いで書いていた時代があったのだなあ、という

感慨をおぼえさせる詩です。

 

なんとも思わない人もいることでしょうけれど。

 

 

「 」で括られた第2連をどう読むか。

 

この連の主体は

この詩を作った人=詩人であるほかに考えられませんが

この言葉はすでに3年前に

詩人の口から言われたものでしょうか。

 

それとも

これから言われようとしているところで

詩人の胸につかえている状態なのでしょうか。

 

いま、その言葉が

雪降る窓辺に駆けめぐっているようでもあり

その窓辺に小さな蛾のように降り立つ雪の蝶が

相手の腕時計のガラスにも降り立っているであろうことが

ありありと見えているのかもしれません。

 

いずれにしても

二人の間に存在する言葉です。

 

別れの言葉です。

 

 

3年目になった逢瀬を

この詩の主体(=詩人)は

すでに告げたとしても

告げないまま胸に押さえて今に至っているにしても

打ち切ることを決断したことを示す

緊迫した状態を表しています。

 

いま、脳裏を駆けめぐるのは

3年目に至るまでの逢瀬の

数々の思い出であるかもしれません。

 

しかし約束を破ってまでも

行かなかったのです。

 

そうするよりほかに

打つ手がなかったという事情を

否応もなく想像せざるを得ません。

 

 

くもり硝子の窓をあけて

小さな蛾のような雪を払えば

たちまちに溶けて指先に水になってゆきますが。

 

それは指先ばかりに生じる

小さな感傷みたいなことで

世界は雪景色――。

 

降り積もろうとして

しんしんと万物に襲いかかっていました。

 

 

雪景色に至る時間の積み重なりが

蛾のような

蝶のような

――という対比的な雪の姿態に喩(たと)えられて

艶(なま)めかしく捉えられました。

 

 

雪の蝶

 

約束の場所へは

たうとう出かけなかった

冬の終りの日に

まつたく思ひまうけぬ朝からの雪だつた

こころ落ち着かぬわたしの部屋の窓に

ときをり

小さな蛾の様に音もなく来てとまる雪

いまごろはあの街角で

わたしを待ちわび またもや覗く腕時計の

うすいガラスのうへにも

ふと とまつたにちがひない 雪の蝶

 

「三年目

 このめぐりあひに甘えてはならないのです

 コートの肩のつめたいものをはらつて

 おねがひ お帰り下さい

 逢つてはいけない二人でした」

 

くもり硝子の窓をあけ

とまつた小さな蛾をはらへば

たまゆらにとけてあたたかな指先をぬらすのみであつた

見れば

庭石をおほい 樹木をつつみ

屋根に 垣根に 水仙の黄に

わたしをひとり塗りのこして

しんしんと万象(ものみな)に降りつむ

純白の雪 雪 雪

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「睡り椅子」より。原詩のルビは( )で示しました。編者。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年2月24日 (金)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/「雪の蝶」

 

「睡り椅子」は

1953年プレイアド社刊。

 

結婚して上京し

5年が経っていた頃に出した

新川和江、最初の詩集でした。

 

1953年は昭和28年であり

詩人24歳になる年のことでしたから

西條八十を初めて訪ねた1944年1月から

9年という月日が流れています。

 

中に「雪の蝶」はあります。

 

 

雪の蝶

 

約束の場所へは

たうとう出かけなかった

冬の終りの日に

まつたく思ひまうけぬ朝からの雪だつた

こころ落ち着かぬわたしの部屋の窓に

ときをり

小さな蛾の様に音もなく来てとまる雪

いまごろはあの街角で

わたしを待ちわび またもや覗く腕時計の

うすいガラスのうへにも

ふと とまつたにちがひない 雪の蝶

 

「三年目

 このめぐりあひに甘えてはならないのです

 コートの肩のつめたいものをはらつて

  おねがひ お帰り下さい

  逢つてはいけない二人でした」

 

くもり硝子の窓をあけ

とまつた小さな蛾をはらへば

たまゆらにとけてあたたかな指先をぬらすのみであつた

見れば

庭石をおほい 樹木をつつみ

屋根に 垣根に 水仙の黄に

わたしをひとり塗りのこして

しんしんと万象(ものみな)に降りつむ

純白の雪 雪 雪

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「睡り椅子」より。原詩のルビは( )で示しました。編者。)

 

 

詩集「睡り椅子」は

雪の蝶

都会の靴

昨日の時計

――の3章で構成されていて

その第1章のタイトル詩です。

 

第1詩集の第1章のタイトルになった詩ですから

「睡り椅子」の世界への入り口のような詩でありそうな――。

 

 

抒情の源流を求めて

ちいさな旅をまたはじめます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年2月22日 (水)

立原道造の詩を読む/「暁と夕の詩」の5番詩「真冬の夜の雨に」

 

 

「未成年」は1935年創刊の同人誌で

 

1936年夏に廃刊になりました。

 

 

 

立原道造も創刊同人として参加していたが

 

同人の寺田透と立原とが対立したことが廃刊の原因でした。

 

 

 

その「未成年」第6号(1936年5月号)に発表したのが

 

「真冬の夜の雨に」でしたが

 

初出は物語「ちひさき花の歌」の「結びのソネット」に引用されました。

 

 

 

その時、副題に

 

「暁の夕の詩。第5番。」とありました。

 

(※「暁と夕の詩」の間違いらしいのですが、原文ママとするならいのようです。)

 

 

 

 

 

 

Ⅴ 真冬の夜の雨に

 

 

 

あれらはどこに行つてしまつたか?

 

なんにも持つてゐなかつたのに

 

みんな とうになくなつてゐる

 

どこか とほく 知らない場所へ

 

 

 

真冬の雨の夜は うたつてゐる

 

待つてゐた時とかはらぬ調子で

 

しかし帰りはしないその調子で

 

とほく とほい 知らない場所で

 

 

 

なくなつたものの名前を 耐へがたい

 

つめたいひとつ繰りかへしで――

 

それさへ 僕は 耳をおほふ

 

 

 

時のあちらに あの青空の明るいこと!

 

その望みばかりのこされた とは なぜいはう

 

だれとも知らない その人の瞳の底に?

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

Ⅴ 真冬の夜の雨に

 

 

 

あれらはどこに行ってしまったか?

 

なんにも持っていなかったのに

 

みんな とうになくなっている

 

どこか とおく 知らない場所へ

 

 

 

真冬の雨の夜は うたっている

 

待っていた時とかわらぬ調子で

 

しかし帰りはしないその調子で

 

とおく とおい 知らない場所で

 

 

 

なくなったものの名前を 耐えがたい

 

つめたいひとつ繰りかえしで――

 

それさえ 僕は 耳をおおう

 

 

 

時のあちらに あの青空の明るいこと!

 

その望みばかりのこされた とは なぜいおう

 

だれとも知らない その人の瞳の底に?

 

 

 

 

 

 

第1連

 

なんにも持っていなかったのに

 

みんな とうになくなっている

 

――という

 

持っていなかったのに、なくなっている

 

――齟齬(そご)や

 

 

 

第2連

 

待っていた時とかわらぬ調子で

 

しかし帰りはしないその調子で

 

――という

 

待っていた時の調子が、帰りはしない調子で

 

――と飛躍になるような

 

こういう詩法(レトリック)を

 

詩人は完成の域に達成しています。

 

 

 

 

 

 

第3連

 

なくなったものの名前を 耐えがたい

 

――という時の、耐えがたい、も

 

つめたいひとつ繰りかえしで――

 

――という次行への連なりで捉えないと

 

いかにも矛盾したようなことになりますが

 

これも完成されたレトリックになりました。

 

 

 

 

 

 

前作「眠りの誘ひ」の

 

物語的な(一方向へ流れる時間の)詩の作り方を

 

わざと壊すような詩行の流れです。

 

 

 

 

 

 

(世界中はさらさらと粉の雪)であったのが

 

真冬の夜の雨が歌っているのですし。

 

 

 

あれらは、どこかに行ってしまったのですし。

 

 

 

耐えがたい

 

冷たい一つ繰り返しですし。

 

 

 

僕は、耳をおおいます。

 

 

 

 

 

 

それにしても最終行

 

だれとも知らない その人の瞳の底に?

 

――の、その人は謎です。

 

 

 

うしなった女性でしょうか。

 

 

 

 

 

 

あの青空の明るいこと!

 

――と歌わせる光のようなものが

 

詩人に見えていたことが

 

最終連3行の、この入り組んだレトリックの背後から

 

浮んでくるようではあります。

 

 

 

 

 

 

人間がそこでは金属となり結晶質となり天使となり、生きたる者と死したる者との中間者と

 

して漂う。死が生をひたし、僕の生の各瞬間は死に絶えながら永遠に生きる。

 

 

 

 

 

 

「風信子🉂」の一節がよみがえりますが

 

この詩に直(じか)に関係するかは不明です。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

2017年2月21日 (火)

立原道造の詩を読む/「暁と夕の詩」の4番詩「眠りの誘ひ」

 

 

4番詩「眠りの誘ひ」は

 

紫式部学会編集の教養雑誌「むらさき」の

 

1937年2月号に発表されました。

 

 

 

 

 

 

Ⅳ 眠りの誘ひ

 

 

 

おやすみ やさしい顔した娘たち

 

おやすみ やはらかな黒い髪を編んで

 

おまへらの枕もとに胡桃色(くるみいろ)にともされた燭台のまはりには

 

快活な何かが宿つてゐる(世界中はさらさらと粉の雪)

 

 

 

私はいつまでもうたつてゐてあげよう

 

私はくらい窓の外に さうして窓のうちに

 

それから 眠りのうちに おまへらの夢のおくに

 

それから くりかへしくりかへして うたつてゐてあげよう

 

 

 

ともし火のやうに

 

風のやうに 星のやうに

 

私の声はひとふしにあちらこちらと……

 

 

 

するとおまへらは 林檎(りんご)の白い花が咲き

 

ちひさい緑の実を結び それが快い速さで赤く熟れるのを

 

短い間に 眠りながら 見たりするであらう

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

Ⅳ 眠りの誘い

 

 

 

おやすみ やさしい顔した娘たち

 

おやすみ やわらかな黒い髪を編んで

 

おまえらの枕もとに胡桃色(くるみいろ)にともされた燭台のまわりには

 

快活な何かが宿っている(世界中はさらさらと粉の雪)

 

 

 

私はいつまでもうたっていてあげよう

 

私はくらい窓の外に そうして窓のうちに

 

それから 眠りのうちに おまえらの夢のおくに

 

それから くりかえしくりかえして うたっていてあげよう

 

 

 

ともし火のように

 

風のように 星のように

 

私の声はひとふしにあちらこちらと……

 

 

 

するとおまえらは 林檎(りんご)の白い花が咲き

 

ちいさい緑の実を結び それが快い速さで赤く熟れるのを

 

短い間に 眠りながら 見たりするであろう

 

 

 

 

 

 

この詩で「私」は歌う人です。

 

 

 

子守唄でも歌うかのように

 

ともし火のように

 

風のように

 

星のように。

 

 

 

それを聞かせられる娘たちは眠りのなかで

 

林檎の白い花が咲き

 

小さい緑の実を結び

 

赤く熟れるのを見るであろうと歌うだけです。

 

 

 

 

 

 

僕の住んでいゐたのは、光と闇との中間であり、暁と夕との中間であつた。

 

――と「風信子🉂」で表白した詩人に通じる

 

おそれとおののきがここには存在するでしょうか。

 

 

 

ともし火とか

 

風とか星とか。

 

 

 

中間に存在してうたう詩人のおそれとおののきと――。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

立原道造の詩を読む/第2詩集「暁と夕の詩」の成り立ち・その3/風信子(ヒヤシンス)の苦悩

 

 

素手で詩を読む限界というものがあるでしょう。

 

 

 

そういうような場合に

 

背景とか環境とか状況とか

 

その詩を生んだ外的な契機とは別の

 

内的な動機を知り得れば

 

詩の中へよりいっそう親しく入り込むことが可能になります。

 

 

 

詩集「暁と夕の詩」をひもとくための重要な記述を

 

詩人自身が残してくれています。

 

 

 

 

 

 

失はれたものへの哀傷といい、何かしら疲れた悲哀といひ、僕の住んでいゐたのは、光と

 

闇との中間であり、暁と夕との中間であつた。形ないものの、淡々しい、否定も肯定も中止

 

された、ただ一面に影も光もない場所だつたのである。人間がそこでは金属となり結晶質

 

となり天使となり、生きたる者と死したる者との中間者として漂う。死が生をひたし、僕の生

 

の各瞬間は死に絶えながら永遠に生きる。すべてのものは壊されつくしている、果敢ない

 

清らかな冒険を言ひながら、僕がすべてのものを壊しつくしてその上に漂つた、と僕の心

 

がささやく。おそれとおののきとが、むしろ親しい友である、尖らされた危ない場所だつた、

 

と今の僕の心は何かさびしげにことあげする

 

 

 

 

 

 

これは「四季」1938年1月号、12月20日)発表された

 

随想「風信子🉂」の記述の一部です。

 

 

 

このような激しい内的興奮(おそれとおののき)を経て

 

詩集「暁と夕の詩」は生み落されました。

 

 

 

これは通常では

 

苦悩と呼ぶようなことではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

一度死んだ者は、二度生きねばならない。生よりも死について知つているからこそ生きて

 

ゐられると、もの忘れよと吹く南風をたのむな。決意と拒絶という二つの言葉が生きるとい

 

う事実にむかひあふ、生きるとは、限りなく愛し、限りなく激しくあることだと。光が誘う。ここ

 

に出発がある、たつた一度の意味で。おまへが死のうと生きようと、僕は生きていたいの

 

だ! と。

 

 

 

 

 

 

同じ文の中では

 

さらにこのように激しく

 

自らへ、あるいは、親しい人たちへ告白するかのように

 

訴えました――。

 

 

 

 

 

 

第1詩集「萱草に寄す」の

 

甘やかな調べは

 

どこへ行ってしまったのか。

 

 

 

不思議に感じていたものが

 

一気に溶けだしていくような

 

ショックを覚えざるを得ません。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

2017年2月20日 (月)

立原道造の詩を読む/第2詩集「暁と夕の詩」の成り立ち・その2/不思議なジグザグ

 

 

この本がイメージとなつて凝りかけた夏の日から今、かうしてひとつの物体になり終へて机

 

の上におかれる冬の夜までに、その短い間に、僕の生は、全く不思議なジグザグを描い

 

た。

 

――とある「不思議なジグザグ」とはどのようなものだったか?

 

 

 

1937年の夏から冬の間の

 

立原道造の足取りを年譜で見てみましょう。

 

 

 

立原道造は7月30日生まれですから

 

24歳になって以後、半年の軌跡になります。

 

 

 

 

 

 

1937年((昭和12年)。

 

 

 

4月に石本建築設計事務所に就職し

 

日々、建築図面を書いて生計を立てていました。

 

 

 

6月5日。

 

水戸部アサイを誘い、日帰りで軽井沢に行く。

 

追分駅近くの草むらで水戸部にプロポーズした。

 

 

 

7月はじめに

 

第1詩集「萱草に寄す」が刊行されました。

 

奥付は5月12日付けとなっていましたから

 

2か月ほど遅れたことになります。

 

 

 

「文芸」7月号に「溢れひたす闇に」発表。

 


「四季」8月号(7月20日)に詩「不思議な川辺で」、「編輯後記」発表。

 

軽井沢での避暑に出かける室生犀星に頼まれ

 

7月19日から大森馬込の犀星邸(魚眠洞)に住み

 

ここから勤務先の石本建築事務所へ通勤する。

 

9月上旬まで。

 

 

 

この間、8月5日には軽井沢の油屋で行われた「四季」の会へ参加。

 

土曜日の午後に上野を発ち

 

月曜日の朝帰京しそのまま出勤する日を繰り返した。

 

9月12日付け 「都新聞」に詩「真冬のかたみに」発表。

 

夏、徴兵検査、丙種不合格。

 

身長175センチ、体重49キロ。

 

 

 

この頃、キルケゴール「反覆」を読み、物語「鮎の歌」の最終章を下書き(未発見)。

 

 

 

「やがて秋に……」を「四季」10月号(9月20日)に発表。

 

 

 

10月、肋膜炎。

 

医師から安静を命じられ、建築事務所を欠勤。1か月自宅で静養。

 

 

 

10月22日、中原中也死去。

 

24日の葬儀に病を押して参列しました。

 

 

 

室生犀星を訪問した後、休養を兼ねて軽井沢の油屋に滞在中の11月19日、

 

油屋が全焼。九死に一生を得るという災難に遭遇しました。22日帰京。

 

 

 

12月上旬、丸山薫から「暁と夕の詩」の広告文を受け取ります。

 

かねて待望していたものでした。

 

12月上旬、神保光太郎の結婚披露宴に列席。

 

 

 

12月20日、「暁と夕の詩」発行。

 

9月に刊行予定でした。

 

 

 

12月、神保光太郎の住む浦和に「ヒアシンス(風信子)ハウス」を計画。

 

「四季」(1938年1月号、12月20日)に詩「初冬(けふ 私のなかで)」、随想「風信子

 

[二]」発表。

 

 

 

年明けて1938年1月16日。

 

「暁と夕の詩」の出版記念「風信子の会」が銀座で開催されました。

 

「四季」「未成年」同人ら25人が出席。

 

 

 

建築事務所の職員、水戸部アサイとの結婚話が進んでいます。

 

 

 

中原中也への追悼文「別離」、堀辰雄論「風立ちぬ」を発表したのは

 

「四季」6月号(5月20日発行、第37号)でした。

 

 

 

 

 

 

以上、筑摩書房「立原道造全集」第5巻巻末の年譜のほか、

 

一部、岩波文庫「立原道造詩集」年譜を参照しました。

 

 

 

「暁と夕の詩」の成り立ちを知る

 

一つの手がかりになることでしょう。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

2017年2月19日 (日)

立原道造の詩を読む/「暁と夕の詩」の3番詩「小譚詩」

 

3番詩「小譚詩」が発表されたのは
「四季」1936年(昭和11年)5月号でした。

 

そのとき
「(暁と夕の詩)・第3番」とタイトルに付記されていたのですから
第1詩集「萱草に寄す」の発行以前に
すでにこの第2詩集の編集がはじまっていたことを示す一例です。

 

譚詩は物語詩。

 

 

 小譚詩

 

一人はあかりをつけることが出来た
そのそばで 本をよむのは別の人だつた
しづかな部屋だから 低い声が
それが隅の方にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)

 

一人はあかりを消すことが出来た
そのそばで 眠るのは別の人だつた
糸紡ぎの女が子守の唄をうたつてきかせた
それが窓の外にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)

 

幾夜も幾夜もおんなじやうに過ぎて行つた……
風が叫んで 塔の上で 雄鶏が知らせた
――
兵士(ジアツク)は旗を持て 驢馬は鈴を掻き鳴らせ!

 

それから 朝が来た ほんとうの朝が来た
また夜が来た また あたらしい夜が来た
その部屋は からつぽに のこされたままだつた

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

【現代表記】

 

 小譚詩

 

一人はあかりをつけることが出来た
そのそばで 本をよむのは別の人だった
しずかな部屋だから 低い声が
それが隅の方にまで よく聞えた(みんなはきいていた)

 

一人はあかりを消すことが出来た
そのそばで 眠るのは別の人だった
糸紡ぎの女が子守の唄をうたってきかせた
それが窓の外にまで よく聞えた(みんなはきいていた)

 

幾夜も幾夜もおんなじように過ぎて行った……
風が叫んで 塔の上で 雄鶏が知らせた
――
兵士(ジャック)は旗を持て 驢馬は鈴を掻き鳴らせ!

 

それから 朝が来た ほんとうの朝が来た
また夜が来た また あたらしい夜が来た
その部屋は からっぽに のこされたままだった

 

 

前詩「やがて秋……」が
季節(とき)の巡りだけを歌ったかのようであるのに
バランスを取るかのように
この詩は生き物たちの暮らしの一コマが
渇望されたかのように歌われます。

 

追分村でのコミュニティーに似た体験が
モデルになっているのでしょうか。

 

それとも渇望そのものでしょうか。

 

あるいはやがて展開される物語「アンリエットとその村」への
架橋のためのイントロでしょうか。

 

夜の闇をさまよう魂が
パッと開けたような視界に立ちます。

 

しかし、
最後の1行
その部屋は からっぽに のこされたままだった
――
は、
ポカリと空いた詩人の内部の
空洞を映し出しているように見えなくもありません。

 

詩心は限りない円環へ向かうのでしょうか?

 

 

詩集「暁と夕の詩」は、

 

生涯のひとつの奇妙な時期に、僕の詩集《暁と夕の詩》が完成した。風信子叢書第二篇である。僕の憶ひのなかにこの本がイメージとなつて凝りかけた夏の日から今、かうしてひとつの物体になり終へて机の上におかれる冬の夜までに、その短い間に、僕の生は、全く不思議なジグザグを描いた。

 

――と詩人が記す「ジグザグ」の果ての産物でした。

 

 

つづく。

 

 

 

 

2017年2月18日 (土)

立原道造の詩を読む/「暁と夕の詩」の2番詩「やがて秋……」

 

 

第1番詩「或る風に寄せて」は

 

夕ぐれが夜に変るたび

 

――とすでに夜を歌いました。

 

 

 

おまえは 西風よ みんななくしてしまった と 

 

――とも。

 

 

 

 

 

 

2番詩は季節(とき)を巡らせます。

 

 

 

 

 

 

Ⅱ やがて秋……

 

 

 

やがて 秋が 来るだらう

 

夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ

 

樹木が老いた人たちの身ぶりのやうに

 

あらはなかげをくらく夜の方に投げ

 

 

 

すべてが不確かにゆらいでゐる

 

かへつてしづかなあさい吐息にやうに……

 

(昨日でないばかりに それは明日)と

 

僕らのおもひは ささやきかはすであらう

 

 

 

――秋が かうして かへつて来た

 

さうして 秋がまた たたずむ と

 

ゆるしを乞ふ人のやうに……

 

 

 

やがて忘れなかつたことのかたみに

 

しかし かたみなく 過ぎて行くであらう

 

秋は……さうして……ふたたびある夕ぐれに――

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 





【現代表記】

 

Ⅱ やがて秋……

 

 

 

やがて 秋が 来るだろう

 

夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ

 

樹木が老いた人たちの身ぶりのように

 

あらわなかげをくらく夜の方に投げ

 

 

 

すべてが不確かにゆらいでいる

 

かえってしずかなあさい吐息にように……

 

(昨日でないばかりに それは明日)と

 

僕らのおもいは ささやきかわすであろう

 

 

 

――秋が こうして かえって来た

 

そうして 秋がまた たたずむ と

 

ゆるしを乞う人のように……

 

 

 

やがて忘れなかったことのかたみに

 

しかし かたみなく 過ぎて行くであろう

 

秋は……そうして……ふたたびある夕ぐれに――

 

 

 

 

 

 

夕ぐれが僕らにはなしかける。

 

(――とある僕らとは僕と誰のことでしょうか?)

 

 

 

樹木は夜の方へ遠のいている。

 

 

 

 

 

 

すべてが不確かに揺らいでいるところ。

 

かえって静かな浅い吐息のような時。

 

 

 

昨日ではない(のがはっきりしているのだから)

 

明日であるに違いない。

 

 

 

<過ぎ去った時が戻らないということのなかに明日はあるのだから>と

 

僕らの思いが重なりあう。

 

 

 

 

 

 

秋はここのようにして巡って来た

 

そうして秋はまたたたずむ。

 

 

 

許しを乞う人のように。

 

 

 

 

 

 

やがて忘れなかったことの形として

 

形もなく過ぎていく。

 

 

 

秋は再びある夕ぐれに巡りあう。

 

 

 

 

 

 

「暁と夕の詩」は組曲です。

 

 

 

そのことは第2詩集「暁と夕の詩」のために書かれた

 

詩人自身の名高い覚書に明らかにされています。

 

 

 

詩人はその中でこの詩集のことを

 

独逸風のフルート曲集と記しています。

 

 

 

 

 

 

第1番詩「やがて秋……」の主役は

 

夕ぐれ。

 

 

 

――という時間なのかもしれません。

 

 

 

人(の営み)は背景の中に後退し

 

夕ぐれだけが曲を奏でるかのようです。

 

 

 

 

 

 

つづく。

2017年2月16日 (木)

立原道造の詩を読む/「暁と夕の詩」の夕の歌「或る風に寄せて」

 

 

「失はれた夜に」がはじめ

 

「ある不思議なよろこびに」のタイトルで

 

中原中也の詩をエピグラフに引用していたという理由で

 

詩集「暁と夕の詩」をひもとくきっかけにして

 

詩集の後半部をざっと読んできました。

 

 

 

夜の闇をさまよう詩人は

 

朝の光りに辿りついたのでしょうか?

 

 

 

最終詩「Ⅹ 朝やけ」に至っても

 

夜は明けていないようでした。

 

 

 

前半部を読んでいきます。

 

 

 

 

 

 

Ⅰ 或る風に寄せて

 

 

 

おまへのことでいつぱいだつた 西風よ

 

たるんだ唄のうたひやまない 雨の昼に

 

とざした窗(まど)のうすあかりに

 

さびしい思ひを噛みながら

 

 

 

おぼえてゐた をののきも 顫(ふる)へも

 

あれは見知らないものたちだ……

 

夕ぐれごとに かがやいた方から吹いて来て

 

あれはもう たたまれて 心にかかつてゐる

 

 

 

おまへのうたつた とほい調べだ――

 

誰がそれを引き出すのだらう 誰が

 

それを忘れるのだらう……さうして

 

 

 

夕ぐれが夜に変るたび 雲は死に

 

そそがれて来るうすやみのなかに

 

おまへは 西風よ みんななくしてしまつた と

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

Ⅰ 或る風に寄せて

 

 

 

おまえのことでいっぱいだった 西風よ

 

たるんだ唄のうたいやまない 雨の昼に

 

とざした窗(まど)のうすあかりに

 

さびしい思いを噛みながら

 

 

 

おぼえていた おののきも 顫(ふる)えも

 

あれは見知らないものたちだ……

 

夕ぐれごとに かがやいた方から吹いて来て

 

あれはもう たたまれて 心にかかっている

 

 

 

おまえのうたった とおい調べだ――

 

誰がそれを引き出すのだろう 誰が

 

それを忘れるのだろう……そうして

 

 

 

夕ぐれが夜に変るたび 雲は死に

 

そそがれて来るうすやみのなかに

 

おまえは 西風よ みんななくしてしまった と

 

 

 

 

 

 

西風は秋風でしょうか?

 

夕暮れのたびに陽の沈む方から吹いてくる。

 

 

 

どこからか あまり上手ではない(のんびりとした)歌が聞こえてきます。

 

雨の昼どき。

 

 

 

窓を閉ざしたうすらあかりの部屋で

 

僕はさびしい思いを噛みしめている。

 

 

 

 

 

 

おぼえていた おののきも 顫(ふる)えも

 

あれは見知らないものたちだ……

 

 

 

 

 

 

こういう詩行に

 

少し戸惑うのは致し方ないことでしょう。

 

 

 

おぼえていた、は

 

前連の、噛みながら、から連続しながら

 

 

 

おぼえていた、と

 

見知らない、と齟齬(そご)する関係。

 

 

 

見知らない(=初めてである)に重心をおいて

 

読みます、とりあえず。

 

 

 

夕暮れどきに日没する方角から吹いてくる風が

 

僕のこころを支配しています。

 

 

 

 

 

 

おまえ=西風が歌った遠い調べが

 

どんな調べ(メロディー)だったのか。

 

 

 

さびしい思いを掻き立てるのだけは

 

確かです。

 

 

 

誰が吹かせるのだろう?

 

そして

 

誰が忘れるのだろう?

 

 

 

 

 

 

夕暮れは夜に変わるたびに

 

雲は消え失せ

 

次第に濃くなってくる薄闇の中に

 

おまえ、西風よ

 

寂しさも憂(うれ)わしさもなにもかも

 

みんな失くしてしまった――。

 

 

 

 

 

 

3度現れる「おまえ」が

 

全て西風なのか。

 

 

 

女性の影が

 

見えなくもない。

 

 

 

女性でなくてはならないものでもなく。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

2017年2月15日 (水)

立原道造の詩を読む/第2詩集「暁と夕の詩」の成り立ち

 

 

「暁と夕の詩」に収録された詩は

 

「さすらひ」を除いて

 

すべてが雑誌や詩誌に発表されたものです。

 

 

 

それを見ておくと、

 

 

 

Ⅰ 或る風に寄せて 「四季」1935年(昭和10年)10月号

 

Ⅱ やがて秋……  「四季」1937年(昭和12年)10月号

 

Ⅲ 小譚詩      「四季」1936年(昭和11年)5月号

 

Ⅳ 眠りの誘ひ    「むらさき」1937年2月号

 

Ⅴ 真冬の夜の雨に 「未成年」1936年5月号

 

Ⅵ 失はれた夜に  「四季」1936年6月号

 

Ⅶ 溢れひたす闇に 「文芸」1937年7月号

 

Ⅷ 眠りのほとりに  「四季」1937年6月号

 

Ⅸ さまよひ 

 

Ⅹ 朝やけ      「四季」1936年春季号

 

 

 

――となります。

(以上、筑摩書房「立原道造全集」第1巻・解題より。)

 

 

 

 

 

 

このうち

 

「Ⅶ 失はれた夜に」は、

 

「四季」初出のときには

 

「ある不思議なよろこびに」のタイトルで

 

題詞(エピグラフ)に中原中也の詩「無題」の引用がありました。

 

 

 

「Ⅲ 小譚詩」が「四季」に発表されたときには

 

「暁と夕の詩・第3番」と題に付記されていました。

 

 

 

「Ⅴ 真冬の夜の雨に」は物語「ちいさき花の歌」に初出したとき

 

末尾に「結びのソネット」とあり

 

副題に「暁の夕の詩。第5番」(ママ)とありました。

 

(のちに「未成年」に発表され、「暁と夕の詩」に収録されました。)

 

 

 

「Ⅶ 溢れひたす闇に」は物語「鮎の歌」に初出したとき

 

「結びのソネット」として末尾にあり

 

副題に「暁と夕の詩・第7番」とありました。

 

 

 

 

 

 

全10作のうち

 

1936年5月号「四季」に発表した「小譚詩」に

 

「暁と夕の詩・第3番」と記されていることなどから

 

詩集「暁と夕の詩」はこの頃から構想され

 

編集がはじめられていたものと考えられています。

 

 

 

第1詩集「萱草に寄す」の刊行は

 

1937年7月ですから

 

それより以前にすでに第2詩集「暁と夕の詩」は

 

構想(編集)されていたということになります。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

立原道造の詩を読む/「暁と夕の詩」の最終詩「朝やけ」

 

 

朝やけよ! 早く来い――眠りよ! 覚めよ……

 

つめたい灰の霧にとざされ 僕らを凍らす 粗(あら)い日が

 

訪れるとき さまよふ夜よ 夢よ ただ悔恨ばかりに!

 

――と「さまよひ」で歌ってのちに、

 

 

 

「暁と夕の詩」の最終詩「朝やけ」では

 

夜を脱したのでしょうか?

 

 

 

さまよふ夜よ 夢よ ただ悔恨ばかりに!

 

――と歌った悔恨は

 

詩人のこころから立ち去ったでしょうか?

 

 

 

昨夜の眠りはよごれた死骸と化し

 

僕は亡霊のような女性の影を見ます。

 

 

 

 

 

 

Ⅹ 朝やけ

 

 

 

昨夜の眠りの よごれた死骸の上に

 

腰をかけてゐるのは だれ?

 

その深い くらい瞳から 今また

 

僕の汲んでゐるものは 何ですか?

 

 

 

こんなにも 牢屋(ひとや)めいた部屋うちを

 

あんなに 御堂のやうに きらめかせ はためかせ

 

あの音楽はどこへ行つたか

 

あの形象(かたち)はどこへ過ぎたか

 

 

 

ああ そこには だれがゐるの?

 

むなしく 空しく 移る わが若さ!

 

僕はあなたを 待つてはをりやしない

 

 

 

それなのにぢつと それのベツトのはしに腰かけ

 

そこに見つめてゐるのは だれですか?

 

昨夜の眠りの秘密を 知つて 奪つたかのやうに

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

Ⅹ 朝やけ

 

 

 

昨夜の眠りの よごれた死骸の上に

 

腰をかけているのは だれ?

 

その深い くらい瞳から 今また

 

僕の汲んでいるものは 何ですか?

 

 

 

こんなにも 牢屋(ひとや)めいた部屋うちを

 

あんなに 御堂のように きらめかせ はためかせ

 

あの音楽はどこへ行ったか

 

あの形象(かたち)はどこへ過ぎたか

 

 

 

ああ そこには だれがいるの?

 

むなしく 空しく 移る わが若さ!

 

僕はあなたを 待ってはおりやしない

 

 

 

それなのにじっと それのベットのはしに腰かけ

 

そこに見つめているのは だれですか?

 

昨夜の眠りの秘密を 知って 奪ったかのように

 

 

 

 

 

 

よごれた死骸と言うほどに

 

昨夜の眠りはうだうだとした潔(いさぎよ)くないものだったのだけれども

 

その残骸の上にやってきて

 

今また腰かけている(離れようとしない)女性の幻影。

 

 

 

暗い瞳に

 

僕は何を読み取ろうとしているのだろう?

 

 

 

 

 

 

音楽であった

 

美しい形象(すがた)は

 

牢屋(ろうや)のようなこの部屋を去って

 

どこへ行ってしまったのか。

 

 

 

 

 

 

そこに座っているのは誰なの?

 

 

 

僕は老いてしまったし。

 

 

 

あなたを待っていやしないよ。

 

 

 

 

 

 

それなのに黙って 

 

ベッドのはしに腰かけて

 

見つめているのは だれですか?

 

 

 

僕の昨夜の眠りの秘密を知って 

 

僕(の心)を奪ったかのようにしている

 

おまえ。

 

 

 

 

 

 

詩集の最終詩にしても

 

恋の終りは訪れようとしていないような。

 

 

 

甘やかさが無くなったのが

 

恋の終りを告げているような。

 

 

 

 

 

 

「朝やけ」は

 

「四季」1936年春季号に発表され

 

「暁と夕の詩」に収録されました。

 

 

 

立原道造が生前に発表した詩集の

 

最終詩ということになります。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

2017年2月13日 (月)

立原道造の詩を読む/「暁と夕の詩」の夜の歌「さまよひ」

 

 

夜の歌が続きます。

 

 

 

第9番詩「さまよひ」は

 

「暁と夕の詩」に初出しました。

 

 

 

雑誌・詩誌などのメディアへの発表の後に

 

詩集に収録されたのではなく

 

「暁と夕の詩」に初めて発表された

 

この詩集のために書かれた詩になります。

 

 

 

 

 

 

Ⅸ さまよひ

 

 

 

夜だ――すべての窓に 燈はうばはれ

 

道が そればかり ほのかに明(あか)く かぎりなく

 

つづいてゐる……それの上を行くのは

 

僕だ ただひとり ひとりきり 何ものをもとめるとなく

 

 

 

月は とうに沈みゆき あれらの

 

やさしい音楽のやうに 微風もなかつたのに

 

ゆらいでゐた景色らも 夢と一しよに消えた

 

僕は ただ 眠りのなかに より深い眠りを忘却を追ふ……

 

 

 

いままた すべての愛情が僕に注がれるとしたら

 

それを 僕の掌(て)はささへるに あまりにうすく

 

それの重みに よろめきたふれるにはもう涸ききつた!

 

 

 

朝やけよ! 早く来い――眠りよ! 覚めよ……

 

つめたい灰の霧にとざされ 僕らを凍らす 粗(あら)い日が

 

訪れるとき さまよふ夜よ 夢よ ただ悔恨ばかりに!

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

Ⅸ さまよい

 

 

 

夜だ――すべての窓に 燈はうばわれ

 

道が そればかり ほのかに明(あか)く よぎりなく

 

つづいている……それの上を行くのは

 

僕だ ただひとり ひとりきり 何ものをもとめるとなく

 

 

 

月は とうに沈みゆき あれらの

 

やさしい音楽のように 微風もなかったのに

 

ゆらいでいた景色らも 夢と一しょに消えた

 

僕は ただ 眠りのなかに より深い眠りを忘却を追う……

 

 

 

いままた すべての愛情が僕に注がれるとしたら

 

それを 僕の掌(て)はささえるに あまりにうすく

 

それの重みに よろめきたおれるにはもう涸ききった!

 

 

 

朝やけよ! 早く来い――眠りよ! 覚めよ……

 

つめたい灰の霧にとざされ 僕らを凍らす 粗(あら)い日が

 

訪れるとき さまよう夜よ 夢よ ただ悔恨ばかりに!

 

 

 

 

 

 

すべての窓に 燈はうばわれ

 

――というのは

 

家々の窓の灯りばかりは明るいことを歌っているでしょう。

 

 

 

あの灯りをほのかに映している道を

 

ひとり僕は歩いている。

 

 

 

先ほどまで見えていた月は

 

とっくに沈んでしまった……。

 

 

 

 

 

 

どのようにして眠りが僕を訪れたのでしょうか。

 

 

 

夜の中をさまよう魂が

 

深い眠りを追い忘却を追う。

 

 

 

心は涸ききって!

 

 

 

 

 

 

朝焼けよ!

 

 

 

眠りよ!

 

 

 

覚めよ

 

 

 

夜よ

 

 

 

夢よ

 

 

 

悔恨ばかりに!

 

 

 

――と叫んでいます。

 

 

 

 

 

 

最終行は謎めいた言葉使いですが

 

悔恨ばかりに

 

さまよう心のずたずた、なのか?

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

立原道造の詩を読む/「暁と夕の詩」の夜の歌「眠りのほとりに」

 

 

 

 

 

 

7番詩「溢れひたす闇に」を物語「鮎の歌」の結びの詩として配置したのは

 

鮎との別れが決定的になり完結(完成)し

 

その直後から夜の闇(絶望)が詩人をひた寄せたことを告げるためのもののようでした。

 

 

 

詩集「暁と夕の詩」は

 

8番詩「眠りのほとりに」

 

9番詩「さまよひ」と

 

夜の歌をよりいっそう悲痛に歌い

 

最終詩「朝やけ」でようやく暁を迎えます。

 

 

 

そのような配列で

 

時間軸に沿うかのような構成を示し

 

暗黒の夜からの脱出を歌うかのようです。

 

 

 

夜の歌を少し聴いてみましょう。

 

 

 

 

 

 

Ⅷ 眠りのほとりに

 

 

 

沈黙は 青い雲のやうに

 

やさしく 私を襲ひ……

 

私は 射とめられた小さい野獣のやうに

 

眠りのなかに 身をたふす やがて身動きもなしに

 

 

 

ふたたび ささやく 失はれたしらべが

 

春の浮雲と 小鳥と 花と 影とを 呼びかへす

 

しかし それらはすでに私のものではない

 

あの日 手をたれて歩いたひとりぼつちの私の姿さへ

 

 

 

私は 夜に あかりをともし きらきらした眠るまへの

 

そのあかりのそばで それらを溶かすのみであらう

 

夢のうちに 夢よりもたよりなく――

 

 

 

影に住み そして時間が私になくなるとき

 

追憶はふたたび 嘆息のやうに 沈黙よりもかすかな

 

言葉たちをうたはせるであらう

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

Ⅷ 眠りのほとりに

 

 

 

沈黙は 青い雲のように

 

やさしく 私を襲い……

 

私は 射とめられた小さい野獣のように

 

眠りのなかに 身をたおす やがて身動きもなしに

 

 

 

ふたたび ささやく 失われたしらべが

 

春の浮雲と 小鳥と 花と 影とを 呼びかえす

 

しかし それらはすでに私のものではない

 

あの日 手をたれて歩いたひとりぼっちの私の姿さえ

 

 

 

私は 夜に あかりをともし きらきらした眠るまえの

 

そのあかりのそばで それらを溶かすのみであろう

 

夢のうちに 夢よりもたよりなく――

 

 

 

影に住み そして時間が私になくなるとき

 

追憶はふたたび 嘆息のように 沈黙よりもかすかな

 

言葉たちをうたわせるであろう

 

 

 

 

 

 

射止められた小さな野獣が眠りに落ちようとしている――。

 

 

 

そこに現われる

 

春の浮雲と 小鳥と 花と 影と。

 

 

 

鮎(と特定してよいものでしょうか)と過ごした

 

高原の草地の情景。

 

 

 

漆黒の闇のなかに

 

音のない言葉が聞こえてきます。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月12日 (日)

立原道造の詩を読む/物語「鮎の歌」結びのソネット「溢れひたす闇に」

 

 

「暁と夕の詩」の7番詩「溢れひたす闇に」と物語「鮎の歌」は

 

「鮎の歌」の結びのソネットとして「溢れひたす闇に」が引用される関係です。

 

 

 

しかし「鮎の歌」には

 

「溢れひたす闇に」が拾い切れない物語(エピソード)が多量にありますから

 

単なる要約(ダイジェスト)でないことは言うまでもないことです。

 

 

 

 

 

 

「鮎の歌」は

 

鮎という女性とのめぐり逢いと別離の顛末(てんまつ)を記した物語ですが

 

その物語はすでに

 

「アンリエットとその村」と詩人が名づけた歌物語のパーツを構成していて

 

それ自体がフィクション(虚構)との境界を見極めがたい部分を含みます。

 

 

 

鮎から結婚するという知らせを受けた「僕」の悲しみから

 

絶望の日々を経て別離を受け入れ(確認する)までを

 

6章に渡って綴った散文の物語です。

 

 

 

第5章のシーンを少し読んでみましょう。

 

 

 

 

 

 

前章から続く物語の流れがありますから

 

部分を取り出して読む危険があるのを

 

断る必要はないことでしょうか。

 

 

 

前章では

 

鮎が結婚することを告げてきた手紙を焼き捨てるまでが

 

描かれていました。

 

 

 

その後、偶然にもか幻だったのか

 

手紙を焼いた丘を下る道すがら

 

鮎と出くわした最後の別れシーンになります。

 

 

 

そこで二人が交わす言葉――。

 

 

 

 

 

 

(おこっていらっしゃる?)

 

(いいえ、ちっとも……)

 

(……)

 

(僕は海を見て来た、それはすばらしかった、僕は旅をして来た!)

 

(私たちは今どんな風にしてお会いしているのか知っていらっしゃらないのね。いいえ、いいえ。なぜそんなおはなしをなさるの?)

 

(そしてひとつの岬であの花を見た、それはここに咲いているような淡い花ではなかった)

 

(なぜあなたはおこって下さらない? 私がどうなってしまうかわからないくらいに。それはあなたのやさしさでも何でもなくてよ。なぜあなたは私を見ていらっしゃるのにそんな青い海を見るような眼をなさるのだろう?)

 

(おまえはきょうもやはり僕があのころしていたように羊飼と娘の物語や星の物語をするのを待っているような眼をしている。しかしもう僕にはそれが出来ない……)

 

(あなたはなぜほんとうにおこって下さらない? どうしてそんなにしずかに私の方を見ていらっしゃるのですか? 白い鳩が私の肩にとまっているのですか? それとも私をお忘れになってしまったのですか?)

 

(おまえは死んでいたのだ、だが、死と別れとはちがうだろう。おまえがそんなやさしい眼で僕の眼を見ていても僕の心のなかを覗いていてもおまえはおまえの死はわからないだろう?)

 

 

 

(筑摩書房「立原道造全集」第1巻所収「鮎の歌」より。新かなに変え、改行を加えました。編者。)

 

 

 

 

 

 

この会話の後に

 

次のように書きつけられています。

 

 

 

 

 

 

 やっと僕はしあわせかどうかとたずねた。その答えは、どうかわからない。しあわせなのか……それともふしあわせなのかも知れないと言うのだった。僕は、悲しみのためにあわれにも痩せほそってしまった少女の腕を空想した、それをたしかめたいとおもった。そのとき鮎はちいさい獣のように身がるに身をひるがえして僕のそばを逃れた。鮎の家のまえに僕たちは立っていた。戸が重く開いてまた閉じられた。さよなら! の言葉もなしに。

 

 僕たちは別れた。

 

 

 

 

 

 

次章は最終の第6章で

 

その末尾に「溢れひたす闇に」が現われます。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月10日 (金)

立原道造の詩を読む/第2詩集「暁と夕の詩」から「溢れひたす闇に」

 

 

第2詩集「暁と夕の詩」の「失はれた夜に」の次にあるのが

 

7番詩「溢れひたす闇に」です。

 

 

 

 

 

 

Ⅶ 溢れひたす闇に

 

 

 

美しいものになら ほほゑむがよい

 

涙よ いつまでも かわかずにあれ

 

陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき

 

あのものがなしい 月が燃え立つた

 

 

 

つめたい!光にかがやかされて

 

さまよひ歩くかよわい生き者たちよ

 

己(おれ)は どこに住むのだらう――答へておくれ

 

夜に それとも昼に またうすらあかりに?

 

 

 

己は 嘗(かつ)てだれであつたのだらう?

 

(誰でもなく 誰でもいい 誰か――)

 

己は 恋する人の影を失つたきりだ

 

 

 

ふみくだかれてもあれ 己のやさしかつた望み

 

己はただ眠るであらう 眠りのなかに

 

遺された一つの憧憬に溶けいるために

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

Ⅶ 溢れひたす闇に

 

 

 

美しいものになら ほほえむがよい

 

涙よ いつまでも かわかずにあれ

 

陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき

 

あのものがなしい 月が燃え立った

 

 

 

つめたい!光にかがやかされて

 

さまよい歩くかよわい生き者たちよ

 

己(おれ)は どこに住むのだろう――答えておくれ

 

夜に それとも昼に またうすらあかりに?

 

 

 

己は 嘗(かつ)てだれであったのだろう?

 

(誰でもなく 誰でもいい 誰か――)

 

己は 恋する人の影を失ったきりだ

 

 

 

ふみくだかれてもあれ 己のやさしかった望み

 

己はただ眠るであろう 眠りのなかに

 

遺された一つの憧憬に溶けいるために

 

 

 

 

 

 

この詩は

 

立原道造が詩作と等しく創作に打ち込んでいた

 

物語の一つ「鮎の歌」(「新潮」1937年7月号)の

 

結びのソネットとしても登場します。

 

 

 

鮎は、信濃追分の本陣、永楽屋の孫娘で

 

弁護士、関一三の長女、関鮎子のこと。

 

 

 

恋人のような恋人ではないような

 

立原道造の詩や物語のヒロインの

 

モデルの一人でした。

 

 

 

 

 

 

たとえば第1詩集「萱草に寄す」「SONATINE No2」にある「夏の弔ひ」に

 

第2連、

 

投げ捨てたのは

 

涙のしみの目立つ小さい紙のきれはしだつた

 

――とある紙切れは

 

鮎からの手紙を関西旅行の途中

 

潮岬の海上で破り捨てた(小川和佑説)ことが

 

伝説的に伝わっている有名な事件の影でした。

 

 

 

この事件が1937年(昭和12年)8月にあり

 

「暁と夕の詩」が刊行されたのは

 

同年12月のことでした。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

立原道造の詩を読む/「ある不思議なよろこびに」/続「灼けた瞳」は誰の瞳か?

 

 

 

「ある不思議なよろこびに」は

 

立原道造と中原中也という二人の詩人の魂の交感を

 

立原道造の側から歌った詩と読めることになりますが

 

その詩はどこに存在するでしょうか? と問えば

 

「四季」1936年6月号誌上にある、というしかありません。

 

 

 

角川文庫の「立原道造詩集」にも

 

岩波文庫の「立原道造詩集」にも

 

角川書店「立原道造全集」にも

 

筑摩書房「立原道造全集」にも

 

「ある不思議なよろこびに」は1個の独立した詩として

 

紹介されることはありません。

 

 

 

目次に表記されることもなく

 

注釈の中で

 

そのような元詩(第1次形態)が存在したことが

 

明かされるだけです。

 

 

 

 

 

 

「立原道造全集」の解題によって

 

「ある不思議なよろこびに」を再現しておきましょう。

 

 

 

 

 

 

ある不思議なよろこびに

 

 

 

      戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら

 

      私はおまへのやさしさを思ひ……

 

                  ――中原中也の詩から

 

 

 

灼(や)けた瞳が 灼けてゐた

 

青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも

 

なかつた きらきらしては

 

僕の心を つきさした。

 

 

 

泣かさうとでもいふやうに

 

しかし 泣かしはしなかつた

 

きらきら 僕を撫(な)でてゐた

 

甘つたれた僕の心を嘗(な)めていた。

 

 

 

灼けた瞳は 動かなかつた

 

青い眸でも 茶色の瞳でも

 

あるかのやうに いつまでも

 

 

 

灼けた瞳が 叫んでゐた!

 

太陽や海藻のことなど忘れてしまひ

 

僕の心に穴あけて 灼けた瞳が 燻ってゐた

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

ある不思議なよろこびに

 

 

 

      戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら

 

      私はおまえのやさしさを思い……

 

                  ――中原中也の詩から

 

 

 

灼(や)けた瞳が 灼けていた

 

青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも

 

なかった きらきらしては

 

僕の心を つきさした。

 

 

 

泣かそうとでもいうように

 

しかし 泣かしはしなかった

 

きらきら 僕を撫(な)でていた

 

甘ったれた僕の心を嘗(な)めていた。

 

 

 

灼けた瞳は 動かなかった

 

青い眸でも 茶色の瞳でも

 

あるかのように いつまでも

 

 

 

灼けた瞳が 叫んでいた!

 

太陽や海藻のことなど忘れてしまい

 

僕の心に穴あけて 灼けた瞳が 燻っていた

 

 

 

 

 

 

句点を削除したほかに

 

第4連第1行

 

灼けた瞳が叫んでゐた!→灼けた瞳はしづかであつた!

 

 

 

第4連第2行

 

太陽や香のいい草のことなど→太陽や海藻のことなど

 

 

 

第4連第3行

 

僕の心に穴あけて 灼けた瞳が 燻ってゐた→ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた

 

 

 

――と、いずれも最終連に変更がほどこされました。

 

 

 

 

 

 

灼けた瞳が

 

中原中也のものであることが

 

ますます伝わってきますが

 

当たり前のことながらそれは

 

「ある不思議なよろこびに」という詩の中でのことであります。

 

 

 

「失われた夜に」という詩の中ででのことではありません。

 

 

 

詩集「暁と夕の詩」で「失われた夜に」にふれる時

 

灼けた瞳を女性のものと読むことは

 

自然の成り行きになります。

 

 

 

あ、これは、失恋の詩だ、と。

 

 

 

 

 

 

失われた恋の追憶と読むことを

 

限定しているというところで

 

「失われた夜に」は

 

「暁と夕の詩」の中に存在しているようです。

 

 

 

立原道造は

 

「暁と夕の詩」をそのように仕立てたのかどうか、

 

それは検討の余地を残しますが。

 

 

 

失われたものが

 

女性に限ったことではないということになれば

 

「暁と夕の詩」にアクセスする入口は広がりはじめます。

 

 

 

 

 

 

この項終わり。

 

 

 

 

 

 

2017年2月 9日 (木)

立原道造の詩を読む/「ある不思議なよろこびに」/「灼けた瞳」は誰の瞳か?

 

 

「失はれた夜に」は詩集「暁と夕の詩」に収録された時に

 

「ある不思議なよろこびに」のタイトルが変更され

 

題詞(エピグラフ)も同時に削除されました。

 

 

 

この変更によって

 

この詩に何が起こったでしょうか。

 

 

 

「ある不思議なよろこびに」を

 

読んでみましょう、

 

「失はれた夜に」ではない詩を。

 

 

 

 

 

 

ある不思議なよろこびに

 

 

 

      戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら

 

      私はおまへのやさしさを思ひ……

 

                  ――中原中也の詩から

 

 

 

灼(や)けた瞳が 灼けてゐた

 

青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも

 

なかつた きらきらしては

 

僕の心を つきさした

 

 

 

泣かさうとでもいふやうに

 

しかし 泣かしはしなかつた

 

きらきら 僕を撫(な)でてゐた

 

甘つたれた僕の心を嘗(な)めていた

 

 

 

灼けた瞳は 動かなかつた

 

青い眸でも 茶色の瞳でも

 

あるかのやうに いつまでも

 

 

 

灼けた瞳は しづかであつた!

 

太陽や香のいい草のことなど忘れてしまひ

 

ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

ある不思議なよろこびに

 

 

 

      戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら

 

      私はおまえのやさしさを思い……

 

                  ――中原中也の詩から

 

 

 

灼(や)けた瞳が 灼けていた

 

青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも

 

なかった きらきらしては

 

僕の心を つきさした

 

 

 

泣かそうとでもいうように

 

しかし 泣かしはしなかった

 

きらきら 僕を撫(な)でていた

 

甘ったれた僕の心を嘗(な)めていた

 

 

 

灼けた瞳は 動かなかった

 

青い眸でも 茶色の瞳でも

 

あるかのように いつまでも

 

 

 

灼けた瞳は しずかであった!

 

太陽や香のいい草のことなど忘れてしまい

 

ただかなしげに きらきら きらきら 灼けていた

 

 

 

 

 

 

この変化の重大な意味を

 

はじめはなかなか理解できません。

 

 

 

中原中也からの引用が消えたね

 

――程度のことをしか

 

はじめは理解しないはずですが。

 

 

 

詩集「暁と夕の詩」には

 

「ある不思議なよろこびに」はふさわしくなかったことに

 

やがて気づくことになるでしょう。

 

 

 

 

 

 

「ある不思議なよろこびに」をそのまま載せていては

 

「暁と夕の詩」のコンセプトにそぐわなかったのです。

 

 

 

コンセプトを言いかえれば

 

物語と呼んでよいかもしれません。

 

 

 

立原道造が

 

風信子(ヒヤシンス)叢書の第2冊として「暁と夕の詩」を編む過程で

 

「ある不思議なよろこびに」のタイトルとエピグラフは

 

他の詩など全体の構成に融和していないと考えたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

第1に

 

詩集「暁と夕の詩」は

 

女性との恋の記憶と別離の物語でなければならなかった、から。

 

 

 

第2に

 

本文をそのまま生かしたのは

 

「灼けた瞳」が女性であることを妨げるものではなかった、から。

 

 

 

このほかにも理由はあることでしょう。

 

 

 

 

 

 

「失はれた夜に」の元の形を知っていると

 

「灼けた瞳」の瞳に

 

中原中也の、あのキラキラした瞳がかぶさってきますが

 

そのように読んでもOKOK

 

立原道造は思ったことでしょう。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月 7日 (火)

立原道造の詩を読む/第2詩集「暁と夕の詩」から「失はれた夜に」続

 

 

灼けた瞳を

 

ある一人の女性のものと読んでよいでしょうか。

 

わざわざそう読まなくてよいでしょうか。

 

ならば、何と読めばよいでしょうか。

 

 

 

 

 

 

「失われた夜に」に初めてふれて

 

これを恋の終りのかなしみの歌と読むのは自然なことでしょう。

 

 

 

それにしても

 

どこまでもそこはかなくて雲の中を行くようです。

 

 

 

そう思わせることこそが

 

立原道造のねらいだったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

きらきら 灼けていた

 

――という瞳だけが

 

眠れない夜のしじまの中に浮んでいるようです。

 

 

 

女性の姿形(すがたかたち)の全体であるよりも

 

瞳が灼けていたことだけが

 

今、詩人の脳裏にあるようです。

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

失われた夜に

 

 

 

灼(や)けた瞳が 灼けていた

 

青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも

 

なかった きらきらしては

 

僕の心を つきさした

 

 

 

泣かそうとでもいうように

 

しかし 泣かしはしなかった

 

きらきら 僕を撫(な)でていた

 

甘ったれた僕の心を嘗(な)めていた

 

 

 

灼けた瞳は 動かなかった

 

青い眸でも 茶色の瞳でも

 

あるかのように いつまでも

 

 

 

灼けた瞳は しずかであった!

 

太陽や香のいい草のことなど忘れてしまい

 

ただかなしげに きらきら きらきら 灼けていた

 

 

 

 

 

 

失はれた夜に

 

 

 

灼(や)けた瞳が 灼けてゐた

 

青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも

 

なかつた きらきらしては

 

僕の心を つきさした

 

 

 

泣かさうとでもいふやうに

 

しかし 泣かしはしなかつた

 

きらきら 僕を撫(な)でてゐた

 

甘つたれた僕の心を嘗(な)めていた

 

 

 

灼けた瞳は 動かなかつた

 

青い眸でも 茶色の瞳でも

 

あるかのやうに いつまでも

 

 

 

灼けた瞳は しづかであつた!

 

太陽や香のいい草のことなど忘れてしまひ

 

ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた

 

 

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

この項終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

立原道造の詩を読む/第2詩集「暁と夕の詩」から「失はれた夜に」

 

 

立原道造の中原中也への追悼文「別離」を読んで

 

いま、空虚な気持ちがあるのは

 

立原道造の詩を読んでいないからであると気づきます。

 

 

 

というわけもありますから

 

幾つか読むことにしました。

 

 

 

 

 

 

立原道造が中原中也の「無題」から引用し

 

自らの詩「ある不思議なよろこびに」のエピグラフ(題詞)としたのは

 

「四季」1936年6月号でした。

 

 

 

この詩が

 

第2詩集「暁と夕の詩」に収録された時に

 

「失はれた夜に」と改題され

 

エピグラフも削除されました。

 

 

 

 

 

 

失はれた夜に

 

 

 

灼(や)けた瞳が 灼けてゐた

 

青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも

 

なかつた きらきらしては

 

僕の心を つきさした

 

 

 

泣かさうとでもいふやうに

 

しかし 泣かしはしなかつた

 

きらきら 僕を撫(な)でてゐた

 

甘つたれた僕の心を嘗(な)めていた

 

 

 

灼けた瞳は 動かなかつた

 

青い眸でも 茶色の瞳でも

 

あるかのやうに いつまでも

 

 

 

灼けた瞳は しづかであつた!

 

太陽や香のいい草のことなど忘れてしまひ

 

ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた

 

 

 

(岩波文庫「立原道造詩集」より。適宜、ルビを加えました。編者。)

 

 

 

 

 

 

【現代表記】

 

 

 

失われた夜に

 

 

 

灼(や)けた瞳が 灼けていた

 

青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも

 

なかった きらきらしては

 

僕の心を つきさした

 

 

 

泣かそうとでもいうように

 

しかし 泣かしはしなかった

 

きらきら 僕を撫(な)でていた

 

甘ったれた僕の心を嘗(な)めていた

 

 

 

灼けた瞳は 動かなかった

 

青い眸でも 茶色の瞳でも

 

あるかのように いつまでも

 

 

 

灼けた瞳は しずかであった!

 

太陽や香のいい草のことなど忘れてしまい

 

ただかなしげに きらきら きらきら 灼けていた

 

 

 

 

 

 

「ある不思議なよろこびに」には

 

タイトルに続いて、

 

 

 

戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら

 

私はおまへのやさしさを思ひ……

 

       ――中原中也の詩から

 

――と中也の詩「無題」の1節が引用されていました。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月 6日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/立原道造の「別離」という追悼・最終回

 

 

 これは「詩」である。しかし決して「対話」ではない、また「魂の告白」ではない。このやうな完璧な芸術品が出来上るところで、僕ははつきりと中原中也に別離する。詩とは僕にとつて、すべての「なぜ?」と「どこから?」の問ひに、僕らの「いかに?」と「どこへ?」との問ひを問ふ場所であるゆゑ。僕らの言葉がその深い根源で「対話」となる唯一の場所であるゆゑ。
 
(筑摩書房「立原道造全集」第5巻より。)

 

 

 

 

 

 

「別離」は

 

いよいよ最終段落へたどり着きます。

 

 

 

これは「詩」である。

 

しかし決して「対話」ではない、

 

また「魂の告白」ではない。

 

――という断定が飛躍のなかで行われ

 

この断定は「汚れつちまつた悲しみに……」という詩が

 

完璧な芸術品であるという理由によることが述べられます。

 

 

 

そして意外にも(?)

 

立原道造は

 

このような完璧な芸術品である詩との

 

別離を宣言するのです。

 

 

 

 

 

 

別離は目ざすべき詩のあり方(詩論)が

 

異なるところから生じることが宣言されますが

 

僕にとって、と立原道造が展開する詩論は

 

ここでも立原流のユニークなやや独断的な用語(詩法)によって

 

固められています。

 

 

 

立原は――。

 

 

 

すべての「なぜ?」と「どこから?」の問いに、

 

僕らの「いかに?」と「どこへ?」との問いを問う場所であり

 

僕らの言葉がその深いところで対話となる唯一の場所

 

――と詩のありかを説明します。

 

 

 

すべてのWhy? Where from? という問いに

 

僕らのHow? Where to? という問いを問う場所が詩でなければならないのは

 

そこでこそ対話が成り立つ唯一の場所であるからと述べるのです。

 

 

 

 

 

こう述べた後で

 

記される最後の段落の言葉は

 

これまで述べてきた反発(共鳴を含む?)と別離が繰り返されることを予見し

 

この繰り返しのなかでも親近する時があることを明かします。

 

 

 

 

 

 

 僕らの反発と別離は、くりかへされてやまないであらう。そして僕らが親近するのは、雑沓のなかで、ただ一度二重にかさなつただれもゐない氷の景色のまへで出会ふときだけ。そして、その出会を無力にする、「あれかこれか」の日に僕らは別離する。なぜならば、深い淵をあなたの孤高な嘆きが埋めつくし、あなたの倦怠が完成するゆゑに、言葉なき歌となるゆゑに。
(同。)

 

 

 

 

 

 

ここは重要なところですから

 

現代表記でも読んでおきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕らの反発と別離は、くりかえされてやまないであろう。そして僕らが親近するのは、雑沓のなかで、ただ一度二重にかさなっただれもいない氷の景色のまえで出会うときだけ。そして、その出会を無力にする、「あれかこれか」の日に僕らは別離する。なぜならば、深い淵をあなたの孤高な嘆きが埋めつくし、あなたの倦怠が完成するゆえに、言葉なき歌となるゆえに。
 

 

 

 

 

 

「汚れつちまつた悲しみに……」が投げ出された

 

あの雑沓のなかで一度は重なったことのある

 

だれもいない氷の景色の前での出会いが示されました。

 

 

 

過去にも現在にも未来にも

 

この出会いはあるであろうけれど

 

この出会いが無力になるのは

 

「あれかこれか」を互いに相手に迫るような時が訪れた時であり

 

そのような時には僕らは別離する。

 

 

 

その時こそは

 

(孤独の)深い淵をあなた(中原中也)の孤高の嘆きが埋めつくし

 

倦怠は完成し

 

言葉なき歌となる。

 

 

 

 

 

 

最後の最後で

 

「言葉なき歌」を誤解しているのは致し方のないことですが

 

目の覚めるような別離が宣言され

 

同時に魂の交感の時が明らかにされたことは

 

驚き以外のなにものでもありません。

 

 

 

このように

 

詩人・立原道造は詩人・中原中也と別離し

 

別離することで追悼としました。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/立原道造の「別離」という追悼・その3

 

 

倦怠のなかに寝ころんでしまった、というのなら親しみやすくありますが

 

復讐の中に寝ころんでしまった

 

――と立原道造が捉えた「汚れっちまった悲しみ」は

 

さらには、「涙の淵の深さ」へと捉え直されて飛躍し

 

反発の対象に成り代わります。

 

 

 

イロニーをイロニーのままで終わらせてはならないのですから

 

立原流に破壊する必要が生じたのでしょうし

 

反発はイロニーの壊し方の一つでした。

 

 

 

中原中也は「汚れっちまつた悲しみ」の詩人として

 

立原道造に捉え続けられ

 

「汚れつちまつた悲しみに……」という詩は

 

いっそう反発(と親近)の対象になっていきます。

 

 

 

 

 

 

 心のあり方をそのままうたひはしたが、あなたはすべての「なぜ?」と「どこから?」とには執拗に盲目であつた。孤独な魂は告白もしなかつた。その孤独は告白などむなしいと知りすぎてゐた。ただ孤独が病気であり、苦しみがうたになつた。だから、そのうたはたいへんに自然である。しかし、決して僕に対話しない。僕の考へてゐる言葉での孤独な詩とはたいへんにとほい。(ここでこの詩人が死んだのは今日と、ばかばかしい言葉をおもひ出したまへ。今日という言葉はだいぶ曖昧になる。ヴェルレーヌなどは昨日死に、カロッサは明日死ぬ。ではリルケやゲオルゲやニイチエはいつ死んだか。)

(筑摩書房「立原道造全集第5巻」より。)

 

 

 

 

 

 

「なぜ?」と「どこから?」が

 

立原道造独特の用語(思惟)のスタイルであって

 

その範囲内で中也は盲目的であったのかもしれませんが。

 

 

 

孤独な魂は告白をしなかったのだろうか?

 

告白のむなしさを知りすぎていたために告白しなかっただろうか?

 

孤独は病気だろうか?

 

苦しみ(ばかり)を歌っただろうか?

 

 

 

この段落の飛躍と断定には

 

ついていけないものがあります。

 

 

 

 

 

 

そうであるから――。

 

 

 

そうであるから自然であるという言い方には

 

そのようにレトリックも技術も(リリシズムさえも)認められないという

 

立原の志向が露出しています。

 

 

 

そのような自然であるならば

 

僕(立原)に対話して来ないし

 

このような詩は、孤独な詩と僕が考えるものではない。

 

 

 

 

 

 

詩人(中原中也)が死んだのは今日、という言い方の馬鹿々々しさ(俗な不正確さ)を

 

ここに( )付きで注釈するのは

 

今日という言葉の曖昧さへの言及が

 

まだ不足と感じたからでしょうか

 

先に、誰よりも先に復讐するのは、あなた、中原中也だと記した流れを

 

想起させたいからでしょうか。

 

 

 

 

 

 

飛躍を含んだロジックは

 

立原道造自ら意識した方法のようですから

 

「汚れつちまつた悲しみ」についての批評は

 

このロジックに沿ってさらに積み重ねられていきます。

 

 

 

そこで「汚れつちまつた悲しみに……」は

 

全行引用されます。

 

 

 

 

 


 

 

汚れっちまった悲しみに……

 

 

 

汚れっちまった悲しみに

 

今日も小雪の降りかかる

 

汚れっちまった悲しみに

 

今日も風さえ吹きすぎる

 

 

 

汚れっちまった悲しみは

 

たとえば狐の革裘(かわごろも)

 

汚れっちまった悲しみは

 

小雪のかかってちぢこまる

 

 

 

汚れっちまった悲しみは

 

なにのぞむなくねがうなく

 

汚れっちまった悲しみは

 

倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

 

 

 

汚れっちまった悲しみに

 

いたいたしくも怖気(おじけ)づき

 

汚れっちまった悲しみに

 

なすところもなく日は暮れる……

 

 

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月 4日 (土)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/立原道造の「別離」という追悼・その2

 

 

中原中也が鎌倉で絶命したころ

 

立原道造は肋膜炎を発症、

 

11月には信濃追分で静養しますが

 

止宿先の油屋旅館が火災になり

 

九死に一生を得るという災難に見舞われています。

 

 

 

建築事務所での仕事を

 

病をおして続けるなかで

 

堀辰雄論を書き

 

同じ頃に「別離」を書き

 

ともに「四季」6月号へ発表しました。

 

 

 

「別離」第2段落は

 

おそらくはベルレーヌやランボーらをイメージして

 

フランスの詩人が死んだ遠い昨日なら

 

日本の詩人あなた(中也)が死んだのは今日ということで

 

(こうして)二つを並べる無意味さのなかで

 

この文章が書かれたことが吐露されます。

 

 

 

 

 

 

 僕らはフランスの言葉でうたはれた近代の詩のいくつかを嘗て読んだ。あれはフランスの言葉で、

 

これは日本の言葉である。日本の言葉がこんな歌をうたった、つまりひとりの日本の詩人が。

 

フランスのあれらの詩人たちが死んだのはずつと昨日のことである。しかし日本のあなたが死んだのは今日である。僕の今書いた今日といふ言葉は大変に無意味である。そんなばかばかしさで、昨日と今日とを並べて言ふようなところで、この文章を書く。何かしらむなしく、だれかが復讐する。だれよりも先に、あなたが。

(筑摩書房「立原道造全集」第5巻より。)

 

 

 

 

 

 

昨日と今日とを並べるようなところで文章を書くことは

 

とてもむなしく

 

このむなしさを知る人は鋭敏にそれを感じ取り復讐する。

 

 

 

真っ先に復讐するのは詩人よ、あなただ。

 

 

 

 

 

 

立原道造の言おうとするところは

 

わかりやすいものではありません。

 

 

 

詩と散文(エッセイ)の間を

 

区別をしていないような飛躍の中に

 

詩人(中原中也)は今日死んだ、という時の

 

「今日」のあいまいさを

 

詩的に(厳密に?)ただそうとしているからでしょうか。

 

 

 

呼びかける相手が

 

「山羊の歌」の詩人に絞(しぼ)られたとき

 

幾分か馴染みやすい会話を聞いている感じになりますが

 

そもそも復讐という言葉は

 

どこからどのように引き出されてきたのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 心のなかに雨が降つてゐる。そして、詩人は帰郷した。それゆゑここはふるさとであり、「縁側には陽が当る。」そして「幸福は厩の中にゐる、藁の上に。」山羊は倦怠してゐる。「これがどうならうと、あれがどうならうと、そんなことはどうでもいいのだ。」と。詩集のこの前景はどれくらゐの深さの氷にささへられているだらうか。氷山は海のなかに沈んだ部分に水の表面に浮んだ部分の七倍もの容積を持つと言ふ。信じられていい伝説である。このやうなことを伝説とおもはせるのは山羊の歌をよんだあとの心のやうすである。そしてこの詩集の深さは、詩人の傷のふかさほどと言ふ。つまり復讐のはげしさ。何かしらこの世の中は気にいらない。しかし、そのなかに寝ころんでしまつた。あなたの「汚れつちまつた悲しみ」。僕はこの涙の淵の深さに反撥する。イロニイのもうひとつのものの壊し方である。

 

 

 

 

 

 

この段落は現代かなでも読みましょう。

 

改行も加えて。

 

 

 

 

 

 

 心のなかに雨が降っている。そして、詩人は帰郷した。それゆえここはふるさとであり「縁側には陽が当る。」そして「幸福は厩の中にいる、藁の上に。」山羊は倦怠している。「これがどうなろうと、あれがどうなろうと、そんなことはどうでもいいのだ。」と。

詩集のこの前景はどれくらいの深さの氷にささえられているだろうか。氷山は海のなかに沈んだ部分に水の表面に浮んだ部分の7倍もの容積を持つという。信じられていい伝説である。このようなことを伝説とおもわせるのは山羊の歌をよんだあとの心のようすである。

 

 

 

そしてこの詩集の深さは、詩人のふかさほどと言う。つまり復讐のはげしさ。何かしらこの世の中は気にいらない。しかし、そのなかに寝ころんでしまった。あなたの「汚れっちまった悲しみ」。

 

 

 

僕はこの涙の淵の深さに反発する。イロニイのもうひとつのものの壊し方である。

 

 

 

 

 

 

「帰郷」

 

「無題」

 

「盲目の秋」

 

――の一節をそれぞれ引用しますが

 

それは詩人の直観的な(部分的な)読みです。

 

 

 

「盲目の秋」ですらが

 

倦怠の声調が聞き取られた様子です。

 

 

 

そして次には

 

「詩集の前景の氷」に眼差しは向けられ

 

その深さが推し測られ

 

深さは氷山の沈んだ部分にたとえられ

 

この深さは復讐の深さであることが断定されます。

 

 

 

「山羊の歌」の深さが

 

復讐の一語にこうしてシンクロ(同期)していきます。

 

 

 

 

 

 

復讐とは

 

何かしらこの世の中が気にいらない

 

――というルサンチマン(感情)のことと指摘したいらしい。

 

 

 

そのルサンチマンのなかに寝ころんでしまった、のだ。

 

あなたの「汚れっちまった悲しみ」は、と。

 

 

 

 

 

 

詩集の前景(氷山)にあるものを

 

復讐と見た詩人は

 

この涙の淵の深さ(復讐)に反発し

 

自らの詩の方法にも触れようとしていきます。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月 3日 (金)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/立原道造の「別離」という追悼

 

立原道造が「別離」を発表したのは

1938年「四季」6月号(5月20日発行)。

 

中原中也が急逝して半年ほど後のことでした。

 

 

ときどきむなしい景色が眼のまへにひらける。僕らはたいへんに雑沓にゐる。しかし、そのときにすら、だれもゐない、倦怠と氷との景色は二重にかさなつて眼のなかにさしこんでゐる。僕らは脅かされ、そして慰められる。「山羊の歌」といふ詩集の題は雑沓にはふさわしくなく、たいへんに素朴に美しい、しかしその詩集もまた雑沓のなかにゐる。詩人の傷ついた淨らかさと、ふかい昏睡と悲しみと幻想と。そのような言葉で名づけられるものを群衆はおそらくはじき去る。そのとき、この本が雑沓のなかにあること、これはイロニイである。山羊の歌はたいへんにむなしい。このイロニイのようなところで倦怠がうたつている。倦怠といふ心のあり方は、その心の上でかなしいリズムや踊りを噛みしめてゐる。

(筑摩書房「立原道造全集」第5巻より。)

 

 

これは、「別離」書き出しの1段落です。

 

歴史的仮名遣いがもどかしいほどに

言葉のモダンなトーンに驚く人は少なくないに違いありません。

 

誤解を恐れずに言えば

この文体は現代に通じています。

 

詩人の書いた散文という理由もあるかもしれませんが

言葉に宿る内的なもの――。

 

追悼の意味もあったのでしょうけれど

中也の内部の声に

語りかけているような

詩人の声(文体)が新鮮です。

 

別離を告げているにもかかわらず

一時(いっとき)、中也の心を撃ったような。

 

 

現代表記で読み直してみましょう。

 

 

ときどきむなしい景色が眼のまえにひらける。僕らはたいへんに雑沓にいる。しかし、そのときにすら、だれもいない、倦怠と氷との景色は二重にかさなって眼のなかにさしこんでいる。僕らは脅かされ、そして慰められる。

 

「山羊の歌」という詩集の題は雑沓にはふさわしくなく、たいへんに素朴に美しい、しかしその詩集もまた雑沓のなかにいる。詩人の傷ついた浄らかさと、ふかい昏睡と悲しみと幻想と。そのような言葉で名づけられるものを群衆はおそらくはじき去る。そのとき、この本が雑沓のなかにあること、これはイロニイである。

 

山羊の歌はたいへんにむなしい。このイロニイのようなところで倦怠がうたっている。倦怠という心のあり方は、その心の上でかなしいリズムや踊りを噛みしめている。

(同。改行を加えました。編者。)

 

 

立原道造が語っているのは

「山羊の歌」の詩人のようです。

 

その詩人の、傷ついた浄らかさ、深い昏睡と悲しみと幻想とが

雑沓に投げ出されてあり

雑沓の中では群衆に弾き返されてしまうであろうことの

イロニーを語りはじめる胸には

ふるえのようなものがあります。

 

都会の雑沓に育ち

幾分かそれを忌避して生きてきた詩人の眼差しは

イロニーのようなところで

倦怠を歌うことのむなしさを述べ

「別離」を語り出します。

 

 

三好達治が「詩集『在りし日の歌』」を著わし

少し遅れた追悼とした少し前に

「別離」を立原道造は書きました。

 

何かしら、先を急ぐような詩人のこころがただよう

このエッセイを読みましょう。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

2017年2月 1日 (水)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評・その3

 

三好達治の「詩集在りし日の歌』」というタイトルの批評文冒頭部の

後半部を読みましょう。

 

前半部で

中也の詩人としての出発に

ダダイズムの影響があったことが指摘されました。

 

ダダイズムは破調、破格も

一つの方法でしたが

三好達治は中也の詩にたびたび現れる破調、破格を

自己矛盾的な破壊作業と断じ

さらに断言は強い声調を帯びます

 

 

中原中也の詩歌のほとんどが

絶望と苦悩の、

聞き手もない淋しい孤独者の挽歌であった。

 

孤独なのは

思想が深遠なためでも、高邁(こうまい)なためでもなさそうである。

 

中原中也は、深遠とか、高邁とかを目ざして

自らを愛護し、発展させ成長させて高所に至った、というような詩人ではなかったのだから。

 

最初から、歌の外の一切を見失った詩人だった。

(歌にしか活路はなかった。)

 

出発当時を知らないから想像しがたいのだが

この詩人にはありきたりな変化や発展というものが起こりようがなかったのであろう。

(正統の学問をしなかったことを三好は言っているのだろうか?)

 

そのために30歳になっても20歳の日の「在りし日の歌」を歌い続けていた。

 

こうして中原中也の詩歌は

独自の、一種深沈たる趣をそなえて

成年者の悲哀と同時に壮年者のもの足りなさを含めた

奇妙な、そして奇妙ななりに確乎とした

抒情的詩境に達したのである。

 

 

独自で、深沈たる趣があり

成年者の悲哀も、壮年者のもの足りなさも(歌い込まれ)

奇妙であり確乎とした

抒情的詩境に達した

――というこのくだりは

中也詩の抒情の成立(過程)やありかを

三好が積極的に肯定している部分です。

 

こういうところで

三好は中也を認めざるを得なかったのですし

個々の詩を「根こそぎ否定する」わけにはいきませんでした。

 

そして続けます。

 

 

そうなのだ。

 

中原中也の詩の第一の魅力は

確乎とした、中原中也の主観にあり

悲哀の重量にある。

 

(この)一本調子の、単一な、

純粋な詩境を保持した

自信に満ちた詩人が存在したことは

驚異であり、称賛に値する。

 

中原中也は、自信を秘かに胸の奥に持っていたのだ。

 

それは生活の一挙一動、作品を見ればわかる。

 

(私が)不可解と先に言った

調子の破格、詩語の唐突な使用などは

この自信の結果であり

主我的な見解の偏狭さから生じているのかも知れない。

 

 

――と結んでいます。

 

三好には

エゴイスティック(主我的)なものの見方の狭さが受け入れがたく

何かしら「学問」みたいなもの

高度な教養みたいなものが

詩人には必要なのだと言いたくて仕方のないような

流れの結語です。

 

この流れの中に

幾分かは肯定的評価が含まれているところは

ほとんど相容れることのなかった二人の詩人に

響き合うものがあったことを示しますから

よろこばしいことと言うべきでしょう。
 

この結語が

なんとも迫力に欠けるものであるにしても。

 


 

個々の詩への

三好達治の親近の度合いが

この後、具体的に述べられたのは

先に読んできた通りです。
 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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