中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/立原道造の「別離」という追悼・その3
倦怠のなかに寝ころんでしまった、というのなら親しみやすくありますが
復讐の中に寝ころんでしまった
――と立原道造が捉えた「汚れっちまった悲しみ」は
さらには、「涙の淵の深さ」へと捉え直されて飛躍し
反発の対象に成り代わります。
イロニーをイロニーのままで終わらせてはならないのですから
立原流に破壊する必要が生じたのでしょうし
反発はイロニーの壊し方の一つでした。
中原中也は「汚れっちまつた悲しみ」の詩人として
立原道造に捉え続けられ
「汚れつちまつた悲しみに……」という詩は
いっそう反発(と親近)の対象になっていきます。
◇
心のあり方をそのままうたひはしたが、あなたはすべての「なぜ?」と「どこから?」とには執拗に盲目であつた。孤独な魂は告白もしなかつた。その孤独は告白などむなしいと知りすぎてゐた。ただ孤独が病気であり、苦しみがうたになつた。だから、そのうたはたいへんに自然である。しかし、決して僕に対話しない。僕の考へてゐる言葉での孤独な詩とはたいへんにとほい。(ここでこの詩人が死んだのは今日と、ばかばかしい言葉をおもひ出したまへ。今日という言葉はだいぶ曖昧になる。ヴェルレーヌなどは昨日死に、カロッサは明日死ぬ。ではリルケやゲオルゲやニイチエはいつ死んだか。)
(筑摩書房「立原道造全集第5巻」より。)
◇
「なぜ?」と「どこから?」が
立原道造独特の用語(思惟)のスタイルであって
その範囲内で中也は盲目的であったのかもしれませんが。
孤独な魂は告白をしなかったのだろうか?
告白のむなしさを知りすぎていたために告白しなかっただろうか?
孤独は病気だろうか?
苦しみ(ばかり)を歌っただろうか?
この段落の飛躍と断定には
ついていけないものがあります。
◇
そうであるから――。
そうであるから自然であるという言い方には
そのようにレトリックも技術も(リリシズムさえも)認められないという
立原の志向が露出しています。
そのような自然であるならば
僕(立原)に対話して来ないし
このような詩は、孤独な詩と僕が考えるものではない。
◇
詩人(中原中也)が死んだのは今日、という言い方の馬鹿々々しさ(俗な不正確さ)を
ここに( )付きで注釈するのは
今日という言葉の曖昧さへの言及が
まだ不足と感じたからでしょうか
先に、誰よりも先に復讐するのは、あなた、中原中也だと記した流れを
想起させたいからでしょうか。
◇
飛躍を含んだロジックは
立原道造自ら意識した方法のようですから
「汚れつちまつた悲しみ」についての批評は
このロジックに沿ってさらに積み重ねられていきます。
そこで「汚れつちまつた悲しみに……」は
全行引用されます。
◇
汚れっちまった悲しみに……
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む
汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
途中ですが
今回はここまで。
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