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2017年2月21日 (火)

立原道造の詩を読む/第2詩集「暁と夕の詩」の成り立ち・その3/風信子(ヒヤシンス)の苦悩

 

 

素手で詩を読む限界というものがあるでしょう。

 

 

 

そういうような場合に

 

背景とか環境とか状況とか

 

その詩を生んだ外的な契機とは別の

 

内的な動機を知り得れば

 

詩の中へよりいっそう親しく入り込むことが可能になります。

 

 

 

詩集「暁と夕の詩」をひもとくための重要な記述を

 

詩人自身が残してくれています。

 

 

 

 

 

 

失はれたものへの哀傷といい、何かしら疲れた悲哀といひ、僕の住んでいゐたのは、光と

 

闇との中間であり、暁と夕との中間であつた。形ないものの、淡々しい、否定も肯定も中止

 

された、ただ一面に影も光もない場所だつたのである。人間がそこでは金属となり結晶質

 

となり天使となり、生きたる者と死したる者との中間者として漂う。死が生をひたし、僕の生

 

の各瞬間は死に絶えながら永遠に生きる。すべてのものは壊されつくしている、果敢ない

 

清らかな冒険を言ひながら、僕がすべてのものを壊しつくしてその上に漂つた、と僕の心

 

がささやく。おそれとおののきとが、むしろ親しい友である、尖らされた危ない場所だつた、

 

と今の僕の心は何かさびしげにことあげする

 

 

 

 

 

 

これは「四季」1938年1月号、12月20日)発表された

 

随想「風信子🉂」の記述の一部です。

 

 

 

このような激しい内的興奮(おそれとおののき)を経て

 

詩集「暁と夕の詩」は生み落されました。

 

 

 

これは通常では

 

苦悩と呼ぶようなことではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

一度死んだ者は、二度生きねばならない。生よりも死について知つているからこそ生きて

 

ゐられると、もの忘れよと吹く南風をたのむな。決意と拒絶という二つの言葉が生きるとい

 

う事実にむかひあふ、生きるとは、限りなく愛し、限りなく激しくあることだと。光が誘う。ここ

 

に出発がある、たつた一度の意味で。おまへが死のうと生きようと、僕は生きていたいの

 

だ! と。

 

 

 

 

 

 

同じ文の中では

 

さらにこのように激しく

 

自らへ、あるいは、親しい人たちへ告白するかのように

 

訴えました――。

 

 

 

 

 

 

第1詩集「萱草に寄す」の

 

甘やかな調べは

 

どこへ行ってしまったのか。

 

 

 

不思議に感じていたものが

 

一気に溶けだしていくような

 

ショックを覚えざるを得ません。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

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