新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/「虐殺史」の苦しみ
虐殺史というタイトルは
詩を書くという仕事(営み)の瞬間瞬間が
いかに苦痛に満ちたものであるか
その上、プロフェッショナルに貫き通すことが
いかに困難であるかを
誇張したもののように見えますが
きっとオーバー(過剰)でもなんでもない
ストレートな表現だったのだということがわかってきました。
歌う詩から考える詩へ、
<われ>から<われわれ>へ、と
「荒地」の詩人たちが唱える時代に
若き詩人、新川和江は自らをシンクロしようとした形跡があります。
そこのところを
詩人は、
この詩で私が、この世を<暗き世>と言っているのは、この世を荒地と見做している先鋭
的な詩人たちの思想や理念に、幾分染まっていたのかも知れない。
――と後年、記しています。
(「詩の履歴書」所収「プロクラステスの寝台」より。)
◇
では、その<暗き世>は
この詩にどのように捉えられているでしょうか。
第1連に、
諦念の魚のごとく
――とあり
終連に、
とつくにびと
――とある
「ごとく」という直喩で捉えられた位置から
詩人に見えた世界に
それは他なりません。
それは第2連の
夢の中で「プロクラステスの寝台」として
現われるものでした。
◇
俎板の上に横たへられし
諦念の魚のごとく
今宵も疲れはてし此の身を
つめたき臥床(ふしど)に横たへぬ
――という第1連の詩行の
くどいように繰り返される同義反覆。
俎板に横たえられた
諦念の魚。
疲れ果てた身を
冷たいベッドに横たえて
見る夢。
◇
これらが終連では、
かの遠き世の道ゆく“とつくにびと”のごとく
罪なきにとらはれの身ぞ われは。
――と、無実の罪を負う囚われの身が見る世界へ繋がります。
第1連の諦念の魚は
夢が覚めて後も
異邦人が見る景色へといつしか繋がっています。
◇
プロクラステスの寝台は
夢の中で見る虐殺ですが
第1連も終連も
夢の外の現実の世界の
詩人が存在する位置からの眺めです。
その現実も夢も
境がいつしか消えるような
錯覚が起こるのは
第1連のはじめから
俎板の上に載せられた魚という比喩が
現実離れした拷問のようで
それですでにプロクラステスの寝台に載っているようなことだからです。
◇
詩作が
実りの風景をいっこうに見ないままに
苦しみの道のりが
ひたすら訴えられる詩が作られたわけが
少しでも見えてきましたでしょうか。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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