立原道造の詩を読む/第2詩集「暁と夕の詩」の成り立ち・その2/不思議なジグザグ
この本がイメージとなつて凝りかけた夏の日から今、かうしてひとつの物体になり終へて机
の上におかれる冬の夜までに、その短い間に、僕の生は、全く不思議なジグザグを描い
た。
――とある「不思議なジグザグ」とはどのようなものだったか?
1937年の夏から冬の間の
立原道造の足取りを年譜で見てみましょう。
立原道造は7月30日生まれですから
24歳になって以後、半年の軌跡になります。
◇
1937年((昭和12年)。
4月に石本建築設計事務所に就職し
日々、建築図面を書いて生計を立てていました。
6月5日。
水戸部アサイを誘い、日帰りで軽井沢に行く。
追分駅近くの草むらで水戸部にプロポーズした。
7月はじめに
第1詩集「萱草に寄す」が刊行されました。
奥付は5月12日付けとなっていましたから
2か月ほど遅れたことになります。
「文芸」7月号に「溢れひたす闇に」発表。
「四季」8月号(7月20日)に詩「不思議な川辺で」、「編輯後記」発表。
軽井沢での避暑に出かける室生犀星に頼まれ
7月19日から大森馬込の犀星邸(魚眠洞)に住み
ここから勤務先の石本建築事務所へ通勤する。
9月上旬まで。
この間、8月5日には軽井沢の油屋で行われた「四季」の会へ参加。
土曜日の午後に上野を発ち
月曜日の朝帰京しそのまま出勤する日を繰り返した。
9月12日付け 「都新聞」に詩「真冬のかたみに」発表。
夏、徴兵検査、丙種不合格。
身長175センチ、体重49キロ。
この頃、キルケゴール「反覆」を読み、物語「鮎の歌」の最終章を下書き(未発見)。
「やがて秋に……」を「四季」10月号(9月20日)に発表。
10月、肋膜炎。
医師から安静を命じられ、建築事務所を欠勤。1か月自宅で静養。
10月22日、中原中也死去。
24日の葬儀に病を押して参列しました。
室生犀星を訪問した後、休養を兼ねて軽井沢の油屋に滞在中の11月19日、
油屋が全焼。九死に一生を得るという災難に遭遇しました。22日帰京。
12月上旬、丸山薫から「暁と夕の詩」の広告文を受け取ります。
かねて待望していたものでした。
12月上旬、神保光太郎の結婚披露宴に列席。
12月20日、「暁と夕の詩」発行。
9月に刊行予定でした。
12月、神保光太郎の住む浦和に「ヒアシンス(風信子)ハウス」を計画。
「四季」(1938年1月号、12月20日)に詩「初冬(けふ 私のなかで)」、随想「風信子
[二]」発表。
年明けて1938年1月16日。
「暁と夕の詩」の出版記念「風信子の会」が銀座で開催されました。
「四季」「未成年」同人ら25人が出席。
建築事務所の職員、水戸部アサイとの結婚話が進んでいます。
中原中也への追悼文「別離」、堀辰雄論「風立ちぬ」を発表したのは
「四季」6月号(5月20日発行、第37号)でした。
◇
以上、筑摩書房「立原道造全集」第5巻巻末の年譜のほか、
一部、岩波文庫「立原道造詩集」年譜を参照しました。
「暁と夕の詩」の成り立ちを知る
一つの手がかりになることでしょう。
◇
つづく。
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