中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/立原道造の「別離」という追悼・最終回
これは「詩」である。しかし決して「対話」ではない、また「魂の告白」ではない。このやうな完璧な芸術品が出来上るところで、僕ははつきりと中原中也に別離する。詩とは僕にとつて、すべての「なぜ?」と「どこから?」の問ひに、僕らの「いかに?」と「どこへ?」との問ひを問ふ場所であるゆゑ。僕らの言葉がその深い根源で「対話」となる唯一の場所であるゆゑ。
(筑摩書房「立原道造全集」第5巻より。)
◇
「別離」は
いよいよ最終段落へたどり着きます。
これは「詩」である。
しかし決して「対話」ではない、
また「魂の告白」ではない。
――という断定が飛躍のなかで行われ
この断定は「汚れつちまつた悲しみに……」という詩が
完璧な芸術品であるという理由によることが述べられます。
そして意外にも(?)
立原道造は
このような完璧な芸術品である詩との
別離を宣言するのです。
◇
別離は目ざすべき詩のあり方(詩論)が
異なるところから生じることが宣言されますが
僕にとって、と立原道造が展開する詩論は
ここでも立原流のユニークなやや独断的な用語(詩法)によって
固められています。
立原は――。
すべての「なぜ?」と「どこから?」の問いに、
僕らの「いかに?」と「どこへ?」との問いを問う場所であり
僕らの言葉がその深いところで対話となる唯一の場所
――と詩のありかを説明します。
すべてのWhy? Where from? という問いに
僕らのHow? Where to? という問いを問う場所が詩でなければならないのは
そこでこそ対話が成り立つ唯一の場所であるからと述べるのです。
こう述べた後で
記される最後の段落の言葉は
これまで述べてきた反発(共鳴を含む?)と別離が繰り返されることを予見し
この繰り返しのなかでも親近する時があることを明かします。
◇
僕らの反発と別離は、くりかへされてやまないであらう。そして僕らが親近するのは、雑沓のなかで、ただ一度二重にかさなつただれもゐない氷の景色のまへで出会ふときだけ。そして、その出会を無力にする、「あれかこれか」の日に僕らは別離する。なぜならば、深い淵をあなたの孤高な嘆きが埋めつくし、あなたの倦怠が完成するゆゑに、言葉なき歌となるゆゑに。
(同。)
◇
ここは重要なところですから
現代表記でも読んでおきましょう。
◇
僕らの反発と別離は、くりかえされてやまないであろう。そして僕らが親近するのは、雑沓のなかで、ただ一度二重にかさなっただれもいない氷の景色のまえで出会うときだけ。そして、その出会を無力にする、「あれかこれか」の日に僕らは別離する。なぜならば、深い淵をあなたの孤高な嘆きが埋めつくし、あなたの倦怠が完成するゆえに、言葉なき歌となるゆえに。
◇
「汚れつちまつた悲しみに……」が投げ出された
あの雑沓のなかで一度は重なったことのある
だれもいない氷の景色の前での出会いが示されました。
過去にも現在にも未来にも
この出会いはあるであろうけれど
この出会いが無力になるのは
「あれかこれか」を互いに相手に迫るような時が訪れた時であり
そのような時には僕らは別離する。
その時こそは
(孤独の)深い淵をあなた(中原中也)の孤高の嘆きが埋めつくし
倦怠は完成し
言葉なき歌となる。
◇
最後の最後で
「言葉なき歌」を誤解しているのは致し方のないことですが
目の覚めるような別離が宣言され
同時に魂の交感の時が明らかにされたことは
驚き以外のなにものでもありません。
このように
詩人・立原道造は詩人・中原中也と別離し
別離することで追悼としました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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